ジャパンプレミアに当選したので、TOHOシネマズ新宿で開催の試写会にて、一足お先に鑑賞して来ました!


その後、一般公開が始まってから2回目も鑑賞しました!

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私は原作既読勢なので、未読勢の参考になるようなレビューにはならないと思う。
既読であることのバイアスを一旦すべて廃してレビューするというのは不可能なので……。

原作本のレビューはこちら


1回目の観覧では、何かこうふわふわと浮足立った感覚があって、逆にのめり込めなかった感じさえする。
鼻炎薬の副作用のせいも重ねてあったかもしれないw
物語として、何が起こってどう解決するかは知ってしまっているし、さらにジャパンプレミアというただ映画を見るのとは違う
非日常的なその場の空気感にどうしても圧されていたのだろう。

2回目はIMAXスクリーンではなかったので、ジャパンプレミアほど大きなスクリーンではなかったのだが、
1回見てあるから今回は1回目で目が行き届かなかったところに注視できるぞ、みたいな余裕があって
却って集中しやすかったのかもしれない。


原作にはない、またはあるけど経緯が異なったりする改変部分については、両手もろてを挙げて賛同というわけでも、大反対というわけでもなく
「そういう解釈や描き方もあるね!」
くらいの感じ。
大まかに、起こるトラブルや解決方法はそのまま再現されていると言えるし、端折るべき部分もよく思いきって端折ったと思う!

1回目に見たときは、原作で耐性持ちタウメーバが完成したあとに、
グレースがロッキー側の宇宙船に一度も踏み込めていないことを悔やみながら別れた部分の改変が最も印象に残った。
映画では、
「最後に欲しいものがある(意訳)」
と言ってキセノナイト製の「宇宙服用外殻服」みたいなものを作ってもらった上で、ロッキーの船に乗るシーンになっているからだ。
これで、読者が最後までロッキーの宇宙船内部をグレースの体験を通じて想像することさえもできなかった原作の状態から、
「こんな感じなんだ〜」
と見て追体験することが可能になったので、面白い改変だった。

2回見て、1回目よりも強く印象に残った改変は、ロッキーとストラットの性格周りだ。
これはどうしても、「本で読んだ場合は、読者ごとに異なる印象を懐く」部分があるので、見る人によっては
「自分が本を読んでいた時に感じていたとおりだ」
という場合もあるかもしれないが、私は結構違うように思ったのでそこを掘り下げて書いてみたい。
どちらが良いとか悪いとか、優劣の話ではないことは先に断っておく。(好みはあるが)

まず、ロッキーに関しての私の小説版での印象は、
・まぁまぁ理屈屋でおしゃべり、心配性の気もある
・合理性に対しては口うるさいが、性格的には控えめな部分もある
・エンジニアなので(考えることもするが)作ること直すことが本職

という感じ。

でも映画では「グイグイ来るおしゃべりキャラで、地獄耳」という感じになっていて、原作の印象に比較するとウザキャラに寄っていると思った。
もちろん、可愛いのは可愛いがベクトルが違う。
小説でも、グレースが寝ると言ったら「見守る」と言ってきかないところなどに頑固さは表れているのだけど、
映画では頑固というより距離感のバグったやつみたいな違いがあるというのが、既読勢としての私の私見だ。

そうなる原因もわかっていて、それは初めてロッキーがヘイルメアリー号に乗り込んでくる際の経緯と、食事に関する描写の改変だ。

最初にロッキーがヘイルメアリー号に乗り込んでくるのは上巻の最後の最後。
ロッキーはグレースに黙って小型の生命維持装置と量産パネルを作り、ひととおりの準備が整ったうえで
「人間のテクノロジー、見たい。許される、質問?」
と尋ねてからヘイルメアリー号へ乗る運びとなる。
そして、
そのあとは整理整頓に励む。まさか来客があるとは思っていなかったので。

とあり、ロッキーが船に戻って本格的に準備をする間、グレースはヘイルメアリー号の船内を片付けたことがわかる。
映画では、そういうやり取りはなく突然ロッキーが「小部屋」に入った状態で船に乗り込んできて
「汚い。」「急に来るから片付けられてないんだろ!」とドタバタする展開になる。
結構印象が違う。
原作のロッキーは、断りを入れているのだ。だから多少控えめさを感じられたのだろう。

