丸い人さんとひょんさんが、私の『ガラージュ』配信を通してジュースルートを見た結果
色々語り合いたくなったらしい(私も語る相手が欲しかった)ので、
丸い人さんのコミュでトーク放送をしたよ!
色々語り合いたくなったらしい(私も語る相手が欲しかった)ので、
丸い人さんのコミュでトーク放送をしたよ!
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
私は1周目(道代ルートに入った)を放送せずにプレイして、2周目(ジュースルート)を配信に乗せ、
丸い人さんとひょんさんがそのアーカイブを全部見てくれて、今回のガラージュ語りの場になりました。
私はプレイした本人だから「プレイ体験」を持っているけど、
丸い人さんとひょんさんは「視聴体験・追体験」しか持っていないわけで、
そういう人でも「何かこれについて語りたい」と思うのは実は結構すごいことですね。
「人がゲームやっているのを見ただけで」、色々考えたり思ったり、
それを言語化したくなることってよほどだと思うんですよね。
クリア時、放送内で
「丸い人さんならこのゲームのすごさをわかってくれると思う!」
と力説して終わったんだけど、そのあと丸い人さんと
「じゃあ今度生放送で語り合おう」
と約束だけして、「あーだったよね、こーだったよね」という話はしていなかったので、
実際に丸い人さんとの間でガラージュの話をするのは、この放送が初めてでした。
なので、私自身丸い人さんがガラージュをどういう切り口から語っていくか楽しみでした。
タイムパフォーマンス、つまり「一定時間内に消費するコンテンツ量を考えた時の効率」を気にしながら
広く浅くなるべく大量のコンテンツを摂取・消費する人や手法が度々話題になる時代だけど、
私とか丸い人さんは、作る側でもあるから一層
「作り手目線で”すごい”と感じるものを深く掘り下げながら、時間効率度外視で繰り返し摂取し続け自分の栄養にする」
という「もうそれは単なる消費ではないよね」みたいな見方をするんですが、
『ガラージュ』はそういうところにすごく深く刺さってくるところがありますね。
時間をかけて、この世界に定着・順応して、「自分が何を感じているかを俯瞰で感じ直す」みたいなことを
し続けることになるので、「セカンド自分」と一緒にゲームしている感覚になります。
セカンド自分は、何かをしているファースト自分を俯瞰で観察する「自分を見る自分の目」。
『ガラージュ』をやっているとき、ゲームをやっているファースト自分とは別に
ファースト自分が感じていることを俯瞰で見ているセカンド自分と、
いっそファースト自分の感じたことからセカンド自分が想起した思い出を俯瞰で見るサード自分くらいまでは
余裕で活動しだすので、丸い人さんが言っていたように
「釣りでクールダウンする時間がないとパンクする」
というのはそういうことですねw
重要なのは、こうして俯瞰と、「俯瞰の俯瞰」の目で自分を多層で認識し直すというのは
(これも丸い人さんが言っていたように)自家中毒に陥る原因になるので加減が難しいのです。
上手にやらないとただダメージを負うだけということもあります。
そしてこのゲームは、俯瞰の目を強烈に呼び覚まします。
だから一番怖いのは、見た目の奇抜さじゃなくて「自分がただダメージを負って終わるだけ」になることだと
丸い人さんも言っていたし、私も同感でした。
でも、『ガラージュ』で素晴らしいのは、そういう自家中毒を知っている、よく患っている人間をこそ、
そこから救いながら終わってくれるところです。
こういう人間のことをよく知っているんだろうな、だから精神治療装置と、それによって生成される箱庭世界
そしてそこからの脱出というコンセプトでゲームを作れるのだろうなと思うし、
それがプレイヤーを込みにした入れ子構造にできちゃうんだろうなと感心します。
逆に「救われる理由」のない人間が遊ぶとわけがわからないのかもしれないけど……。
「囚われている感覚」から抜け出せない人間にとっては、自分のことのように感じられることが沢山あって
でもそれを自分のことのように感じているとダメージを受けそうになる部分があって
ゲームの方はそこまで知っていて、包んでくれてダメージを緩和しようとしてくれる
このゲームどんだけ優しい世界なんだよ、と思うのだけどw
