やっと「歌い初め」できたww
3月だけどw
3月だけどw
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
前回の歌枠(2/27)で、私の音楽人生には、知らず知らずのうちに大量の前田尚紀成分が染み込んでいた
ということに気付いたので、歌い初め動画の楽曲は『断罪の花』にすることにした。
ちなみに『断罪の花』は、それがEDテーマ曲として使われているアニメ『CLAYMORE』が放映されていた
2007年当時にも一度収録していて、そのバージョンは以下の過去曲地獄動画にまとめられている。
この私の2007年版のカバーを聴くと、『断罪の花』の原曲シングル自体に、日英2か国語分収録されているので
「日本語版も英語版も歌いたいなあ。そうだ、1番と2番で違う言語を歌えばいいんだ!」
ってな発想に至って、フルコーラスの中で2か国語両方を半々歌っていることがわかる。
両方を歌いたいけど、両方をフルコーラス録るのは大変なので、1曲分の収録カロリーで2か国語やるという、
一種の「妥協案」に落ち着いたということでもある。
しかも、この時はハモりもちゃんとは録れていないと思う。
「ちゃんと」というのは、今回の収録みたいに、予めガイドメロの打ち込みをして
「この和音で大丈夫か?」というのを確かめてから、そのガイドに沿って録るということである。
「大体こんな感じの音程で歌ってそう」という耳コピテキトーハモを入れると不協和音になったりすることがよくある。
だから2007年のは、不協和音になるくらいなら主旋律だけ録ろう、でミックスして終わりにしたかもしれない。
今回は「バージョン改」だから、そういう「過去、妥協したライン」というのを取り払って
全てが前回を凌駕するように作り込んだ。
まず、ガイドメロの打ち込み作業の日。
打ち込みをすると、ピアノロールで譜面を見た時のノーツの配置とか分布とかに対して
「視覚的にこういうノーツの動きをする曲が、私の心に訴えかける”なにか”を持っているのだなあ」
としみじみ思うことがあるw
どのように音が跳ねたり、駆け上がったり、下ったりするか。
また、どのくらいの音域幅を使うか。
黒鍵をいくつ使うかw
尚、ハモり自体は一番多いところで一瞬2ラインになるところがあるくらいで、
基本は3度下ハモ1本が部分部分につく程度なので、
混声3部・4部合唱のようなコーラスワークになっている曲や、ずっと上下ハモがあるような曲、
ア〜〜みたいなクワイヤも収録必要な曲と比べれば、この打ち込み作業もすぐに終わったし、実際の収録も早かった。
まぁ、1曲だけど完全に言語の違う2バージョンをフルで録ったので2曲分だけども。
ハモりの流用とかもできないのでw
こちらは、日本語収録がもうほとんど終わって、収録2日目。英語版の大詰めを迎えたところで仮出力してみたアカペラ。
この曲、原曲のボーカルの空間系エフェクトをよく聞いてみると、リバーブは薄めだけど、
Aメロを歌い始めてすぐからもう、そこそこのディレイがかかってるのが聞こえる。
ただ、サビではまたちょっと印象が変わっているようにも聞こえる。
なので、私もA・Bメロと、サビではエフェクトの設定に差異をつけてみた。
他の曲でも、自分の好みでたまにやることだけど。
サビで空間の広がりを演出するためにリバーブをBメロまでよりも強めにしたり。
とはいえ、リバーブを強めにしすぎると、声が奥へ行ってしまって埋もれるので、
声の輪郭がボヤけない範囲内にして、且つEQもいじったりしているけど。
AKGのC214で録ったボーカル音声というのは、ひとつ前のマイク、RODEのNT2-Aで録ったものよりも
高音がキンキンしないまろやかな音なので、ナレーションにはすごく向いているし
録った後いじる場合にも拡張性が感じられるけど、その分楽曲とのミックス時には
BGMとボーカルトラックそれぞれでEQをいじる必要があるな、と思う。
NT2-Aは、元々高音が強めに、もっと言えば少し刺さるような音質で録れてしまうから、
ミックス時に大してEQいじらなくても輪郭がはっきりしている印象にはし易い感じ。
素材そのまま、いわゆる「録って出し」出来るというかw
