マトリックス レザレクションズ /公式サイト
予告等は一切チェックしないで初日に見てきました。
4DXで見ましたが、3Dではないのでメガネは不要です。
アクションシーンは椅子めちゃくちゃ揺らされますので、覚悟して下さいw
まず、ネタバレを含まずに書ける簡単な総評をしますと、
「リアルタイムに全作映画館で見たことがあり、周回もしてきたファンの1人としては
”ちゃんとマトリックスだ”と思えたし、楽しかった」ですね。
ここで問題なのは、リアルタイムで全作見ているっていうのは、ただそれだけですでに「バイアス」がかかるということなんですね。
懐古バイアスというか。思い出補正みたいなものです。
それで、すでにバイアスがかかっている人間には、バイアスがかかる前の人間の感じ方について、
想像を巡らすことすら難しいので、例えば
「過去作をこれから初めて履修する」
っていう人が、3部作全部連続で見た直後に、続けてレザレクションズを見た場合に
どの程度「面白い」と思うか、さっぱりわからないわけですw
例えばリアタイ勢の中にも「2・3作目は蛇足」と思っている人もいるようなので、
そういう人はわざわざ今作も見ない気もしますし、見ても面白く感じなかったり、
また別の蛇足感があると思ったりするのかもしれません。
更に、これから過去作履修して、「3部作楽しめた!」という人ならノータイムでレザレクションズを見ても
面白いのかもしれないし、本当にいろんなパターンがあって誰がどう思うかわからないし、
そこに「リアタイかどうか」があまり関係ない可能性もあるわけなのですが……。
こればかりは本当にわからないんですよね。
私は比較的最近『AKIRA』と『GHOST IN THE SHELL』を見たわけですけど、
どちらも映画史上重要な作品だとわかっているし、後の映像作品等に大きな影響を及ぼしたと知っていますが
「その当時見た人にはすごかったんだろうな」
と頭ではわかるだけで、感覚では「すげえ!」が共感出来なかったわけですよ。
「後に出たものをいくらでも摂取し終わっている」ので、その当時、後続が出てくる前にこれを見る感動は
自分で感じられる状態にはもうなくて。
知ってしまったことを知らなかったことにはできないですもん。
これは物語の筋とかじゃなくて、「映像表現のすごさ」が肝だったりするとより一層そうなんですよね。
例えばゲーム作品もそう。
後続のシリーズ作品をいくつもやり終わってから、1作目をやっても
「へぇ、その当時はこれが画期的だったんだね」
と頭でわかるけど、共感が難しいはずです。
PS5のゲーム体験してから初めてファミコンソフトやっても
「画期的!」
とは思わないだろうし。(ある意味新鮮味は感じるだろうけど)
辿った先のルーツってそういう感じになってしまうのも仕方ないと思うし、マトリックスも
「後の作品に大いに影響を及ぼした」部分がたくさんあるのだけど、だからこそマトリックスをリアルタイムに味わうことなく
「後の作品」の方で“チルドレン成分”を過剰に摂取してたら、今更元祖を初めて見ても
感動が薄い、感動する要素がわからないってなっちゃうのではないかなと思います。
これはもうマトリックスに限った話ではないんですよね……。
特に「映像が画期的な場合」がそうですね。
物語が面白い場合に、10年前の作品でも初見時「VFX技術は今より古めかしいが話は面白い」ってなることはあるんですよ。
最近だと、コードギアスも仮面ライダー電王・オーズ・Wも放映から10年かそれ以上経過してから見たけれど
面白いと思いましたしハマりました。
でも「この映像技術が当時はすごかった」って言われてもピンと来ないっていうのは
どうしてもあるんじゃないかと思います。
10年で映像技術ってものすごいスピードで進歩しますし、そこら中で見かけるようになってしまうので。
なんせ1980年代生まれの我々って親(昭和20年代生まれ)から、
「テレビがカラーになったときはすごかった!」
って言われて育ったわけですけど、自分が生まれたときにはもうカラーだったんだから
「へぇー(鼻ほじ)」
って話じゃないですか。
これと同じで、例えば今の10代とかにいくら「上映当時のマトリックスは革新的だったんだ!」って言っても
「へぇー(鼻ほじ)」
っていう反応される可能性があるわけですよ。
だから、私と同じくらいレザレクションズを楽しめる人がいるとすれば、それは
「リアタイで3部作見てたし、すごく気に入っていた人たち」である可能性は高いかなとは思います。
少なくとも、