ロッキーが大量の荷物を運び込んできたせいで船が狭くなることや、グレースに対してあーしろこーしろとうるさいというのも
小説で書かれていることではあるが、これらはト書きでサラっと言って終わっている印象だ。
映画では、離れてビデオログを録っているとそれを全部聞き取られているし、説明するときにはいちいち人形劇にして見せてやらなければならないから面倒くさい
というくだりがそこそこの尺で(グレースがビデオログ用にカメラに向かってぼやくという格好で)描かれていて、
結果的にロッキーが「クセのあるルームメイト」だと小説よりも強調されている感じだ。

映画としては、小説に書かれているが省かなければならないシーンが多くある。
だから、本来はそのシーンを使って時間をかけて説明されていく、ロッキーの詳しい人となりを短い尺で説明するための工夫がこれなのだとわかるが
その分凝縮されて「ロッキーの鬱陶しさ」が前に出すぎてしまった感もある。

食事の描写もそうで、小説では「寝食をともにすることで文化の違いが表面化する」のを、文字通り睡眠と食事で描いている。
エリディアンには、寝ている他者を必ず見守るという文化・風習があるが人間にはない。
人間は他者と一緒に食事をすることは親睦を深めることにも繋がると考えるが、
エリディアンにとって食事は人に見せるものではない、恥ずかしいこと。だから基本ひとりで隠れてコソっとするものだ。
そこでグレースは多少無理を言って、ロッキーに食事のさまを見せてもらうわけだが……。
映画では、ロッキーは自ら進んで食事を見せてくるだけでなく、
「エリディアンの食事は人間より優雅!」
という主張すらする。
小説のエリディアンの設定ならありえないというか、仮にそんなエリディアンがいたら、人間でいうところの露出狂ということになってしまうw
「文化と風習が異なるから、何を恥ずかしいと感じるかも違う」
という表現のためにあったシーンが、「生態の違い」のみに収束した感じがする。
エリディアンは捕食も排泄も同じ穴でする、という……。
原作では、このあとも何度もグレースとロッキーの間では、
「それは文化の違い」
といわれれば、それ以上は相手に踏み込まないことにするという不文律がコミュニケーション上の共通認識になっていくんだけど、
その要素がごっそり抜けた印象だ。
個人的には、多文化交流を描く上ですごく興味深いポイントだと感じたのだが、映画的にはそれがあまりに
「お利口さん」すぎる部分だったのかな。
そう思うくらい、食事のシーン周りは原作での「本格的な異文化交流のはじまり」の印象から
下品ささえあるドタバタギャグシーンという印象を持たせるものに変わっていた。
結果としてロッキーの性格の印象もそれに引っ張られた。
原作だと、何かもっと厳かで神聖さもある生命の営みを固唾を飲んで見守るような、静謐さ、真剣さのあるシーンだ。
グレースがもともと単に学校の教師であるだけでなく、生物学者だから生き物の生態には、ただそれだけで純粋に興味が湧くというのがあって
無理を押して食事を見せてもらうわけだしね。

小説では、人間にとって“通常は”性行為や排泄について人に詳しく話したり見せたりしないものだけど、
たまに例外もあるという感じで、搭乗候補である宇宙飛行士2名がグレースに対して藪から棒に
「私たち、この間セックスしたの」「そうそう、君には伝えておくことにしたんだ」
みたいなことを言ってくるくだりがある。消えていたグレースの記憶のひとつとして蘇ってくるかたちで。
そこでグレースが面食らってなんと返そうか戸惑うところに、地球人類は人類として共感するはず。
映画では、グレースがプロジェクトのメンバーたちと交流するシーンの大半はカットされているから、当然このシーンもない。
結果として、ロッキーが「原作設定からいえばド変態」になってしまう食事シーンになったw
いろいろこねくり回した結果なのかもしれないw