C214は中音域を逃さず録ってくれるんだけど、カラオケ音源の同帯域を若干絞って
ボーカル側は高音域のゲインを上げるような処理をした方がくっきりするように思う……。
ちなみに、2007年の『断罪の花』収録時は2本前のマイクだからNT2-Aですらなかったけどw
あの時はダイナミックマイクだったはず。
ミックスの話になってしまったけど、歌の方も「バージョン改」なんだから、
歌に関してこだわったところをメモっておきたい。
上にも書いた通り、2007年の収録の時点で
「シングルに英語版も入ってるじゃん! じゃあ自分も日本語・英語両方カバーしたい!」
というのがあった。
でもその頃は1動画としてアップする楽曲の収録や動画編集に対して
とにかく「必要最低限の作業時間で動画を仕上げて毎日1本かそれ以上の速度でどんどん動画をアップしたい!」
という乱発にも近い「数」と「勢いが大事」という部分が今よりあったので、
今ほどじっくり練り込んだり、録り直したりしないで完成ってことにしちゃったものが他にも沢山あり、
この曲のカバーもそういう感じで
「1番を日本語にして2番で英語カバーをすれば美味しいとこ取りできるな!」
って勢いで録ってそのまま公開しちゃった感じがする。
バンドの「練習課題曲決め選挙」で落選した曲のうち、
「バンドでコピーをする曲目からは外れたけど、自分は歌いたいし歌えるよ!」
という曲を色々カバーしていた時期でもあり、これもそのひとつ。
もし私がバンドでこの曲をコピーすることになったら、こうやって歌いたいなって思った
という動画w
一方今回は、バンド活動とか関係ないし、日本語も英語もそれぞれフルサイズ録る! って決めたし
ハモりも両方自分で全部やる! って決めた。
そして、2007年版は自分で聞き返さず
「今の自分としては、こうやって歌うのが”(V)・∀・(V)の断罪の花”だと思う」
というのを追究・追求してみた。
私の中には「イマジナリー小野正利」がいるので、こういう激しめの、HR/HMの要素がある楽曲を歌う時、
「”GALNERYUSの小野SHO正利”がカバーしたらどう歌い上げるか」をシミュレートすることができる。
小野正利加入後のGALNERYUSを色々聴いて、「上手い歌」ってなんだろうというのを研究してみてわかったのは
「装飾音符を最小限に留める」
ことなんだと思った。
「しゃくり」っていうのは装飾音符の一種なんだけど、音の激しい動き(小刻みな動きや、離れた音への移動)に対して
「探りながら音を置きに行く」
のにも「しゃくり」は使えてしまうので、多用すると装飾音符の「装飾のための演出的な歌唱法」としてではなくて
「音を探り探り歌う」ようなぎこちなさに聞こえてしまう場合がある。
つまりその時、そのしゃくりはもう演出ではなくて、ただの「ずり上げ、ずり下げ歌唱法」になっている。
実際しゃくりの多用は、装飾としてはくどくなるし、歌としての癖が強く聞こえるし、
「音を一発で当てに行けなくて探る必要がある」ように聞こえて、要は「上手くはない」印象になるのだと思う。
私もこれに気付くまでにしゃくりを多用していた時期があったのだけど、
しゃくりを多用すると、飽くまで歌ってる本人としては
・音程が取りやすい
・気持ちいい
という感覚しかないので、何が悪いのかわからない。
だが、聴いてる方にとっては「くどい、癖が強い」と感じられるし、それを「下手」という言葉で表す人もいるということだ。
で、その「くどさ、癖の強さ」が「しゃくりを多用することによるずり上げずり下げ歌唱法」から来ている場合には、
これを必要最低限まで削って削って、そう、とにかく「引き算で」歌を唄うようにすると、
印象が「演出過多」ではなくなるので、「くどくない、癖が弱い」と感じられるようになる。
それを人は「上手い」と感じる。というか、実際上手いのだと思う。
というのは、しゃくりを多用する歌唱法よりも、一切しゃくらないで、
正しい音程を取りながら、ビブラートやフェードなどを適宜使って唄うことのほうが存外難しいからだ……。
上に貼った小野正利の『紅蓮華』のカバーもだけど、他のどの小野正利の歌を聴いても、
この人は「演出として不要である時には絶対しゃくらない」。
