IMG_3428
モノノ怪、15周年のときに『怪〜ayakashi〜』から通して履修したのだけどその時点からここまでに数年経っている。
ちょうどモノノ怪を全部見終えた時に、劇場版が発表されたのだ。(当時のブログ記事
ノイタミナリアタイ勢に比べれば新参者のはずなのに、付き合いが長い感覚があるし、実際4年も繰り返し見てきたのか……。

そんなわけで、短くもあり長くもある4年待ちわびた劇場版、そしてその完結編を映画館で初日に見てきたので
1・2章の分と合わせて雑多に感想を書こうと思う。

なお、この記事にはネタバレが含まれるし、『都市伝説解体センター』のネタバレも巻き添えで出てくるので
両方を履修していない人はまだ読まないほうがよかろうと思うw

(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)



■私のモノノ怪の見方
今回は、三部作それぞれが序破急ないしは一の幕・二の幕・大詰めを担うような構成になっているので、
第三章となる完結編はそれはそれは最初からクライマックス感満載で。
映画館で一回見ただけだと、目が追いきれない部分が沢山あって、あとでBlu-rayを穴が空くほど見たい! と思ったのでした。

モノノ怪ってテレビシリーズのときからだけど、単に画面が「和紙による切り絵」みたいなアーティスティックさをもって造られているだけではなく、
カットの中に小物が仕込んであって、これが演出や隠喩であったりするのでそれを使った考察の余地が沢山ある。
その小物にちゃんと気付けるようになのか、あえて登場人物を画面の中央以外に配置して小物がしっかり映り込むようにしていたり、
セリフの間を多めにとって長めのカットで見せたりもしているから、やはり意図的に配置されているものだろう。
尺も画面づくりも、何もかも計算して意図を持ってそうしていると思える。
もし思わせぶりなだけだったとしても、見ている人が色々考えたり感じたりして、そこから何か自分の糧にできるものがあればそれでよいので
明確な意図がなかったり、視聴者が読み取ったことが正解でなかったとしても良いのだと思う。


たとえば、第二章には床に福笑いが置いてあるのがわかるカットがある。(再生時間41:30)
こういうしっかり映り込んでいるものすべてに意味があることを疑って見なければならないと感じてしまうw
もちろんそんなところに気を配って見なくてもいい。でも私はする。

福笑いはお正月の遊びなので、単純に見れば「これは1月頃の出来事である」という示唆だと読むこともできるし、
その福笑いの顔の中に、ほとんどパーツが配置されていないことから、遊ばれていない福笑いであることもわかるし、
このとき画面に一緒に映っている「おすず様」の心境を暗に表現しているとも思う。
現代SNS風に言えば「顔ない」?
この前後の会話で、最近のおふき様の表情はかつてのおすず様を思い出すような、冴えない表情だというようなやり取りがあったと思う。
「魂の抜け落ちたような」と比喩されていた。
おすず様が環境にされて心を殺し、表情を暗くしていったことがおすず様自体の表情より、横においてある福笑いで表現されている。
そのような場面が色々ある。

同じく第二章では、おふき様の居室のふすまに描かれた「青薔薇」も印象的だ。(再生時間56分以降)
おふき様自体のテーマカラーが青っぽいというのもあるのでそういうわかりやすさの目的もあると思うけれど、
青い薔薇には「奇跡」「ありえないこと」を示唆する側面がある。
つまり、おふき様が男児を産んだとしても時田家が権力を得ることは「ありえない」というようなことをずっと主張している背景に思える。
だとすれば、おふき様のカラーが青になったのは、機序が逆であるとも思える。
先に、「ありえないこと」としての青薔薇のモチーフがあり、そこから青カラーリングのおふき様のデザインが定まっていった、というような。
このように、常時話者であるキャラクターの後ろに映り込むふすまの模様や、般若などの面も無視できない。
目が忙しいw


第三章では、一章からずっと出てきていた「三角形」のモチーフの意味も明らかにされたと思う。
まだ「これだ!」としっくり来る答えにたどり着いてはいないが、ここで少しこの三角形のモチーフについて考えてみたい。
一章からずっとお水が汲まれる枡が三角形であることは示されてきて、
三章では三角形の紙吹雪が大量に舞い、すべてが終わる時にそれが四角形になる
何かが変わったことだけは確かだとわかるし、三角形こそがこの大奥を象徴した何かであることもわかる。