小説を読んだ人間からすると、
「小説版の控えめさと可愛げが減衰しているが、小説版でもっと控えめで可愛げのあるロッキーを見ているから
これもこれでひとつの解釈として受け入れるか。可愛くないというわけではないし」
みたいな感じ。
それと同時に
「このロッキーしか知らない人や、このロッキーを先に見てから小説を読む人は、
“ロッキー、ウザ可愛い”ないしは“ロッキー、ウザ…”
みたいな感想になるんだろうか」
などと少し心配に思ったりしたw
小説のロッキーの印象は、時折「質問?」「質問?」とうるさいものの距離感がバグっていてウザいみたいなものではなかったので。
映画は動いたり喋ったりする視覚・聴覚に直接訴える可愛さがある代わりに、性格的な可愛さが減衰した印象だ。
原作のロッキーは、もっとE.T的でしょ。質問?w


またストラットに関しては、小説版に比して見れば映画ではまだ人の心がありそうな人物に描かれている気がする。
カラオケのシーンは小説にはないし、もっとテキパキとして冷ややかな感じがする。
文章だから余計にそう感じられる部分もあるだろうが。
原作未読で映画を見た人ですら
「ストラットが許せない」
という感想を持つことがあるのがSNSを通じて判明したのだけど、原作を読んであると
「原作より映画のストラットの方が人情あるな…」
くらいの印象になるのが面白いw
ストラットが許せない人、原作も読んでほしいw(もっと許せなくなるかもしれないが、もしかしたら映画のストラットを許せるかもw)


小説版との違いで大きく感じたことは上記のとおり。
原作では、グレースの記憶が徐々に蘇ってくるという形で、宇宙に出る前にあったさまざまなことが描かれるし、
ロッキーと共同作業を始めたあとにもいろいろなことが起こって、それを順次解決していくが
映画では大きな出来事以外はほとんどカットとなっている。
でも、カットされた部分は既読者からすれば説明がなくても良いし、映画を先に見る人にとっても
そこまで重要な情報ではないので、うまくカットしたと思う。
そのおかげで、テンポがすごく良かったし。
ただ、ジャパンプレミアで観覧し終わった後、複数の既読勢と未読勢のペアによる
「あれ、なんで?」「あぁ、あれは〜」というやりとりが耳に入ってきた。
それを考えると、未読の人には「なんで…?」と思うところはところどころあるのだと思う。
しかし、原作を読めば何もかも説明され尽くしているのがすごい。
「それねぇ、原作読んでもわからないんだけどー」
という箇所はない!w
だからわからないところがあったら、原作を読めばいいというのがすごい!w

そして既読であっても「あのシーンがなかった!」という理由での改変への違和感がなかったのがすごいと思う。
違和感が一番強いのはやっぱり食事の描写だからw

私が原作を面白いと思うのは、何か問題が起きた時に「科学的な解決」をするところだ。
まぁSF全般の魅力とも言えるかもしれないが、この作品やDr.STONEなんかは宇宙開発の要素があるから特にそうだと思う。
Dr.STONEの漫画が完結してロスに陥っていた私が求めていた
「何かが起こったときにDr.STONEみたいに科学的に思考、仮説、実験、検証、証明をしていく作品にもっと出会いたい〜」
という欲にしっかりブッ刺さってくれたのがPHMだったわけで。
小説では映画よりももっと時間をかけて
何かが起こる→問題の原因を探る→実験して確かめる(問題を切り分ける)→解決策を考える→それが適切であると実証する
というのを繰り返していくところが一番面白い。
映画の2時間ちょいという時間では、物語の結末までに起こるいろいろな出来事ひとつずつにフォーカスする余裕はない。
そして、それを映画で無理にやってくれなくてもいいとも思っている。
そもそも「トラブルシューティングを愉しいと感じる人間自体が少数派」だろうから……。
そこを軸に映画を作っても大衆向けではなくなってしまうと思う、残念ながらw

でも小説版で、本当はもっとグレースたちが思い悩んだり、実験してみるものの失敗に終わったりの試行錯誤をしたことを知っている。
その過程すら楽しんだしね。
だから、映画のロッキー・グレースに対して
「私は小説を読んだから、映画になかったいろいろな苦労を君たちが乗り越えたことを知ってるいるぞー! 安心しろー!」
みたいな気持ちもあるw


何より、映像化されるとわかったときに感じた
「つまらないものだったら、いっそ見ないほうが精神衛生上良いはずだ」
という不安は現実のものにならずに済んだ。
映像化したものとして出てきたのがこの映画で良かったと思う。
エンドロールの背景にずっと巨大な宇宙、銀河の映像が流れていたのも良かったし、エンドロール自体が長すぎないのも良かった!

