Apocalypse

-かにぱん黙示log- かにぱんブログだから略して蟹風呂?

( ゚Д゚)フォオオオ!!!
やべぇ、ツバサが面白い。
CLAMPの漫画。
ツバサは週間マガジンに連載されてて、それと物語がリンクする「XXXHOLIC」っていう
漫画がヤンマガ連載されてる。リンクとかすごい。
同時に別の雑誌で連載中の漫画と話がリンクしてるって
斬新だ。
少なくとも私は今までにそんなの読んだ事なかったな。

でもCLAMPの漫画が面白いのが多いのは知ってた。
ちょびっツとかWISHとかは、王道でありがちな感じがあったけど
Xは終末系としては新しい概念が盛り込まれてて面白かった。
聖伝は世界観が独特だったし、個人的にもこなあぱぱの作画は好き。
レイアースはちょっと子供向けな感じでそこまでハマりはしなかったけど、
東京バビロンとかCLAMP探偵団とかは割と好きだった。

そして、気になっていたツバサ1〜6巻を、
中古で買ったのだ。
さっそく読んで、一気に世界に引き込まれてしまった。

キャラクター設定もいい。
それぞれにそれぞれの生きた背景があって、性格とかも立ってる。
世界観もやはり独特。
なんつーかパラレルワールドを飛び回る感じだな。
そもそも、漫画自体が、これまでのCLAMP作品というパラレルワールドを
飛びまわっている。
なんせ、Xのキャラとか1巻で普通に出て来る。
その後もまた別のXキャラ出てくるし、ちぃまで出てきたし、とにかく
CLAMPネタに関しては何でもアリ。
今までもCLAMP漫画で、作品は違うのに同じ名前の人が出るとか結構あったけど
(もこなとか出すぎ)今回はかなり派手にやってるというか、
それを最大限生かす方向で。うん。
主人公は、多くの世界を旅しなきゃならない。
そして行く先々でいろいろな出来事にぶつかりつつ目的を達成していく。
多くの世界に多くのキャラクター。
そして、そのキャラクター達は、他の世界で同じ姿の別の人格も持つ
キャラクターになっていたりする。
それが更に別の漫画にまで出張している…!
やばい、すごすぎる。
ここまであからさまにこういう設定を使って漫画を描いているのは
CLAMPだけなんじゃないだろうか…
それぞれの世界が独特でキャラも独特だから引き込まれる。
そうやって愛着が湧いたキャラが、いろいろなところに何度も出てくる。
それがCLAMPクオリティー…ってやつだな…

かなり触発された。
なんつーか、自分もいい漫画描いてみたいと思った。

今までにわしが描いた漫画って言ったら…

・Precious(←タイトルね、これ)
妖精が経営する診療所…彼らはその不思議な歌声で、人々の心の傷を癒す。

・螺旋
手で触れることで、あらゆる動植物を殺してしまう能力を持った少女の苦悩と
彼女を支えようとした少年の物語

・なりゆきまかせ
猫に姿を変えられてしまった某国の王子とその仲間たちの冒険を描いた長編(未完)

・タイトル忘れた
右手が木になってしまった男。
偶然出会った少女は「妖樹」という種族のおちこぼれだった。
元の生活を取り戻すために二人は、冒険に出るが
そこには二人の運命を握る隠された大きな悪意があった……

・タイトル忘れた
夏休み…「幽霊屋敷」に忍び込んだ少年二人が出会ったのは
ヴァンパイアとしての最後の生き残りの少女だった


てな感じだな…
さわりだけ書いたけど。
どうせだから、頭の中にある、これらのストーリーを
形にして残しておきたいのだが、時間がない…
否、時間は作るものだ…

とにかく、今日はツバサが面白かった。



ツバサ―RESERVoir CHRoNiCLE (1) 少年マガジンコミックス

※この記事について。
これは「児童文学論」という授業で提出したレポートです。
が、blogで本を紹介するにあたっては、ネタバレに当たる部分はなくしたいと思い
部分的に書き直しました。

できればこの本は、まったくの事前情報ナシで読んで頂きたいところではあります。
しかし、私は自分の感想も伝えたいので、「感想」の部分を強調した
紹介文になるようにしたつもりです。