ずり上げたりずり下げたりを一切しないで、「ポン」と一発で移行すべき音程と拍に音を置く。
ちゃんとした音感と、鍛えられた喉がないと出来ない。
だからやっぱり、これが「上手い歌」ってことなんだと思った。
それからは、唄うときに「ここは演出としてしゃくったら効果的かどうか」というのを考えるようになったし、
私の中のイマジナリー小野正利に脳内で歌わせてみて、小野正利がしゃくらないなら、
そこは演出としてしゃくっても効果的でない部分だとわかる。
だから、収録中不必要にしゃくってしまった場合には
「今のしゃくりは”甘え”なのでNG」
ってことで不採用にするようになった。
そのテイクは破棄でリテイクw
『断罪の花』はGALNERYUSが演奏しても面白いんじゃないかなと思う楽曲なので、
イマジナリー小野正利に歌わせるのも容易だった。(どんな曲でもシミュレート可能だが)
そしてそのシミュレーションの結果、
「イマジナリー小野正利がしゃくらなかったところは私もしゃくらない」の精神を徹底して日本語も英語も録りきったw
結果、自分で何回聴いても
「今回のは良い出来だな」
と思うものに仕上げられたので、みんなも心の中にイマジナリー小野正利を住まわせると良いと思った。
ところで、この収録の前後にアニメの『CLAYMORE』の履修も終えた。
一応毎年年末に公開している「今年履修した作品の感想まとめ」のブログ記事にも書いたけど、
女戦士だらけのアニメなので、それを演じるために出てくる女性声優さんも錚々たる顔ぶれで
「あぁ〜この声優さんは、”強い女”合うよなぁ……あぁ〜この声優さんも(ry」
の連続で面白かった。
朴璐美さんとか、三石琴乃さんとか、高山みなみさんとか、折笠愛さんとか、
「強い女」として出てきたら、その声でもう声優さんが特定可能な上、
今までに演じてきた数々のキャラクターの印象とかが頭のどこかで蓄積されていってるから
その「フラッシュバックに満たない、遠い記憶から来る残り香」みたいなものが蘇ってきて
「それは強い、強いに決まってるよこの声なら」
ってなるのは面白かったw
シンケンジャーで薄皮太夫(CV朴璐美)見てあって、ウテナで有栖川樹璃(CV三石琴乃)見てあって、
プラネテスでフィー・カーマイケル(CV折笠愛)を見てあると、もう声だけで
「あー強いわ」
ってなるからw
これが「男の子役を演ることが多い女性声優さん」の「男の子の強さ」とはまた違って
(もちろん男の子を演じるケースもある声優さんらだが)、
飽くまで「強い女性キャラクター」を演じる声優さんの「強さと女性らしさの両存」みたいなところが
沢山味わえるアニメだなぁと思った。
薄皮太夫とか有栖川樹璃とかも、そういうところがあるキャラクターだからね。
そのへんが好きな人には『CLAYMORE』も合うかもしれないと思った。
ただ、おそらく原作の連載中に始まって連載中に終わったアニメだろうから、
原作の終わりまでアニメ化はしきれていないだろうと思う。
そういう意味で終わり方は原作とは異なるだろうし、しょうがないとも言えるかな。
私は『断罪の花』が『CLAYMORE』のEDだと当時からずっと知っていたから、
この度改めて唄うことにしたしアニメも履修しようって思って見始めただけなのに
脚本:小林靖子
って書いてあって、「やっぱりこれ電王なんじゃね!?」って思ったけどねw
2006〜2007年頃って、小林靖子さんも前田尚紀さんも揃って『CLAYMORE』や電王の仕事してたってことだなw
まぁ、テーマ曲を作る担当の人は、曲作って納品したら終わりな一方、脚本を書く担当の人は
放送開始前から終了まで長期に亘って打ち合わせやら執筆やらをやり続けるところが違うだろうけど。
それで、このようにこのアニメでは「女戦士たちの、強さと女性らしさが共存する」ところが一つの魅力になっていると思ったので
私も『断罪の花』を唄う上ではそういうところを意識するようにした。
思うに、原曲のボーカルであり作詞も手掛けている小坂りゆさんは原作漫画のファンだということだから
やはり小坂りゆさんも小坂りゆさんとして感じた『CLAYMORE』の魅力を歌詞とか歌に込めたのだろう。