「3部作一度も見たことないけど、レザレクションズでマトリックス初見です」
っていうのは絶対オススメしないですねw
特に作中でニヤっと出来るシーンは、3部作の登場人物や展開をしっかり押さえていることが前提になります。
話が繋がっているので当然といえば当然ですが。
なおかつ現実世界で20年経過しているということが、作中の表現においてもかなり重要な意味を持つので
「こいつが出てきたかー!」「そう来たかー!」って思えるためには、事前知識が必須になるし
「懐古」のバイアスがそれを底上げするところがどうしてもあると思います。
だから、
・マトリックスを上映当時に履修済みか
・マトリックスシリーズが好きか
という2つの要素は結構大きいと思っていて、逆をいえば両方に当てはまる人はそこそこにいるはずだとも思うし
この層が一番楽しめるポテンシャルを本人たちの内側に秘めていると思います。
そんなわけで、レボリューションズまでの3部作をリアタイで見ていて、
なおかつ3部作全体で面白かったと思っている人には見てもらうのが良いかな〜と。
そして、そういう人同士で語るのはきっと楽しいと思いました。
かつて、都内でやった「マトリックス3部作オールナイト上映」に行った人とかw
パンフレットを読むと「監督が秘めたメッセージ」とかについて色々解説はあるし、
「そういう事情があって、こういう作品になったのは納得」
というふうに感じると思うんですけど、私はマトリックスって、そういう「作者や社会の事情」を一旦抜きにして見ても
単純に娯楽作品として面白いシリーズだと言うことも可能だと思っているし、
そこが凄さだとも思うので、より一層、シリーズが好きな人にはレザレクションズも押さえておいて欲しいなと思いました。
「作者はこのとき、こう考えていた」なんていう文脈は、
受け手にとっては、作品を楽しむ上で必須情報ではないですからね。
それを抜きにしてもちゃんと面白いものが娯楽作品だと思います。
強いて言えば、「過去作を一周見てある」程度だったらば、改めて3部作を復習してから
時間をあまり空けずにレザレクションズを見に行くと、一層面白いんじゃないでしょうか!
以下は、考察の上で必要な部分についてのネタバレを含みながらの記事になるので、
続きを読むかどうかは、「見終わってるのでネタバレは問題にならない」とか
「これから見る予定だけどネタバレがあることを気にしない」などの人が
自分の責任で決めてくださいませ。
予告等は一切チェックしないで初日に見てきました。
4DXで見ましたが、3Dではないのでメガネは不要です。
アクションシーンは椅子めちゃくちゃ揺らされますので、覚悟して下さいw
まず、ネタバレを含まずに書ける簡単な総評をしますと、
「リアルタイムに全作映画館で見たことがあり、周回もしてきたファンの1人としては
”ちゃんとマトリックスだ”と思えたし、楽しかった」ですね。
ここで問題なのは、リアルタイムで全作見ているっていうのは、ただそれだけですでに「バイアス」がかかるということなんですね。
懐古バイアスというか。思い出補正みたいなものです。
それで、すでにバイアスがかかっている人間には、バイアスがかかる前の人間の感じ方について、
想像を巡らすことすら難しいので、例えば
「過去作をこれから初めて履修する」
っていう人が、3部作全部連続で見た直後に、続けてレザレクションズを見た場合に
どの程度「面白い」と思うか、さっぱりわからないわけですw
例えばリアタイ勢の中にも「2・3作目は蛇足」と思っている人もいるようなので、
そういう人はわざわざ今作も見ない気もしますし、見ても面白く感じなかったり、
また別の蛇足感があると思ったりするのかもしれません。
更に、これから過去作履修して、「3部作楽しめた!」という人ならノータイムでレザレクションズを見ても
面白いのかもしれないし、本当にいろんなパターンがあって誰がどう思うかわからないし、
そこに「リアタイかどうか」があまり関係ない可能性もあるわけなのですが……。
こればかりは本当にわからないんですよね。
私は比較的最近『AKIRA』と『GHOST IN THE SHELL』を見たわけですけど、
どちらも映画史上重要な作品だとわかっているし、後の映像作品等に大きな影響を及ぼしたと知っていますが
「その当時見た人にはすごかったんだろうな」
と頭ではわかるだけで、感覚では「すげえ!」が共感出来なかったわけですよ。
「後に出たものをいくらでも摂取し終わっている」ので、その当時、後続が出てくる前にこれを見る感動は