[作品紹介]
社会にうずまく悪や欲望、苦痛や悩みなどがすべてとりはらわれた理想社会
――喜怒哀楽の感情が抑制され、職業が与えられ、
長老会で管理されている規律正しい社会――

<記憶を受け継ぐ者>に選ばれた少年ジョーナスが暮らすコミュニティーは、
ユートピアのはずだった。けれども、理想の裏に隠された無味乾燥な社会の
落とし穴に<記憶を伝える者>とジョーナスが気付いたとき、そこに暮らす人々が
失っている人間の尊厳にまつわる記憶の再生を計ろうとする。

[主要人物紹介]
ジョーナス(主人公)…「11歳の儀式」で<記憶を受け継ぐ者>に選ばれる
記憶を伝える者…ジョーナスに記憶を伝える、前代の<記憶を受け継ぐ者>
ジョーナスの家族…父・母・妹のリリー
ゲイブリエル…ジョーナスの家で預かっている新生児

[世界観]
作品紹介にもあるように、ジョーナスの暮らすコミュニティーは
完全に「画一化」された、安全で「予測可能」な社会だ。
戦争や犯罪とは無縁だし、毎日の暮らしに不安を持つ市民はいない。
生まれてから死ぬまで、市民は定められたとおりに生きるだけで良い。
ルールさえ守っていれば、一定の年齢に達したときに必ず何らかの職業が
与えられるし、誰もが結婚して一人か二人の子供を育てることになっている。
自分の人生がどうなるのかわからないという不安に悩むことはないのだ。
ただし、そこには欠如しているものも少なからずある。
それこそがこの物語の重要な主題へと繋がっているのである。
どこか哀しく、そして恐ろしささえも感じてしまう、そんな世界が描かれている。


[考察1 児童文学というジャンルから]
 児童文学というジャンルに、明確な定義はあるのだろうか。
その点については意見の分かれるところだろうが、
特徴や定義に近いものはいくつかあると思う。
 たとえば作者自身が特定の若年齢層を対象として書いたものなら、児童文学と言えるのではないか、
とか、主人公が幼いかもしくは若く、主人公の成長を描いた作品は児童文学なのではないか…
などと言うことはできる。
 この作品の場合、「中央児童福祉審議会推薦図書」という肩書きを持っているし、
講談社の「ユースセレクション」という中学生〜高校生向けの訳本のシリーズとして出されている。
また、主人公のジョーナスは若いし、明らかに記憶を受け継ぐという体験を以って成長をする。
それも、自分の住むコミュニティーの、同年代の子供たちのうち、誰よりも人間らしく成長することになるのである。
そういう意味においてもこの本は「児童文学」という位置付けができるかもしれない。
 しかし私はこの本を読んだとき高校3年で、そのときの印象として、
「これは本当に児童向けといっていいのだろうか!?」というのがあった。
テーマが壮大だし、読んだ後、何だか空恐ろしくさえなったからだ。
それは「安心して暮らしているときは気付かなかったことを気付かされたから」だと思う。
児童文学といわれる本の特徴として、普通こういうものは挙がらない。
子供が本を読んで何かを知る、ということはいくらでも起こり得ることだ。
むしろ、人間全体が本から沢山の知識を得ながら生きている。
しかし、それらの知識は「安心して生きていくため」にあるようなものであって、
決してそれを妨げるものではない。この本はそれを覆す。
ジョーナスのコミュニティーの市民が、みんな安心して暮らしていながら、その実、
我々の目から見たらぞっとするような世界に生きているように、
我々自身がそういう立場にある可能性がある。
この本を読んでいると、そのことにハッと気付かされる瞬間が訪れる。
 中・高生にもなると、自分の生きている社会の仕組みや秩序を理解し始める。
ましてや日本のように安全な国で、守られて生きてきたらその社会に疑問を抱くことはなかなかない。
若いうちは「なんでこんなに勉強しなきゃいけないんだろう!?」と思う程度だ。
しかし、この本はそのような環境に生きてきた、そのような時期の人間が読むと
「まさか自分の暮らす社会も、この本に出てくるコミュニティーのように、
住んでいる人には気付かない嘘で作り上げられているのではないか」
と思うに至る。児童書というには、かなり発展的なのである。