三角――ひいては3という数字――は、色々な捉え方ができる。
柱などの物質で考えた時最初にしっかりと立つのは底に最低3つの点を持つもの、つまり三角かそれ以上を底面に持つもの。
2つの点を結んでも線にしかならないので、これは直立しない。紙はそのままでは立たないのだ。
三角柱や三角錐のように底面に3つの点があることで、初めて「鼎立」となるのだ。
だから3は最初の安定を示す場合もある。
(Sound Horizonの『Yield』では「3、不安定な数字」という歌詞もあるがw)

1は個、独立した存在、唯一のもの、しかし他者を持たぬので存在証明の危うさがある。
2では自と他の境界や客観という観念が生まれ、互いを認識しあうことになるため「間(あいだ)」の概念と存在の確実さを生む。
3となると、「間」の数が増えることで相互の目、関係を見る目が増え存在の安定感が増す。
底面の点が増え円に近づけば近づくほど、その柱は横転しにくくなる。
ほかに、三位一体の概念などにも見られるように、0から順に数字を増やしていったとき、
3こそが最初に出てくる安定した数字だというイメージは日本以外にもある。
だからキリスト教の「プロビデンスの目」も、三角形の中に目が描かれている意匠となっていることに説明がつく。
ChristianEyeOfProvidence.svg
Wikipedia「プロビデンスの目」より

例えば、映画が三部作で作られたりするのだって似たようなことだろう。
「前後編」の二部作や「起承転結」という四部構成もありだが、0より多くて一番最初に安定感が出るのが3なので。
むしろ、三部作の本作で三角形が四角になって終わることは、「これから」を示唆しているとすら考えられるので、
今後またモノノ怪がアニメ映画やTVシリーズとして続いていく可能性を思わせるメタ的な部分もあると思う。

作中ではどういう意味を示すかというと、もっと「開かれる」ということではないだろうか。
大奥という三角形は、これまでずっと「閉じて」いた。
その閉鎖空間で「留まる水は濁」り、初めにあったはずの理想すら形骸化し、多くの人の暗い情念を産む温床となった。
それは、ずっと三角形が三角形のまま閉じていたからで、3は安定した数字かもしれないけれど、「冗長性」が足りない。
本来、安定してお世継ぎを産み育て、天子さまの世を永らえさせるという冗長性のために作られた場であったはずなのに、
そもそも構造的に欠陥があることを見ないふりでやってきた。
途中過ちも犯したのに、これも見ないふりをした。
その歪みがここへ来てついに爆発したというのがこのエピソードで、薬売りさんがすべての情念の一切合切を一度断ち切り、
大奥を「開く」方へ導いた……と、私は解釈する。
情念は、なくせはしない。
だが、一度断ち切ることはできる。
そして、そこから再び歩き出すにあたって、どこへどう向かっていくかなのだ、と。


■モノノ怪は救いの物語。特に自家中毒の。
これは、見る人によって受け取り方が最も変わる部分であると思うが、私はモノノ怪は薬売りさんが登場人物の心を救う物語だと思うし、
引いては見ている人の心まで救うものだと思っている。
そう感じるかどうかは、見ている人の立脚点やそれまでの生き方、価値観、経験により左右されるが。

少なくともこの作品での「怪(あやかし)」は、人の情念そのものが形を変えたものであったり、人の情念に取り憑くこの世ならざるものだったりする。
いずれにせよ、境界のこちら側にあるべきでない「向こう側の存在」が、こちらへ紛れ込んで来てしまっているのを
もとある形や場所へ還すのが薬売りさんの役割であろう。
物語の雛形としては最近私が見たものだと『吸血鬼美夕』をはじめ悪魔祓い、エクソシスト系、妖怪退治など枚挙に暇がない。
キャラクター設定や作劇として扱いやすいので、よくあるものではある。
その中でも、「人の情念と、人ならざるもの」を結びつけて作劇されている点で本作は人の心を救うポテンシャルを持っているタイプの作品と言える。

テレビシリーズだと、たとえば「のっぺらぼう」編などは顕著で、毒親の言うとおりに生きる生き方しか知らなかった女性が
自分の心を何度も殺し続けた結果、怪異のっぺらぼうを引き寄せてしまう。
毒親の毒にちょっとでも中てられたことがある人なら、強く感じ入るところがあるエピソードだ。
ここまでの話の流れで私がその一例だとわかると思うが、見ている人の中に似た苦しみを持っている人がいたら
エピソードの終わりで何か自分の世界にも革命が起こったようなカタルシスを得られる
ところがモノノ怪にはある。