例えばだけど、毒親を持っている人が毒親が出てくる作品を見た時に、
ただストレスとダメージを負うだけということがよくあります。
毒親を持っている人を救うために毒親が描かれているとも限らないのでね。
でもそれって毒親を持っていない人にはわからない感覚だと思うんですよね。
「毒親」のところを他のことに置き換えても同じです。
『ガラージュ』は、その向こうへ到達しているところがすごいと思っています。
あと、丸い人さんが言っていたのは、『ガラージュ』のことを一言「すごい」とどうしても言っちゃうけど、
本当は「すごい」の一言で終わらせたくないところがあり、でも同時に何か別の言葉に置き換えたとしても
それはそれで違うんじゃないかという葛藤があるというようなことです。
トークラジオも、ブログも、言葉で表現する場だから「強いて言語化するならば」の前提で
何もかもを言葉に置き換えてなんとか説明しようと試みるものの、
結局体験そのものとか、情緒的な部分って「本人が獲得して言葉でないものとしてそのまま受け取ってほしい」
というのが私にもあります。
(V)・∀・(V)がプレイして見せてくれたからこれはもう消費したものとして次へ行こうとか
(V)・∀・(V)と丸い人さんとひょんさんがこう言ってたからそうなんだろう、
というふうにはなってほしくないというのがあるんですよね。
『ガラージュ』の場合は特にそうで、自分であの世界の中に一定時間没入することに
最も価値があるように思います。
それをしてもらうために、ネタバレじゃない、でも抽象的すぎない言葉でこのゲームを布教するのは
とても難しいので「すごいゲームだった」になっちゃうんですけどw
今、放送したジュースルートの、移動やシンキングタイムをカットしたカット編集済動画を
パート18まで作り終えたところなので、自分がやるかどうかは見てから決めてやる
という人は動画の公開をもう少し待っててくださいw
多分20本前後で完結するシリーズになると思います。
もちろん、見る前に自分でやるという人はどんどんやってください!w
<追記>
このあと、動画編集を終えました。
全19本です。
エンコード待ちながら「秘密の缶詰」の謎解きをがんばりました!
達☆成☆感
私は1周目(道代ルートに入った)を放送せずにプレイして、2周目(ジュースルート)を配信に乗せ、
丸い人さんとひょんさんがそのアーカイブを全部見てくれて、今回のガラージュ語りの場になりました。
私はプレイした本人だから「プレイ体験」を持っているけど、
丸い人さんとひょんさんは「視聴体験・追体験」しか持っていないわけで、
そういう人でも「何かこれについて語りたい」と思うのは実は結構すごいことですね。
「人がゲームやっているのを見ただけで」、色々考えたり思ったり、
それを言語化したくなることってよほどだと思うんですよね。
クリア時、放送内で
「丸い人さんならこのゲームのすごさをわかってくれると思う!」
と力説して終わったんだけど、そのあと丸い人さんと
「じゃあ今度生放送で語り合おう」
と約束だけして、「あーだったよね、こーだったよね」という話はしていなかったので、
実際に丸い人さんとの間でガラージュの話をするのは、この放送が初めてでした。
なので、私自身丸い人さんがガラージュをどういう切り口から語っていくか楽しみでした。
タイムパフォーマンス、つまり「一定時間内に消費するコンテンツ量を考えた時の効率」を気にしながら
広く浅くなるべく大量のコンテンツを摂取・消費する人や手法が度々話題になる時代だけど、
私とか丸い人さんは、作る側でもあるから一層
「作り手目線で”すごい”と感じるものを深く掘り下げながら、時間効率度外視で繰り返し摂取し続け自分の栄養にする」
という「もうそれは単なる消費ではないよね」みたいな見方をするんですが、
『ガラージュ』はそういうところにすごく深く刺さってくるところがありますね。
時間をかけて、この世界に定着・順応して、「自分が何を感じているかを俯瞰で感じ直す」みたいなことを
し続けることになるので、「セカンド自分」と一緒にゲームしている感覚になります。
セカンド自分は、何かをしているファースト自分を俯瞰で観察する「自分を見る自分の目」。
『ガラージュ』をやっているとき、ゲームをやっているファースト自分とは別に
ファースト自分が感じていることを俯瞰で見ているセカンド自分と、