歌詞から「強い女性像」みたいなものを感じるのはそのためかもしれない。
私も「アニメの主人公男子みたいな声」と言われることがよくあるけど、
この曲をカバーする上では「主人公男子」ではダメで、
飽くまで女性としてかっこよく唄うことが大事なんじゃないかと思った。
演技に置き換えてみればわかるけど、男の子っぽさっていうイデアみたいなもの、
女の子っぽさっていうイデアみたいなものがそれぞれあって、それをみんな少なからず共有して生きてるから
「っぽく演じる」っていう概念とか技巧が成立するのだと思う。
歌のときも、キャラクターソングだったら「そのキャラクターっぽく、らしく唄う」ということをする必要があるわけで
私は『断罪の花』の収録時には、
「もし自分がCLAYMOREに出てくる戦士の一人を演じることになって、
その人物の戦士としての強さと女性としての儚さや靭やかさを両方表現する必要があって、
決して男の子みたいにはならないようにしなければいけないとしたらどうやって演じるだろうか、
それがキャラソンだったらどう唄うだろうか」
と考えた。
その表現の追究の結果として出来上がったのが今回の動画なので、それをここに記しておこうと思う。
前回の歌枠(2/27)で、私の音楽人生には、知らず知らずのうちに大量の前田尚紀成分が染み込んでいた
ということに気付いたので、歌い初め動画の楽曲は『断罪の花』にすることにした。
ちなみに『断罪の花』は、それがEDテーマ曲として使われているアニメ『CLAYMORE』が放映されていた
2007年当時にも一度収録していて、そのバージョンは以下の過去曲地獄動画にまとめられている。
この私の2007年版のカバーを聴くと、『断罪の花』の原曲シングル自体に、日英2か国語分収録されているので
「日本語版も英語版も歌いたいなあ。そうだ、1番と2番で違う言語を歌えばいいんだ!」
ってな発想に至って、フルコーラスの中で2か国語両方を半々歌っていることがわかる。
両方を歌いたいけど、両方をフルコーラス録るのは大変なので、1曲分の収録カロリーで2か国語やるという、
一種の「妥協案」に落ち着いたということでもある。
しかも、この時はハモりもちゃんとは録れていないと思う。
「ちゃんと」というのは、今回の収録みたいに、予めガイドメロの打ち込みをして
「この和音で大丈夫か?」というのを確かめてから、そのガイドに沿って録るということである。
「大体こんな感じの音程で歌ってそう」という耳コピテキトーハモを入れると不協和音になったりすることがよくある。
だから2007年のは、不協和音になるくらいなら主旋律だけ録ろう、でミックスして終わりにしたかもしれない。
今回は「バージョン改」だから、そういう「過去、妥協したライン」というのを取り払って
全てが前回を凌駕するように作り込んだ。
まず、ガイドメロの打ち込み作業の日。
これが神メロというやつかー pic.twitter.com/JyHUmsa6Je
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) March 14, 2023
打ち込みをすると、ピアノロールで譜面を見た時のノーツの配置とか分布とかに対して
「視覚的にこういうノーツの動きをする曲が、私の心に訴えかける”なにか”を持っているのだなあ」
としみじみ思うことがあるw
どのように音が跳ねたり、駆け上がったり、下ったりするか。
また、どのくらいの音域幅を使うか。
黒鍵をいくつ使うかw
尚、ハモり自体は一番多いところで一瞬2ラインになるところがあるくらいで、
基本は3度下ハモ1本が部分部分につく程度なので、
混声3部・4部合唱のようなコーラスワークになっている曲や、ずっと上下ハモがあるような曲、
ア〜〜みたいなクワイヤも収録必要な曲と比べれば、この打ち込み作業もすぐに終わったし、実際の収録も早かった。
まぁ、1曲だけど完全に言語の違う2バージョンをフルで録ったので2曲分だけども。
ハモりの流用とかもできないのでw
こちらは、日本語収録がもうほとんど終わって、収録2日目。英語版の大詰めを迎えたところで仮出力してみたアカペラ。
歌い初め2023、3/21中にうpできるなこれ!