自分で感じられる状態にはもうなくて。
知ってしまったことを知らなかったことにはできないですもん。
これは物語の筋とかじゃなくて、「映像表現のすごさ」が肝だったりするとより一層そうなんですよね。
例えばゲーム作品もそう。
後続のシリーズ作品をいくつもやり終わってから、1作目をやっても
「へぇ、その当時はこれが画期的だったんだね」
と頭でわかるけど、共感が難しいはずです。
PS5のゲーム体験してから初めてファミコンソフトやっても
「画期的!」
とは思わないだろうし。(ある意味新鮮味は感じるだろうけど)
辿った先のルーツってそういう感じになってしまうのも仕方ないと思うし、マトリックスも
「後の作品に大いに影響を及ぼした」部分がたくさんあるのだけど、だからこそマトリックスをリアルタイムに味わうことなく
「後の作品」の方で“チルドレン成分”を過剰に摂取してたら、今更元祖を初めて見ても
感動が薄い、感動する要素がわからないってなっちゃうのではないかなと思います。
これはもうマトリックスに限った話ではないんですよね……。
特に「映像が画期的な場合」がそうですね。
物語が面白い場合に、10年前の作品でも初見時「VFX技術は今より古めかしいが話は面白い」ってなることはあるんですよ。
最近だと、コードギアスも仮面ライダー電王・オーズ・Wも放映から10年かそれ以上経過してから見たけれど
面白いと思いましたしハマりました。
でも「この映像技術が当時はすごかった」って言われてもピンと来ないっていうのは
どうしてもあるんじゃないかと思います。
10年で映像技術ってものすごいスピードで進歩しますし、そこら中で見かけるようになってしまうので。
なんせ1980年代生まれの我々って親(昭和20年代生まれ)から、
「テレビがカラーになったときはすごかった!」
って言われて育ったわけですけど、自分が生まれたときにはもうカラーだったんだから
「へぇー(鼻ほじ)」
って話じゃないですか。
これと同じで、例えば今の10代とかにいくら「上映当時のマトリックスは革新的だったんだ!」って言っても
「へぇー(鼻ほじ)」
っていう反応される可能性があるわけですよ。
だから、私と同じくらいレザレクションズを楽しめる人がいるとすれば、それは
「リアタイで3部作見てたし、すごく気に入っていた人たち」である可能性は高いかなとは思います。
少なくとも、
「3部作一度も見たことないけど、レザレクションズでマトリックス初見です」
っていうのは絶対オススメしないですねw
特に作中でニヤっと出来るシーンは、3部作の登場人物や展開をしっかり押さえていることが前提になります。
話が繋がっているので当然といえば当然ですが。
なおかつ現実世界で20年経過しているということが、作中の表現においてもかなり重要な意味を持つので
「こいつが出てきたかー!」「そう来たかー!」って思えるためには、事前知識が必須になるし
「懐古」のバイアスがそれを底上げするところがどうしてもあると思います。
だから、
・マトリックスを上映当時に履修済みか
・マトリックスシリーズが好きか
という2つの要素は結構大きいと思っていて、逆をいえば両方に当てはまる人はそこそこにいるはずだとも思うし
この層が一番楽しめるポテンシャルを本人たちの内側に秘めていると思います。
そんなわけで、レボリューションズまでの3部作をリアタイで見ていて、
なおかつ3部作全体で面白かったと思っている人には見てもらうのが良いかな〜と。
そして、そういう人同士で語るのはきっと楽しいと思いました。
かつて、都内でやった「マトリックス3部作オールナイト上映」に行った人とかw
パンフレットを読むと「監督が秘めたメッセージ」とかについて色々解説はあるし、
「そういう事情があって、こういう作品になったのは納得」
というふうに感じると思うんですけど、私はマトリックスって、そういう「作者や社会の事情」を一旦抜きにして見ても
単純に娯楽作品として面白いシリーズだと言うことも可能だと思っているし、
そこが凄さだとも思うので、より一層、シリーズが好きな人にはレザレクションズも押さえておいて欲しいなと思いました。
「作者はこのとき、こう考えていた」なんていう文脈は、
受け手にとっては、作品を楽しむ上で必須情報ではないですからね。
それを抜きにしてもちゃんと面白いものが娯楽作品だと思います。
強いて言えば、「過去作を一周見てある」程度だったらば、改めて3部作を復習してから
時間をあまり空けずにレザレクションズを見に行くと、一層面白いんじゃないでしょうか!