上でも書いた表現だが、環境に圧されて苦しむ女性が何人も出てくるし、そのなかに「自家中毒」系のものもいくつかある。
環境というのは、分かりやすい例だとパワハラ、モラハラ、毒親、しきたり、しがらみ…そういう外的な要因。
環境に圧されて苦しむ場合、その圧が苦しいだけでなく、自分でも自分をより追い込んでしまうという苦しみ方にハマることがよくある。
私は一生これを続けてきているので嫌というほどわかる。最近やっと少しマシになったくらいだ。
こういうとき、環境自体を変えるのがもっとも効果的ではあるが、それが現実には難しい場合もある。
そうすると、代案として「自分の情念を断ち切る」つまり、自分の感じ方や考え方の方をできるだけ矯正するという方へ
舵を切ることでしか心の中を改善できない。

よくカウンセリングでされるのに
「自分以外の問題を、自分ごとにするのをやめよう」
というのがある。
自分の問題と、他者の問題をもっとはっきり切り分けるだけで苦しみが減るというものだ。
なんでも背負い込んでしまう気質の人によくあるが、相手が考えるべき問題も自分に何かしら否があるのではと考える癖があるせいで
どんなことでも自分を責めたり、悔いたりして一生頭がぐるぐるする
という症状がある。
典型的な自家中毒ではなかろうか。
ここで頭がぐるぐるするのは、「自分ひとりで考えても絶対に解決しない、答えの出ないことを考えているから」だ。
情念を断ち切り「これは“私の問題”ではない」と割り切る必要がある。
実際にその問題は、他人の問題であるからだ。他人の問題だから考えても解決しないのだ。
それを考えても仕方がない。もっと割り切らなければならない。
ある意味、相手に対してもっとドライになった方がいい局面だ。

「のっぺらぼう」の話もそうだし、男性主人公ではあったが「海坊主」もそう。自家中毒。
そして、ある意味では第一章唐傘も、第二章火鼠も似たようなところがある。
(火鼠などは、自分で自分を焼くほどだ。
火刑は、かなり重い刑罰の象徴であるから、それを自分に課したというのが自責の念の強さを物語る。)
他人の問題を自分ごととして抱えすぎると、端的に言って「良くない」。
怪異の出るもとになるw
そういうものを薬売りさん(と、退魔の剣)はよく切ってくれる。
だから、自家中毒に陥りやすい人間が見るとすっきりする。


第三章では大奥の抱えるさまざまな構造的な問題が浮き彫りになり、天子さまさえも構造の中に閉じ込められ
天子という役を演じるために自分をずっと殺し続けて来た、苦しみを持つ人だとわかる。
これはもう誰が悪いとかではなくて、構造が悪い。
その構造を作り出した天局あまのつぼねにも、
「水のように自分は何も求めず、求めには応じる。流れを作り、道を成す、ただそういうものになりたい」
という崇高な理想があったかもしれないが、これ自体も「自分を大切にする意識」を欠いている
それが構造全体を歪ませ、結果的に単に閉鎖的で形骸化した機構のみを残してしまった。

天局のCVをゆかなさんが担当しているので、私の中ではコードギアスのC.Cに姿を重ねてしまう部分もあったな。
C.Cは「愛されたい」という思いでギアスの力を受け取ったが、自分の持つ他者への博愛と、
力で受け取ることとなる他者からの愛の不均衡にも苦しんでいたし
理想や愛が強いからこそ、結果的に自分を殺しながら生きてきた人だと思う。
それがさらに歪みを生み出すので何重にも苦しむ、という背景の持ち主だった。
天局は理想に燃えていたので最後まで苦しみを自覚しなかったかもしれないが、
彼女が自分を、他者を、蔑ろにしなかったらすべてが違っていたかもしれないのだ。
天局は「永久機関」を作りたかっただけの、その上それに失敗したマッドサイエンティストみたいなものだ。
蛇は河を暗喩し、河は天局の理想を象徴するが、「流れの停滞した河」だ。