[考察2 本というメディア]
 「本」という活字メディアの威力を思い知ったのも、この作品によってであった。
 活字の強みというのは、現実にありえないことでも、うまく言葉で描写されてさえいれば、
あとは読み手の想像力だけで、あたかもそういう出来事が起こっているかのように頭の中で
「見る」ことができる、ということであろう。
SFというのは、それを楽しむジャンルの文学作品であると考えられる。
 あとがきにもあるように、この本を読み始めるとき、読者はごく自然にそのコミュニティーを
我々が暮らしている社会と同じように想像する。
そこには一見特異性が見当たらないからだ。
しかし読み進めるうちに、自分の想像とコミュニティーの実態とには、大きな違いがあることに気付き始め、
それと同時に自分が考えている「普通」ということがいかにあやふやかということにも気付く。
コミュニティーの人々が自分の暮らす社会を普通だと思っているのと同じように、
我々は自分達の属す社会を普通だと考えている。
しかし、違う立場からみたら異常であるかもしれない、という可能性についても同じなのである。
   (中略)
 そのことを気付かせるキッカケはジョーナスに現れた「異変」の正体を知るのと同時である。
 自分の住む世界だけは安全で普通だという考え方には、実はなんの根拠もないのである。
本の中にあるのは、活字であって、それは目で見えない世界。
だからこそ読者は意外な展開に驚き、自分の世界のことをも振り返るのである。


[考察3 歴史・記憶]
 人間には、ほかの動物と違って理性が備わっていて、他の動物にはない精緻で複雑な体系を持つ
「言語」で、時間と空間を「歴史」的に認識することができる。
個人においてはその「歴史」は「記憶」と言い換える事が出来る。
私の歴史は私の記憶であり、逆もまたそうである。
 そして個人の力では把握しきれない、この世界の歴史というものもあって、
それはいままでのことであり、これからのことでもある。
 しかし、コミュニティーにおいて、これらのどちらも重要ではない。人々にとって重要なのは、
社会を秩序付けているルールであって、誰がどう思い考えるとか、この世界がどのように今に至ったのか、
これからどうなるのかは大した問題ではない。
 そういうことに関わる歴史や記憶をすべて背負っているのが、<記憶を伝える者>であり、
記憶の継承者なのである。
   (中略)
人間の人間らしさは、やはり感情にあり、その人間を形作った歴史にあるのだと感じた。


[考察4 哲学書としての”The Giver”]
 私は、自らの専攻分野が哲学であることもあり、本を哲学的に解釈したがる傾向がある。
 しかし、この本について言えば、私が能動的にそうしたというよりは、
インスピレーションを吹き込まれたような感じがする。
この本を初めて読んだのは、高校生の頃で哲学という学問分野に興味はあったものの
それを研究していたわけではない。
けれども、この本を読んだことで、私は自然と哲学をし始めていたと、今は思うのである。
 それは、この本が「問いを立てている本」だからであると思う。
 娯楽小説はただ読んで楽しいだけじゃなく、なにかテーマを持っていることがある。
そういう場合は、物語の中で描かれる一連の出来事をベースにして、
作者がなんらかの考えを一つの答えとして提示する。
 しかし、ギバーの場合はどうやら違うようだ。
 物語の最後の場面でも、結局ジョーナスたちがどうなったのかをはっきりと描ききっていないし、
作者からの明確なメッセージというものが見当たらない。
あるとすれば「最も美しい記憶は愛である」という流れに含まれたメッセージくらいで、
これといった一つの結論みたいなものはない。
 だがしかし、この本は確実に読者に問いを以って訴えかけている。
その問いでさえも漠然としているが、読み終わった後の空恐ろしい感じというのがまさに、
この問いに直面したことの証なのであろう。
 哲学とは、問いを立てること、そしてその問いに直面すること。
問いの立て方のセンスが哲学自体のセンスである。
 その点でギバーは大変に大きな問いを残してくれた。
この本を読むとき私は、本の中に引き込まれる読者であると同時に、
この世界の謎に直面した哲学者になっていたのである。