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) March 20, 2023
2サビのアカペラを置いておくぜ! pic.twitter.com/h62fPg8v6q
この曲、原曲のボーカルの空間系エフェクトをよく聞いてみると、リバーブは薄めだけど、
Aメロを歌い始めてすぐからもう、そこそこのディレイがかかってるのが聞こえる。
ただ、サビではまたちょっと印象が変わっているようにも聞こえる。
なので、私もA・Bメロと、サビではエフェクトの設定に差異をつけてみた。
他の曲でも、自分の好みでたまにやることだけど。
サビで空間の広がりを演出するためにリバーブをBメロまでよりも強めにしたり。
とはいえ、リバーブを強めにしすぎると、声が奥へ行ってしまって埋もれるので、
声の輪郭がボヤけない範囲内にして、且つEQもいじったりしているけど。
AKGのC214で録ったボーカル音声というのは、ひとつ前のマイク、RODEのNT2-Aで録ったものよりも
高音がキンキンしないまろやかな音なので、ナレーションにはすごく向いているし
録った後いじる場合にも拡張性が感じられるけど、その分楽曲とのミックス時には
BGMとボーカルトラックそれぞれでEQをいじる必要があるな、と思う。
NT2-Aは、元々高音が強めに、もっと言えば少し刺さるような音質で録れてしまうから、
ミックス時に大してEQいじらなくても輪郭がはっきりしている印象にはし易い感じ。
素材そのまま、いわゆる「録って出し」出来るというかw
C214は中音域を逃さず録ってくれるんだけど、カラオケ音源の同帯域を若干絞って
ボーカル側は高音域のゲインを上げるような処理をした方がくっきりするように思う……。
ちなみに、2007年の『断罪の花』収録時は2本前のマイクだからNT2-Aですらなかったけどw
あの時はダイナミックマイクだったはず。
ミックスの話になってしまったけど、歌の方も「バージョン改」なんだから、
歌に関してこだわったところをメモっておきたい。
上にも書いた通り、2007年の収録の時点で
「シングルに英語版も入ってるじゃん! じゃあ自分も日本語・英語両方カバーしたい!」
というのがあった。
でもその頃は1動画としてアップする楽曲の収録や動画編集に対して
とにかく「必要最低限の作業時間で動画を仕上げて毎日1本かそれ以上の速度でどんどん動画をアップしたい!」
という乱発にも近い「数」と「勢いが大事」という部分が今よりあったので、
今ほどじっくり練り込んだり、録り直したりしないで完成ってことにしちゃったものが他にも沢山あり、
この曲のカバーもそういう感じで
「1番を日本語にして2番で英語カバーをすれば美味しいとこ取りできるな!」
って勢いで録ってそのまま公開しちゃった感じがする。
バンドの「練習課題曲決め選挙」で落選した曲のうち、
「バンドでコピーをする曲目からは外れたけど、自分は歌いたいし歌えるよ!」
という曲を色々カバーしていた時期でもあり、これもそのひとつ。
もし私がバンドでこの曲をコピーすることになったら、こうやって歌いたいなって思った
という動画w
一方今回は、バンド活動とか関係ないし、日本語も英語もそれぞれフルサイズ録る! って決めたし
ハモりも両方自分で全部やる! って決めた。
そして、2007年版は自分で聞き返さず
「今の自分としては、こうやって歌うのが”(V)・∀・(V)の断罪の花”だと思う」
というのを追究・追求してみた。
私の中には「イマジナリー小野正利」がいるので、こういう激しめの、HR/HMの要素がある楽曲を歌う時、
「”GALNERYUSの小野SHO正利”がカバーしたらどう歌い上げるか」をシミュレートすることができる。