いっそファースト自分の感じたことからセカンド自分が想起した思い出を俯瞰で見るサード自分くらいまでは
余裕で活動しだすので、丸い人さんが言っていたように
「釣りでクールダウンする時間がないとパンクする」
というのはそういうことですねw
重要なのは、こうして俯瞰と、「俯瞰の俯瞰」の目で自分を多層で認識し直すというのは
(これも丸い人さんが言っていたように)自家中毒に陥る原因になるので加減が難しいのです。
上手にやらないとただダメージを負うだけということもあります。
そしてこのゲームは、俯瞰の目を強烈に呼び覚まします。
だから一番怖いのは、見た目の奇抜さじゃなくて「自分がただダメージを負って終わるだけ」になることだと
丸い人さんも言っていたし、私も同感でした。
でも、『ガラージュ』で素晴らしいのは、そういう自家中毒を知っている、よく患っている人間をこそ、
そこから救いながら終わってくれるところです。
こういう人間のことをよく知っているんだろうな、だから精神治療装置と、それによって生成される箱庭世界
そしてそこからの脱出というコンセプトでゲームを作れるのだろうなと思うし、
それがプレイヤーを込みにした入れ子構造にできちゃうんだろうなと感心します。
逆に「救われる理由」のない人間が遊ぶとわけがわからないのかもしれないけど……。
「囚われている感覚」から抜け出せない人間にとっては、自分のことのように感じられることが沢山あって
でもそれを自分のことのように感じているとダメージを受けそうになる部分があって
ゲームの方はそこまで知っていて、包んでくれてダメージを緩和しようとしてくれる
このゲームどんだけ優しい世界なんだよ、と思うのだけどw
例えばだけど、毒親を持っている人が毒親が出てくる作品を見た時に、
ただストレスとダメージを負うだけということがよくあります。
毒親を持っている人を救うために毒親が描かれているとも限らないのでね。
でもそれって毒親を持っていない人にはわからない感覚だと思うんですよね。
「毒親」のところを他のことに置き換えても同じです。
『ガラージュ』は、その向こうへ到達しているところがすごいと思っています。
あと、丸い人さんが言っていたのは、『ガラージュ』のことを一言「すごい」とどうしても言っちゃうけど、
本当は「すごい」の一言で終わらせたくないところがあり、でも同時に何か別の言葉に置き換えたとしても
それはそれで違うんじゃないかという葛藤があるというようなことです。
トークラジオも、ブログも、言葉で表現する場だから「強いて言語化するならば」の前提で
何もかもを言葉に置き換えてなんとか説明しようと試みるものの、
結局体験そのものとか、情緒的な部分って「本人が獲得して言葉でないものとしてそのまま受け取ってほしい」
というのが私にもあります。
(V)・∀・(V)がプレイして見せてくれたからこれはもう消費したものとして次へ行こうとか
(V)・∀・(V)と丸い人さんとひょんさんがこう言ってたからそうなんだろう、
というふうにはなってほしくないというのがあるんですよね。
『ガラージュ』の場合は特にそうで、自分であの世界の中に一定時間没入することに
最も価値があるように思います。
それをしてもらうために、ネタバレじゃない、でも抽象的すぎない言葉でこのゲームを布教するのは
とても難しいので「すごいゲームだった」になっちゃうんですけどw
今、放送したジュースルートの、移動やシンキングタイムをカットしたカット編集済動画を
パート18まで作り終えたところなので、自分がやるかどうかは見てから決めてやる
という人は動画の公開をもう少し待っててくださいw
多分20本前後で完結するシリーズになると思います。
もちろん、見る前に自分でやるという人はどんどんやってください!w
<追記>
このあと、動画編集を終えました。
全19本です。
エンコード待ちながら「秘密の缶詰」の謎解きをがんばりました!
攻略サイト見なかったぞおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) November 19, 2023
3週間かかった#Garage #ガラージュ pic.twitter.com/2JkNfgYezX
達☆成☆感
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