以下は、考察の上で必要な部分についてのネタバレを含みながらの記事になるので、
続きを読むかどうかは、「見終わってるのでネタバレは問題にならない」とか
「これから見る予定だけどネタバレがあることを気にしない」などの人が
自分の責任で決めてくださいませ。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
私が、マトリックスシリーズの重要なテーマのひとつだと考えていることに
「我々は何が現実かをどうやって判断しながら生きているのか」
というのがあります。
すごく身近なことでは、寝ている時に見る「夢」とか。
「夢をよく見る、夢を記憶して起きることが出来る」人間(私もそう)は、
日々の夢と現実の区別をどうやってつけているのか。
これ、自分でも「なんとなく」としか言えないんですよね。
むしろ、実は区別してる「つもり」になっているだけで、今この瞬間すら、「夢の中」かもしれないとすら思います。
『マトリックス』を見ることで余計にそう思うようになりました。
そう考えると「ほっぺを抓って痛いかどうか」なんていうことは、もう現実であることの証明にならない気もします。
「これは夢だ」「今のは夢だった」と思った出来事よりも、今この時間の方が、
「寝る前の時間や世界や出来事との連続性を強く感じられるから」、
連続性を強く感じられる世界を現実ということにして、そうでないものを夢だと思っているだけ……。
そのくらい、夢を頻繁に見る人間としては、「あやふやだけど、こう定義するしかない」からそうしています。
だから究極的には、「ここを現実だと思う理由」は、「なんとなく私がそう思うから」なんですよね。
自分が「そう思わなくなった」瞬間に、何が現実かは簡単に揺らぐと思います。
「これは夢だ」と思いながら明晰夢を見ることもありますが、その一方で、
目が覚めるまでは何回見ても「これは夢だな」と思えない、見ている間中現実のつもりで見続けてしまう夢もありますので。
私は夢の中で色を見ているし、味も感じるし、触ったものの感触もわかります。
マトリックス界は夢よりももっと「現実との区別」がつかないし、つける必要すらもないようなものです。
脳みそを直接メタバースに接続するようなもので、味や匂いや触れる感覚すらも直接神経に伝わってくるので、
マトリックス界では「頬を抓れば痛い」わけですよ。
現実の、物理の自分は頬を抓られていなくとも!
でももしも、その「なんとなく」自分で決めていた「これが現実」の定義が根底から揺らぐような出来事が起こったら
「世界そのものがひっくり返る」わけですよね。
自分が思っていたのは現実じゃなかった。世界は世界じゃなかった。
それがパラダイムシフトだし、マトリックス1作目もまずそこから始まりました。
五感が働いているのに、認知している世界が現実じゃないとしたら、
すべては脳みその中で「情報」が処理されているに過ぎない。
「感じて」はいたけれど、目は見てない、耳は聴いてない、手は触っていないということになります。
こういうパラダイムシフトが起こる作品に触れるたびに私は、頭をぶん殴られる気持ちがしました。
最初は、『ザ・ギバー』を読んだ時。
次が『マトリックス』を見た時。その次が『トゥルーマンショー』を見た時ですかね。
もちろんそれ以外でも、いわゆる「夢オチ」と言われるものは、構造としては一緒です。
「ずっと現実だと思っていたけど、全部、夢の中の出来事だった」。
でも、『マトリックス』でも『ザ・ギバー』でも『トゥルーマンショー』でも言えるのは、
現実だと思っていた世界が、現実より恵まれているように見せかけて、実はずっと
「自分の人間としての尊厳を傷つけて、善人面をしてくる」分、
「夢オチ」よりも断然酷いということです。
それで、レザレクションズではまた頭をぶんぶん振り回して、脳みそをかき混ぜられるところからスタートで
「何が現実なのか。どうやって現実を見分けるのか」
という1作目のスタート地点に引き戻されて、視聴者はネオと一緒に混乱しながら、
『マトリックス』のセルフオマージュの中でまた「現実」を手探りで掴んでいくんです。
この「ネオと一緒に混乱する」というところに、すごく引き込まれる部分があるんですよね。
主人公が混乱している時、私達も見ながら混乱しているし、すごく主人公に共感する。
没入感と主人公への感情移入も強まります。
はじめは「1〜3作目はすべてゲームだった」と思わされるし、ネオも「そう思うことにしている」ようなので
見ている方も「えっ、そうだったの? マジで?」と半信半疑ながら、その可能性も踏まえて話を追っていきます。
(無限ループのゲームの中にいるってこと? と思ったときには「ALL YOU NEED IS KILL」を思い出しました)
けれどやはり私もネオも、「あれがゲームだったとは到底思えない」わけですよ。
あれがゲームだったという現実を疑い、洗脳から抜け出そうとします。
(実際、マトリックスは3回もゲーム化されちゃってるから困る)
そうして再び現実に覚醒します。