小野正利加入後のGALNERYUSを色々聴いて、「上手い歌」ってなんだろうというのを研究してみてわかったのは
「装飾音符を最小限に留める」
ことなんだと思った。
「しゃくり」っていうのは装飾音符の一種なんだけど、音の激しい動き(小刻みな動きや、離れた音への移動)に対して
「探りながら音を置きに行く」
のにも「しゃくり」は使えてしまうので、多用すると装飾音符の「装飾のための演出的な歌唱法」としてではなくて
「音を探り探り歌う」ようなぎこちなさに聞こえてしまう場合がある。
つまりその時、そのしゃくりはもう演出ではなくて、ただの「ずり上げ、ずり下げ歌唱法」になっている。
実際しゃくりの多用は、装飾としてはくどくなるし、歌としての癖が強く聞こえるし、
「音を一発で当てに行けなくて探る必要がある」ように聞こえて、要は「上手くはない」印象になるのだと思う。
私もこれに気付くまでにしゃくりを多用していた時期があったのだけど、
しゃくりを多用すると、飽くまで歌ってる本人としては
・音程が取りやすい
・気持ちいい
という感覚しかないので、何が悪いのかわからない。
だが、聴いてる方にとっては「くどい、癖が強い」と感じられるし、それを「下手」という言葉で表す人もいるということだ。
で、その「くどさ、癖の強さ」が「しゃくりを多用することによるずり上げずり下げ歌唱法」から来ている場合には、
これを必要最低限まで削って削って、そう、とにかく「引き算で」歌を唄うようにすると、
印象が「演出過多」ではなくなるので、「くどくない、癖が弱い」と感じられるようになる。
それを人は「上手い」と感じる。というか、実際上手いのだと思う。
というのは、しゃくりを多用する歌唱法よりも、一切しゃくらないで、
正しい音程を取りながら、ビブラートやフェードなどを適宜使って唄うことのほうが存外難しいからだ……。
上に貼った小野正利の『紅蓮華』のカバーもだけど、他のどの小野正利の歌を聴いても、
この人は「演出として不要である時には絶対しゃくらない」。
ずり上げたりずり下げたりを一切しないで、「ポン」と一発で移行すべき音程と拍に音を置く。
ちゃんとした音感と、鍛えられた喉がないと出来ない。
だからやっぱり、これが「上手い歌」ってことなんだと思った。
それからは、唄うときに「ここは演出としてしゃくったら効果的かどうか」というのを考えるようになったし、
私の中のイマジナリー小野正利に脳内で歌わせてみて、小野正利がしゃくらないなら、
そこは演出としてしゃくっても効果的でない部分だとわかる。
だから、収録中不必要にしゃくってしまった場合には
「今のしゃくりは”甘え”なのでNG」
ってことで不採用にするようになった。
そのテイクは破棄でリテイクw
『断罪の花』はGALNERYUSが演奏しても面白いんじゃないかなと思う楽曲なので、
イマジナリー小野正利に歌わせるのも容易だった。(どんな曲でもシミュレート可能だが)
そしてそのシミュレーションの結果、
「イマジナリー小野正利がしゃくらなかったところは私もしゃくらない」の精神を徹底して日本語も英語も録りきったw
結果、自分で何回聴いても
「今回のは良い出来だな」
と思うものに仕上げられたので、みんなも心の中にイマジナリー小野正利を住まわせると良いと思った。
ところで、この収録の前後にアニメの『CLAYMORE』の履修も終えた。
一応毎年年末に公開している「今年履修した作品の感想まとめ」のブログ記事にも書いたけど、
女戦士だらけのアニメなので、それを演じるために出てくる女性声優さんも錚々たる顔ぶれで
「あぁ〜この声優さんは、”強い女”合うよなぁ……あぁ〜この声優さんも(ry」
の連続で面白かった。
朴璐美さんとか、三石琴乃さんとか、高山みなみさんとか、折笠愛さんとか、