大奥はまだ大奥として続いていくのかもしれない。
しかし、確実に新しい一歩を踏み出した、という終わり方であった。


■メタを演出に取り込む
今回何より驚いたのは、やはりラストバトルの演出であろう。
これは、公開から3日間SNSでのネタバレ禁止令が公式から発布されたのにも納得が行く内容だった。

蛇神へびがみを切ったことで、更にその奥にある「百目」が顕現する。
妖怪には「百々目鬼(どどめき/どうめき)」というものがいるが、これをルーツにしている感じではない。
蛇神もそうだが、これらのあやかしは、モノノ怪オリジナル妖怪に近いと思う。
海坊主とかも、同じ名前の妖怪は知られているものの、モノノ怪の海坊主はモノノ怪の海坊主という概念として捉えたほうがすんなり行くので
今回のもそんな感じに考えている。

百目は、無数の人間の情念が絡まり合って集合体(花)となったようなものであるが、それだけにとにかく規模が大きい。
今までは、なんだかんだ言ってひとりの人間の情念が変容したり、そこに取り憑いたりした妖怪を相手にしてきたが、
今回のものはどう考えても過去最大規模であることは疑いようがない。
パンフレットに載っている台本の当該部分によれば、このあやかしは
「滂沱の涙を飲み尽くし とこしえの炎を纏う八重無尽の情念の花」だそうだ。
滂沱の涙とは、とめどなく流れる涙だ。
これは人の悲しみや苦しみの涙であろうし、それを栄養に育った花がこれ(百目)ということになる。

ここまでの蛇神との戦いでさえ、少し危ういところがあったくらいなのに、それを明らかに大きく上回る強敵の出現に、
薬売りさんは私たちが想定していなかった方法で立ち向かう。
なんと、仲間を召喚したのだ!!
それこそが、おそらく「別個体」の薬売りである、「離の剣」を持つ薬売り(CV櫻井孝宏)。


劇場版薬売りさんは、髪や服の色がTVシリーズと異なっており、それは時代や場所の違いを表す符号なのかな、程度に考えていた。
声優の降板、変更があったものの、この薬売りさんは作中では「同一個体」だと思い込んでいた。
しかし、今回明らかに別個体だと示された。
なんなら、このタイプの薬売りというものは計8体か、多ければ64体いてもおかしくないことがわかったw

声優のスキャンダルによるキャスティングの変更で当然制作現場は結構揺れたと思うし、
視聴者側としてもTVシリーズで聴き馴染んだ櫻井さんでなくなることは惜しいと感じていた。
それでもすべての事情を受け入れて、この劇場版はこれはこれとして楽しみにしていた。
だから、櫻井さんの薬売りがカメオ出演するという展開には度肝を抜かれ、心拍数が爆上がりしてしまった。
こんなことが起こると思っていなかったので。

実際、櫻井さんの降板が決まった段階では、少なくともラストバトル周辺が
この「薬売りAが別の薬売りBを召喚して大ボスを倒す」というプロットですらなかったのではないかと考えられる。
降板があって、キャストが変更になって、そのうえでできる最大限の表現を模索していった結果として
「キャストが異なること」すらも世界観や設定の中に取り込み、最終的に演出にしてしまったのではないかと。

これはかつて『仮面ライダー電王』のハナさんで見た。
白鳥百合子さんの降板で数エピソード後から急遽ハナさんを子役の松元環季さんが演じることになったが、
「ハナが謎に若返った」事実を「時間の流れに異変が生じているから」という理由で説明し、ストーリーの設定に組み込んでしまった!
時間モノの作品だったのが功を奏した感じもあるが。
だから、そういうことは可能であることはよく知っていたのだが、モノノ怪がそれをすると思っていなかったw
まして、元の役者が一瞬戻ってくるという形でw

櫻井さんと神谷さん、ふたり声を合わせての
「「解 き …… 放 つ ッ!!」」
は鳥肌モノだった。
早くもう一度観たい!