[考察5 表紙のデザインについて]
この本はハードカバーで、大変暗い印象を持たせるようなデザインの表紙をしている。
だからこそ私は気を惹かれたのかもしれない、とも思う。
黒が基調の老人の顔をアップで撮った写真がとても強く印象に残る。
この写真の老人が何者なのか…それは、巻末の訳者あとがきの部分で言及されているのだが、
カール・ネルソンという名の画家なのだそうだ。
この画家の写真を使ったことには、物語の内容と切っても切れない理由があると思われる。
   (中略)
 それから、ジョーナスと対を成す、もう一人の重要人物と言っても過言ではない<記憶を伝える者>は
老人である。
この表紙の写真を見て、「きっと<記憶を伝える者>はこのような顔をしているに違いない」という
イメージが沸くし、実際読んでみると、作中の<記憶を伝える者>という老人の印象とこの表紙の写真とが、
ぴたりと重なる感じがする。作者自身、おそらくネルソンを<記憶を伝える者>のモデルにして
作品を書いたのではないだろうかと思えてくる。
あとがきにもこのネルソンの写真が、作品の誕生を助けてくれたと著者である
ロイス・ローリー自身が語っていると書いてある。
<記憶を伝える者>が老人なのは、設定上自然なことである。
彼が年老いたからこそ、後継者のジョーナスが選出されたのである。
しかし、表紙になぜジョーナスのモデルとなるような少年ではなく、
老人であるネルソンの写真を用いたのか。
それは、題名が「The Giver-記憶を伝える者-」だから、という、
たった一つの単純な理由によるものではないような気がする。
思うに「老人」という存在を「記憶」そのものに見たてているのではないだろうか。
年を取れば人間の中には自然と記憶が蓄積されていく。
いくら画一化されたあのコミュニティーの中だとしても、一人の人間が生きて死ぬまでには
その人の中にはその人にしかない記憶が蓄積されていくはずなのだ。
それは当然時間を追う毎に密度を増していく…。だからこそ表紙には「記憶」を連想させる
「老人」の写真を使ったのではないだろうか。年老いた人間は、それだけで記憶そのものなのである。

今日読了した本。

講談社現代新書「ニーチェとの対話」西尾幹二・著

これは、ニーチェの思想を、現代に生かそうという試みで
あーだこーだ解釈した本ではない

と、すくなくとも作者本人は言っている。

ニーチェを読んで、自分の中に湧いた感慨とかを極主観的に述べるつもりで
書いたのだそうだ。
この著者の解釈ではそもそも、ニーチェの思想を
「われわれに意義があるように読み解く」ということは
大して意味がない…というか、ニーチェの望むところではない、と
考えているような…
でも、実際読んだ結果ニーチェが現代に放った警告というか
鳴らした警鐘みたいなのを、前面に押し出そうとしている感じが否めないよう。
でも、それはどっちでもいいや。

ニーチェは比喩表現を多用するので一回読んだだけでは
意味がとおりにくい。
すごく迂回させられている気分になるのだ。
でも実例を挙げて理解を早めてくれるのがこの本のような気がした。
作者の意図は違ってもそうやってニーチェの思想に近づけた気がするので。

それにしても、ニーチェは哲学者ではない。
思想家だ。
そして、彼の思想は、科学的見地に基づいていないのに、
今日で言う「心理学」的見解からの人間に対する洞察力をも
持ち合わせていて面白い。
普段我々が見落としている自分自身に気付くキッカケになりそうな
示唆に富んでいる。

今日読了した本。

前回のラジオで扱ったテレビゲームネタはここから得た情報なのだが。
講談社現代新書「テレビゲーム文化論」
著したのは桝山 寛氏。
テレビゲームを文化として考える、非営利団体「テレビゲーム・ミュージアム」の代表で、
ゲームキューブソフト「巨人のドシン1」に携わっているらしい。
このゲームソフトには兼ねてから興味があったが、ハードを持ち合わせていないため
プレイしたことはない。
テレビでプレイするいわゆる、ファミコンとそれに続くハード、そしてそれに
伴って発売されたソフトの歴史・系譜を見ながら、インタラクティブメディアと
社会のゆくえについて書いている。