「強い女」として出てきたら、その声でもう声優さんが特定可能な上、
今までに演じてきた数々のキャラクターの印象とかが頭のどこかで蓄積されていってるから
その「フラッシュバックに満たない、遠い記憶から来る残り香」みたいなものが蘇ってきて
「それは強い、強いに決まってるよこの声なら」
ってなるのは面白かったw
シンケンジャーで薄皮太夫(CV朴璐美)見てあって、ウテナで有栖川樹璃(CV三石琴乃)見てあって、
プラネテスでフィー・カーマイケル(CV折笠愛)を見てあると、もう声だけで
「あー強いわ」
ってなるからw
これが「男の子役を演ることが多い女性声優さん」の「男の子の強さ」とはまた違って
(もちろん男の子を演じるケースもある声優さんらだが)、
飽くまで「強い女性キャラクター」を演じる声優さんの「強さと女性らしさの両存」みたいなところが
沢山味わえるアニメだなぁと思った。
薄皮太夫とか有栖川樹璃とかも、そういうところがあるキャラクターだからね。
そのへんが好きな人には『CLAYMORE』も合うかもしれないと思った。
ただ、おそらく原作の連載中に始まって連載中に終わったアニメだろうから、
原作の終わりまでアニメ化はしきれていないだろうと思う。
そういう意味で終わり方は原作とは異なるだろうし、しょうがないとも言えるかな。
私は『断罪の花』が『CLAYMORE』のEDだと当時からずっと知っていたから、
この度改めて唄うことにしたしアニメも履修しようって思って見始めただけなのに
脚本:小林靖子
って書いてあって、「やっぱりこれ電王なんじゃね!?」って思ったけどねw
2006〜2007年頃って、小林靖子さんも前田尚紀さんも揃って『CLAYMORE』や電王の仕事してたってことだなw
まぁ、テーマ曲を作る担当の人は、曲作って納品したら終わりな一方、脚本を書く担当の人は
放送開始前から終了まで長期に亘って打ち合わせやら執筆やらをやり続けるところが違うだろうけど。
それで、このようにこのアニメでは「女戦士たちの、強さと女性らしさが共存する」ところが一つの魅力になっていると思ったので
私も『断罪の花』を唄う上ではそういうところを意識するようにした。
思うに、原曲のボーカルであり作詞も手掛けている小坂りゆさんは原作漫画のファンだということだから
やはり小坂りゆさんも小坂りゆさんとして感じた『CLAYMORE』の魅力を歌詞とか歌に込めたのだろう。
歌詞から「強い女性像」みたいなものを感じるのはそのためかもしれない。
私も「アニメの主人公男子みたいな声」と言われることがよくあるけど、
この曲をカバーする上では「主人公男子」ではダメで、
飽くまで女性としてかっこよく唄うことが大事なんじゃないかと思った。
演技に置き換えてみればわかるけど、男の子っぽさっていうイデアみたいなもの、
女の子っぽさっていうイデアみたいなものがそれぞれあって、それをみんな少なからず共有して生きてるから
「っぽく演じる」っていう概念とか技巧が成立するのだと思う。
歌のときも、キャラクターソングだったら「そのキャラクターっぽく、らしく唄う」ということをする必要があるわけで
私は『断罪の花』の収録時には、
「もし自分がCLAYMOREに出てくる戦士の一人を演じることになって、
その人物の戦士としての強さと女性としての儚さや靭やかさを両方表現する必要があって、
決して男の子みたいにはならないようにしなければいけないとしたらどうやって演じるだろうか、
それがキャラソンだったらどう唄うだろうか」
と考えた。
その表現の追究の結果として出来上がったのが今回の動画なので、それをここに記しておこうと思う。
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