「何が現実かわからなければ、戦えない」と言っていたけど、そのとおりで
覚醒したことでやっと「戦うか、戦わないか」という2択の話が始められるんですね。
この2択(つまり二元論)の話。
3部作では終盤までずっと「戦う」を選んできたんですけど、最後の最後にネオは
「勝つ/負ける」みたいな二元論をやめて、その先にある選択肢を掴もうとしました。
アウフヘーベン(止揚)というかね。
だから私達は、ネオは犠牲になったけれどその結果「戦うか戦わないか」だけが選択肢ではない時代が
人間と機械の世界に訪れた……はず……そうだと良いなと信じていました。
「敵か味方か」とか「分断」だけの世界が融和していく感じ。
そうでないとネオもトリニティも報われないので。
ネオ本人も今回の覚醒後に
「そうじゃなきゃ、自分たちの成し遂げたことは無意味だったことになってしまう」
と言っていました。
実際、「シンシエント」と呼ばれる、「人間と共存・協力している機械族」や、プログラム(AI等)も存在していて
3部作でネオたちがやったことは確かに無駄ではなかったということが確認できて安心したりしました。
でも、今回は今回の「戦い」というか「選択」というかを迫られているのも確かで、
そこでは再び
「何が、私達にとって現実か」
ということが問題になってきます。
ネオは再び覚醒して「戦うか、戦わないか」の2択では「トリニティを取り戻すために戦う」ことを即決で選んだのですが、
トリニティの方は「何が自分にとって現実なのか」の選択を迫られます。
一度は、マトリックス界での今までの暮らしが既に自分の中で「現実」であると結論づけるものの
それは「飼いならされた感覚」であると思い直して、ちゃんと「覚醒」してたので
こういう展開は王道だけあってカタルシスもありました。
最終的にはネオより先にトリニティが「空を飛べるようになる」のも、
「こういうふうだったら、それはそれでいいな」
と思っていた展開なので、私は結構すんなり受け入れられましたね。
そもそも、1作目からずっと、トリニティは「守られるだけのお姫様じゃない」ヒロインでしたし。
「何の変哲もない」と自分で思っていた主人公が、「自分で道を選ぶこと」で救世主になる
っていうのもマトリックスの「らしさ」の一つ、テーマの一つだと思うので、
その部分ももう一度押さえてくれて胸アツなところがありました。
やはり、「お仕着せの使命と栄光」を手に入れても、「その人である必要性」が薄く感じてしまうので、
フィクションの主人公には、本人なりの思想とか覚悟とか選択の上で何かを成し遂げて欲しいです。
見ている方もそれでこそ主人公だと思えるので。
人間の想像力や決断は、「設計通りに動くプログラム」を超越した力を発揮できる。
プログラムは「物理法則」を超越出来ないけれど、想像力はそれを凌駕していく。
そこが、マトリックス界においてネオが持ちうる最大のアドバンテージでしたので、
選ばれた救世主では意味がなく「選ぶから救世主である」というテーマと、
「主人公の覚醒」が化学反応起こすのが、とても良いな〜と思います。
みんながみんな、自分のやりたいことややるべきことを完全に把握して生きているなんてことないと思います。
でもフィクションにおける主人公には、時には迷いながらでも自分で自分の道をちゃんと決めて
さらに、その結果を自分自身の責任において受け止めて欲しいですし、なんなら成長もしてほしいです。
そういうところから、カリスマ性が感じられる主人公が私は好きですね。
・その他の細かい点について
モーフィアスが「プログラム」っていうか、もはや一種の「概念」?みたいになっていたのが面白かったです。
元々の彼はもう死んで、銅像が建てられているのだけど、伝道師のような役割を全うしたのだなと思いました。
しかも今のモーフィアスは単なるプログラムではなく、粒子を寄せ集める形で現実世界に「現れる」ことも可能だし
そのおかげで生身の人間にはこなすのが難しい役目を果たしてくれたりもします。
現実世界ではモーフィアス(人間)がずっとネオを「信じ」て、人々の心の支えを構築しようとしてくれてて
一方ネオはマトリックス界で次のモーフィアスを「作った」という関係性が面白いです。
ここまではネオは信仰対象という意味でも創造主という意味でも神ですよね。
一方、同じ「人物」ではないのに、モーフィアスという「概念」は、マトリックスの中と外で通底しているんですね。
ネオは救世主として信仰対象かもしれませんが、「通底する概念」となったモーフィアスのほうも
これはこれで一種の「神」に近い存在にも思えます。
その他、ナイオビとかサティみたいに、「過去作にもいた人物(プログラムが人の形をとったもの)」が
ちゃんと作中でも時間が経った形で出てきて、一番のインパクトは
「メロビンジアンの没落ぶりが哀れ」っていうところでしたねw
パッと見てすぐにはメロビンジアンだとわからんよwwってなりました。
ただの口汚いホームレスになってた。(元は口汚い貴族風のプログラムだった)
このへんは特に、「過去作をちゃんと踏まえている人」ほどニヤっと出来る部分でしたので、