動いたり喋ったりするロッキーを見られて良かった。
映像技術の発展で、古いSFにありがちなハリボテ感や破綻も感じなかったし。(80〜90年代SF、あれはあれで味があるのだが)
2回見るうちには、読み上げ音声の裏で鳴っているロッキー自身の鳴き声から
「よい、よい、よい」と「グレース」が聞き取れるようにもなってしまったw

それに、原作でも感じたことだがやはりこの終わり方はいい。
『火星の人』が映画化された『オデッセイ』では、原作にはない「主人公が教鞭を執る立場になった」ことを描写して終わるという改変があり、
『プロジェクト・ヘイル・メアリー』ではそのことへのオマージュとして、グレースが再び教師の役を担って終わっているとも考えられる。
しかも、エリディアンの子どもたちに
「光の速度がわかる人はいるかな?」
という質問を投げかけるわけだ。
これは先に出てくる地球での授業シーンにある早押しクイズ「光の速度は?」を再度やるという一種の伏線回収でもあるわけだが、
エリディアンたちは私たちのような目を持たないので光が見えない。
そんな「生き物によっては光を見ることもできる」なんてことを想像すらしなかったかもしれないエリディアンたちに同じ質問を投げかけ、
子どもたちが嬉々として挙手するシーンで終わる。
グレースが「子どもたちに科学を教える仕事」を好きだったことを考えると、なんとハッピーなのだろう。
あのタイミングで地球に帰るという選択はしなかったが、だからといって今エリドにいるグレースの生活は満たされていないわけではない。
ロッキーという友達に恵まれ、教師という職に恵まれ、地球は救われ。
私たちもそうするべきなのかも。
つまり、もし地球に敵対的でない知的生命体がやってくることがあったら、捕まえて密室に幽閉して実験や解剖をするより
本人の意思を確認したうえで講義をさせるべきなのかもw

小説ではエリドからの観測で太陽の輝度が戻ったことが確認されるが、
映画ではグレースがプローブで送った情報をもとに、計画が進められ氷河期を脱しはじめる人類が描かれている。
いろいろなことがあり犠牲だって払ったけど、どこも最悪の事態にはならずに済んだ。
地球もエリドも、ハッピー、ハッピー、ハッピー!
ロッキーにはあと数百年生きるだけの寿命がありながら、グレースは宇宙線でガンにならなかったとしても
あと50年程度の時間しかないところだけが切ない。
普通に考えればグレースが先に死んでしまうし、そのあともロッキーの人生は200年くらいは続くのでは?
だからこそ、望むなら地球に帰っても良いとロッキーは言うのだろうけど、それと同時に
「ずっと(帰るかどうか)考え続けて」
と言うところも良い。
原作では、
「勝手なことをいわせてもらうと、ぼくはきみにここにいて欲しい。だがそれはあくまでもぼくの考えだ」
という風に明確に「いて欲しい」と言うけど、映画みたいに「ずっと考え続けて」という言い方も良い……。


映画そのものではなく映画配給周りで唯一心残りなのはグッズのなさだ。
パンフレットしかないのだから。
映画の配給の権利はあるけど、グッズ制作・販売の版権は獲得していないからだろう、と誰かが言っていた。
個人的にはE.T以来の友好的な地球外知的生命体映画みたいなところがあるんだから、
E.Tと同じかそれ以上にグッズを出して売ればいいのにと思ったw
E.Tなんか、東武動物公園に「E.T館」という期間限定アトラクションを出したりもしてたぞ。

しかし、今日本でもかなり動員数を稼げていることや、SNSでも話題になっているところなどを見ると、
追々何かしらのグッズが後追いで出てくる可能性はあるかもしれない。
あったら買うという人はたくさんいると思う。
SNSでファンアートをアップしている人や、それへの反応を見ているとね。

劇場で人気なので、IMAX上映期間を延ばすらしく、それに伴いアマプラで配信が始まるまでの期間も延長になるというニュースを見た。
そうは言っても数ヶ月もすればAmazonで見られるようになると思うので、そのときは同時視聴の会がしたい所存。