私は、前から『都市伝説解体センター』の
「解 体ッ!」
に薬売りさんを感じてもいて、モノノ怪が好きな人はトシカイをプレイしたらいいし、トシカイが好きな人はモノノ怪も見ると良いと思っているのだけど
ここで面白いのが、今回のモノノ怪とトシカイの結末で驚きが完全に真逆のベクトルなところだ。

すなわち、トシカイの最終章の結末で私たちは
「同一人物だったのー!?」
という驚きを得る。
しかし、モノノ怪では
「別人だったのー!?」
という驚き方なのだw
すごく面白い。

また、劇場ならではの音の迫力もすごくて、全体的には静かなシーンも多いこともあってバトルの場面では
SEもBGMも派手派手だ!
私は、普通の劇場で見たけれど音響機材に特に力が入っている箱で見たら、多分音の臨場感がもっと増していて
より一層すごいだろうと思った。
普通の劇場でも十分だったけれど、もっとチャンネル数の多い箱なら前後左右から音が迫ってきて
蛇神戦なんかは完全にその場に居合わせている気持ちで見ることになるだろうね。



■これからにも期待
「オリジナルアニメ」というものがある。
これだけだと何を言っているんだと思うかもしれないがw
要は、漫画や小説の原作を持たない、アニメそのものが原作であるアニメだ。
上に出てきたのだと『コードギアス』もそうだし、モノノ怪もオリジナルアニメだ。

で、オリジナルアニメっていうのは、構造上「原作人気にあやかる」ということができないものだから、
原作ありきのメディアミックス作品に比して、資金調達など制作上難しい側面が色々ありそうだと思う。
でも、こうしてオリジナルアニメの中から、劇場版やコミカライズ、ノベライズなどどんどん幅を広げていく作品が出てくることもある。
『エヴァンゲリオン』も『コードギアス』も『まどマギ』も『PSYCHO-PASS』もそう。
先にアニメがあるというのは、結構なリスクを持って制作に臨んでいると思うのだが、成功するものはある。
私は『モノノ怪』も確実にそのひとつだと思っていて、TVで1クール+α程度放送した作品とは思えないカルト的なファンがついている。

その大きな理由はやはり、「ここでしか浸れない世界に浸れるから」だと思う。
これは私としてはゲームの方によく感じることがある。
ゲームに何を求めているって「ここではないどこかへ行ってきたような感覚」「家で味わえるちょっとした非日常感」だ。
だから、お仕事シミュレーション的なゲームでは、できれば自分がやったことがない仕事を体験したいし
ファンタジーの世界では「ここじゃありえないないこと」を味わいたい。

モノノ怪には、上に書いたように「見ている人の心を救ってくれる」という側面があるが、それだけに留まらず
「モノノ怪の世界に入る(行って帰ってくる)」という体験ができる。
これが、繰り返し見てしまう原因だ。
モノノ怪の世界に浸るには、薬売りさんに会うには、モノノ怪を見るしかない。
モノノ怪らしいものはモノノ怪にしかない。唯一無二なのだ。
だから、たった1クール程度しかないアニメを繰り返し見るハメになるのだw

今回劇場版で、また新しいエピソード、新しい側面、新しい表現、それでいて確かに通底するモノノ怪の世界に浸ることができた。
薬売りさんが紙を折る「所作」とかもすごく美しかった。
そして、パンフレットでプロデューサーの山本幸治さんが
「これが最後かもしれないと思って『劇場版モノノ怪』を進めてきたが、今はどういう形であれ『モノノ怪』を続けていきたいと考えている」
と述べているところに、私も期待を寄せたいと思う。

たとえば、「どんな形」の中には、“スーパー歌舞伎”なんかがあってもいいと思うw
モノノ怪のスーパー歌舞伎、絶対面白いのでw
また、小説版も数冊出ているので、今度買って読むつもりだ。

もちろん新たな深夜TVアニメシリーズとして1〜2クールの放映があったりしても良いんじゃないだろうか。
できればWeb配信はネトフリ専売というのだけはやめてほしいがw
資金調達上、そうならざるを得ない事情を抱えた現場もあろうけれども。
まぁそれでも私は、今回家で火鼠を見るためだけにNetflixに再加入した。
(前に『光のお父さん』のドラマを見るためだけに加入して、見終えて退会したw)
まぁ、Netflixに今加入すれば、他の配信サイトで見られない『BEASTARS』のファイナルシーズンも見られるというのもあったので
いざ入れば見たいものはいくつかあるわけだが、きっかけ……というか最後の一押し、トリガーが火鼠なのは間違いない。
そういう「動機」を生み出す力をモノノ怪は持っていると思う。
唯一無二とはそういうことだから。

劇場版を見てものすごく満足度が高かったが、それと同時に今後への期待も高まった一日だった。
ぜひ、このシリーズの続報を待ちたい。