一度は3部作を見ている人でも、直前に復習してから行くとより一層
「あ、この人はあの人か!」
って脳みそのシナプスが繋がりやすくて快適なんじゃないですかねw
それから、アナリスト(カウンセラー)についてだけど、私は……
『マッチスティック・メン』の影響で、
「カウンセラーってのが怪しいな」
と思い続けながら見てしまいましたが、その予感が的中。
これは『マッチスティック・メン』見た人ならわかってくれるだろうし
悪いのは『マッチスティック・メン』だと思ってますw
別に現実のカウンセラーを胡散臭いとは思わないけど、映画のカウンセラーは怪しいんですよ。
『マッチスティック・メン』を見た人はわかってくれるw
音の話。
ネオが再度覚醒して、アイオに到着してナイオビと話す時、ナイオビが
「ここは……静かでしょう?」
と確認するように尋ねてくるところについてです。
ここが「本当に静か」なのです。
そしてそれが演出だというのもすぐにわかりました。
というのは、マイトリックス内で、旧スミスやアナリストと話している時に、
聞こえるか聞こえないかくらいの重低音のノイズみたいなものが断続的に入ってくるのです。
すごく、気持ちをザワつかせるような音。
ブオォォーーーーーーン――……みたいな。(ドグラ・マグラの冒頭)
それがずっと気になっていて、それはネオの心理描写のための音響演出だと思っていました。
もちろんその意図も含まれるのでしょうが、そのザワザワするようなノイズがすべてさっぱりと
削ぎ落とされる瞬間が、このナイオビとの会話のシーンで、ナイオビが静かでしょうと尋ねてくるより前に
「すごく静かになったな」
と感じていました。
だから、心理描写の意味だけじゃなく、マトリックス界ならではのノイズっていうのが実際にあって
そこから解放されることも覚醒の一部なのだと思いました。
それにナイオビが言う通り、「機械が襲ってこない」というのも、現実に生きる人達にとって
静寂が証明してくれるというか、静寂が平和の象徴みたいなところがあるんでしょうね。
作中、「ここはどこだ?」「東京よ」というシーンがあって、それがなんらかの高速鉄道車内で
無国籍じみた人々(日本人っぽくはない)が乗っていて、遠くに富士山が見えるって感じなんですけど、
まぁ一言で言ってしまえば
「東京そんなんじゃないだろうw」
って感じなんですよ。
でも、それはわかってて作ってると思うんですよね。
なぜならば! そこは! 「マトリックス界の東京」だから!!!
AIやプログラムが、遺された大昔の記録から「東京」っていう概念を解析、再構築したものだから
現実・現代の東京とどこかズレていても、それこそが辻褄合うという感じもしましたね。
「伝言ゲームの限界」みたいなw
メタの話をしますと、リローデッド〜レボリューションズの頃、つまり2003年のインターネットにおいて
「エージェントスミスOFF」っていうフラッシュモブのオフ会が流行ったんですよね。
私は行ったことはないですけどw
2ちゃんねるの「オフ板」ではかなりのパート数になっていたはずです。
行ったことがなくても知っているくらいの大規模オフですし。
まぁオフと言っても「フラッシュモブ」をするのが目的なので、
参加したい人間はエージェントスミスのコスプレをして決まった日の決まった時間、
決まった地域に出没するんだけど互いに交流とかはしないで
「ネオを探すスミスのような挙動をする」イベントですね。
集会が目的ではないため「オフ会」と呼ぶのも変かもしれませんが、便宜上オフ会と呼ばれていました。
それはまだ、集会としては可愛いもので、マトリックスってのちに本国アメリカでは
「プロパガンダに利用された」部分があって、
「赤いピルを飲む」っていうのが政治的な意味を持ってしまったんですよね。(2018年頃〜)
これは『1984』というディストピア小説が、その小説が書かれた時代の社会に向けて
著者が放った「警告のメッセージ」が、イデオロギーの統率やプロパガンダに利用されてしまったのに似ていると思いましたね。
『1984』も最近読んだところですけど、本当に救いのないディストピア物で、読後感の「ぞわぞわ」「心のざわつき」はなんとも言えません。
マトリックスの場合は、不思議の国のアリスや鏡の国のアリスをモチーフにしながら
白いウサギの後を追って、赤いピルを選択すると「現実への覚醒」をする展開になっていますが、
それが「私達もこの世界(政治)が狂っていることに気付いて目覚めよう!」という
政治的メッセージで引用・濫用されてしまったのです。
政治的というか、「陰謀論者がカルト集団を形成するのに使った」とも言えるのかも。
そういうこともあって、多分監督は『マトリックス』というシリーズをもう一度、
単純な娯楽作品として、「奪還」したかったのかもしれませんね。
「レザレクションズ」は復活の複数形ですが、この作品はマトリックスシリーズそのものの復活でもあり
ネオとトリニティの復活でもあり、監督によるマトリックスシリーズの、
ネオによるトリニティの「奪還劇」でもあります。
パンフレットを読んでいるとそういう事情があって今回の作品製作が進められたというのがわかりましたし、