そもそものテレビゲームは「テニス」から始まった。
英語で言うと「ビデオゲーム」が正しいのだが、ともかく、
画面上を跳ねるボールを二人で打ち合うというプログラムから
その歴史ははじまったのだ。
なぜボールの打ち合いか。
それは、そもそもこのような科学技術が軍事技術のために開発されてきたからである。
ミサイルの弾道、着地点を計算するプログラムを応用して作られた「遊び」なのだ。

そこから、今度はアポロ計画をキッカケにスターウォーズを筆頭とする
宇宙戦争もののブームへと移行し、ゲームの世界にアーケードのシューティングが
誕生する。

そしてアタリが家庭用ゲーム機を発売し、程なくしてアタリショックが勃発。
ソフトが粗製濫造される。
任天堂がファミリーコンピュータを出し、スーパーマリオブラザーズで
一気にゲームブームに火がつく。
コンベアで大量生産されていた工業製品が、ついに玩具とあわさり、
人々の新しい遊び相手になったのである。

そして、ソフト、ハードの進化と同時に、ジャンルも開発が進む。

ゲームボーイが通信機能を持つことを利用して、ポケモンが開発され、
人と人の間にあるゲームという位置を新たに作り出した。
次に、PSでは、「どこでもいっしょ」が発売され、
対話相手としてのゲームが続々登場してくることになる。
シーマンやピカチュウげんきでチュウなどがそうだ。

そして、「ゲームソフト」ではないが、おもちゃが次に目指しているのは
体を持った対話相手である。
AIBOは、5000円のゲームソフトに換算すれば200万枚売れたのと同じだけの
売上成績をおさめているのだ。
このような対話相手が求められていることは、近年のインターネットや携帯電話の
普及率をみれば自ずとわかることである。
AIBOのような「体を持った対話相手」はまだまだ発展途上だが
今後より求めやすい価格になり、性能も上がってくれば需要があることが見こまれる。
と筆者は言っている。

私もそう思う。

つくばエキスポセンターに行った時、「つくば科学万博博覧会」に
出展された「てくの つくまる」という会話ロボットと話してびっくりしたことがある。

つくまるは、私に名前を聞いてきて、それを覚え、
的確に会話をした。

私が「歌って」といったら彼は「ぞうさん」を歌ってくれ、
「上手だね」と言ったら「ありがとう」と答えた。
また、「外に出たことないの?」と言ったら「ぼくそとにでたことないの〜」と言い
「好きな食べ物は?」と聞いたら「電気しか食べないの」と答えた。

とにかく、こちらが「答えられるかな?」と思うような質問でも
的確に返答するので大層驚いた。

将来的には、そういうロボットが二足歩行をし、
人間の身近に控えているような景色が日常的に見られるようになるのだろうか。
ちょっと想像できない。
ASIMOに会話機能がついたようなものか…
確かに目新しいけど、私は人間と話していたいなと思う。
そういう会話ロボットが生まれたら、人間より知識に長けているかもしれないけど
やっぱり情緒は豊かじゃないと思うから。

・ はじめに
 最大の教父とさえ言われるアウグスティヌス。
その思想と著作に触れてみようとNHK出版の「哲学のエッセンス」というシリーズの「アウグスティヌス〜<私>のはじまり〜」という本を手にとってみた。
 このシリーズは全16冊で思想家ごとにそれぞれテーマが設けられており(たとえばここでいう<私>のはじまり、のように)そのテーマに添う形で主題となっている思想家の思想や著作にごく浅くではあるが触れることができる。
 今回取り挙げる「アウグスティヌス〜<私>のはじまり〜」では、副題にある「私」に関する意識という問題に対して、哲学的・心理学的な面から考察を行っており大変興味深かった。
 キリスト教史的にアウグスティヌスの生きた時代がどのようなものであったかも概略的に見ることができた。
 そこで、この本を要約しながら感じたことを書いていってみたいと思う。

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なにより読みやすかった。

でも感想を言うと、「重い」
なにがって、キルケゴールって人はね、壮絶な人生送った人だからね
その人生と著作を綴ったこの本をざっと読むだけで軽く凹むわけ。
高校の時、倫理の授業でやってから、キルケゴールの人生が壮絶なのは
知っていたし、入試で興味のある哲学者を聞かれて
キルケゴールですと即答したくらいの私ですけど
やっぱなんかつかれるわ。すごすぎだわ。

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