その上でやはり、「そういう事情を別にしても面白い」作品にしているのだからすごいと思いました。
作中でフェイスブックやウィキリークスが具体名を挙げて揶揄されているシーンなどは、
「アメリカらしいな!w」と思いましたし、監督からの皮肉が込められているのもわかりました。
そして、「そういうこと」をパンフレットを読んで理解しなくても、作品単体で筋が通っているわけですから
「娯楽作品は斯くあるべきだなあ」
と感心しました。
それから、直前に「The Matrix Awakens: An Unreal Engine 5 Experience」を見ていたのが
映画体験に深みをもたらしてくれて面白かったんですよ〜。
4DXで見たので、椅子が揺れたり、水しぶきがかかったり、トリニティが決定を覆すところなんかは
ふわ〜っと花のような匂いまで漂ってきたし、そういう意味でのアトラクション的な楽しみもすごくあったんですけど。
UNREAL ENGINE5では、「映画の中にいる」ような没入感でゲームをプレイするのが常識になるんだなぁ
すごいなぁ、そしてある意味では怖いなぁと思いました。
それを見せてもらった後に映画。
「全てはゲームだった」からのスタートだったので
「UNREAL ENGINE5製のゲームだった みたいなことか……」
って考えを巡らせたりすることになりましたが、おそらくそれすらも全部仕組まれてたことだと思うので
とても楽しませてもらいましたね。
UNREAL ENGINE5と映画両方のプロモーションとして成功してると思いますw
アザンさんが、作業配信の中でやっていて、以下のアーカイブを再生したら
その部分から見られるように設定されています。(開始から5時間16分頃〜)
もちろんPS5を持っている人は、自分のところでDLしてきてプレイするのが一番だと思いますが、
配信で見ても十分に「PS5とUNREAL ENGINE5やべぇな」ってなれるので見てみて下さい。
「実在の人物をCGで再現し、不気味の谷を越えさせる」っていうのは、STAR WARSのローグ・ワンで
ラストに出てくるレイア姫が、「エピソード4当時のその人のままにしか見えない」っていう成功例があるんですけど、
これって「映画」の映像技術でやったことなわけですよね。
それが、これからは「ゲーム」の映像技術としても使えてしまうということなんですよ。
ゲームだと、同じく「実在の人物をCGで再現し、不気味の谷を越えさせた」例として、
「デス・ストランディング」がすごかったと思います。
UNREAL ENGINE5においては「ゲーム映像として」、「1999年当時のネオ」が動くし喋る。
おそらくUNREAL ENGINE5では、デス・ストランディングももっと登場人物たちを
「元の俳優本人にしか見えない状態」にしてゲームに登場させられるのだろうし、
その人達を若返らせたり、老けさせることも違和感なくデータ上で出来てしまうんでしょうね。
本人と見分けのつかない「リアルアバター」がゲーム上で動かせるのだからすごい。
マトリックスは、繰り返し見てきて、ブログに記事もあります。
2002年にマトリックスをレンタルで初視聴した時
今日の映画は
2003年に映画館でレボリューションズを見た時
【映画】壮絶! 「Matrix Revolutions」
2019年。公開20年記念で4DMX上映されて映画館行った時
【映画】THE MATRIX MX4D
Reloadedは記事がないんですけど、映画館で2回見たかも。
3部作を全部映画館で1度は見ていることは確かで、それ以外にも家で見て、考察をして自分の解釈の幅を広げて
記事では当時「謎だった」「わからないところがあった」と言っている部分も、自分なりに言語化できるようになるまで見て
それで今回のレザレクションズだったわけですが、なかなか語り合える相手はいないですね……w
強いて言えば、私にとって語り合える相手は「このブログ」っていう感じになってしまいました。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
ところで、今回4DXで見たので、イオンモールつくばのUSシネマで見たわけですけど、
イオンモールつくばにはMoffがあるんですよねぇ〜〜〜。
しかも、この間イーアスつくばのMoffに行った時に、チンチラ抱っこしてたら、店員さんが
「今はイオンモール店の方にカピバラちゃんいるんですよー!」
と教えてくれたので、
「カピバラをモフれるだと!? 次イオン行く時絶対寄らねばー」
って思ってたんですよー。
カピバラが「モフモフ」なのかどうかはまた別の問題だったけどww
ここの店舗には他にもインコ系の鳥が放されている「小鳥小屋」があり、ミーアキャットとフェネックもいる。
モルモット、ハムスター、ウサギの数も豊富で、カピバラやトイプードルは放し飼い。
ヒョウモントカゲモドキもいますし、スタッフさんに声をかけてふれあいすることも可能です。
フクロウ・ミミズクの腕のせやなでなでも可能!
ですので、イオンモールつくばで4DXやADMIXで映画を見る時には、その前か後に1時間くらいの猶予を見ておいて、
Moffに寄ると良いですよ!!(´∀`人)
(イーアスつくばで映画を見る場合でもMoffありますよ!!)
私が、マトリックスシリーズの重要なテーマのひとつだと考えていることに
「我々は何が現実かをどうやって判断しながら生きているのか」
というのがあります。
すごく身近なことでは、寝ている時に見る「夢」とか。
「夢をよく見る、夢を記憶して起きることが出来る」人間(私もそう)は、
日々の夢と現実の区別をどうやってつけているのか。
これ、自分でも「なんとなく」としか言えないんですよね。
むしろ、実は区別してる「つもり」になっているだけで、今この瞬間すら、「夢の中」かもしれないとすら思います。
『マトリックス』を見ることで余計にそう思うようになりました。
そう考えると「ほっぺを抓って痛いかどうか」なんていうことは、もう現実であることの証明にならない気もします。
「これは夢だ」「今のは夢だった」と思った出来事よりも、今この時間の方が、
「寝る前の時間や世界や出来事との連続性を強く感じられるから」、
連続性を強く感じられる世界を現実ということにして、そうでないものを夢だと思っているだけ……。
そのくらい、夢を頻繁に見る人間としては、「あやふやだけど、こう定義するしかない」からそうしています。
だから究極的には、「ここを現実だと思う理由」は、「なんとなく私がそう思うから」なんですよね。
自分が「そう思わなくなった」瞬間に、何が現実かは簡単に揺らぐと思います。
「これは夢だ」と思いながら明晰夢を見ることもありますが、その一方で、
目が覚めるまでは何回見ても「これは夢だな」と思えない、見ている間中現実のつもりで見続けてしまう夢もありますので。
私は夢の中で色を見ているし、味も感じるし、触ったものの感触もわかります。
マトリックス界は夢よりももっと「現実との区別」がつかないし、つける必要すらもないようなものです。
脳みそを直接メタバースに接続するようなもので、味や匂いや触れる感覚すらも直接神経に伝わってくるので、
マトリックス界では「頬を抓れば痛い」わけですよ。
現実の、物理の自分は頬を抓られていなくとも!
でももしも、その「なんとなく」自分で決めていた「これが現実」の定義が根底から揺らぐような出来事が起こったら
「世界そのものがひっくり返る」わけですよね。
自分が思っていたのは現実じゃなかった。世界は世界じゃなかった。
それがパラダイムシフトだし、マトリックス1作目もまずそこから始まりました。
五感が働いているのに、認知している世界が現実じゃないとしたら、
すべては脳みその中で「情報」が処理されているに過ぎない。
「感じて」はいたけれど、目は見てない、耳は聴いてない、手は触っていないということになります。
こういうパラダイムシフトが起こる作品に触れるたびに私は、頭をぶん殴られる気持ちがしました。
最初は、『ザ・ギバー』を読んだ時。
次が『マトリックス』を見た時。その次が『トゥルーマンショー』を見た時ですかね。
もちろんそれ以外でも、いわゆる「夢オチ」と言われるものは、構造としては一緒です。
「ずっと現実だと思っていたけど、全部、夢の中の出来事だった」。
でも、『マトリックス』でも『ザ・ギバー』でも『トゥルーマンショー』でも言えるのは、
現実だと思っていた世界が、現実より恵まれているように見せかけて、実はずっと
「自分の人間としての尊厳を傷つけて、善人面をしてくる」分、
「夢オチ」よりも断然酷いということです。
それで、レザレクションズではまた頭をぶんぶん振り回して、脳みそをかき混ぜられるところからスタートで
「何が現実なのか。どうやって現実を見分けるのか」
という1作目のスタート地点に引き戻されて、視聴者はネオと一緒に混乱しながら、
『マトリックス』のセルフオマージュの中でまた「現実」を手探りで掴んでいくんです。
この「ネオと一緒に混乱する」というところに、すごく引き込まれる部分があるんですよね。
主人公が混乱している時、私達も見ながら混乱しているし、すごく主人公に共感する。
没入感と主人公への感情移入も強まります。
はじめは「1〜3作目はすべてゲームだった」と思わされるし、ネオも「そう思うことにしている」ようなので
見ている方も「えっ、そうだったの? マジで?」と半信半疑ながら、その可能性も踏まえて話を追っていきます。
(無限ループのゲームの中にいるってこと? と思ったときには「ALL YOU NEED IS KILL」を思い出しました)
けれどやはり私もネオも、「あれがゲームだったとは到底思えない」わけですよ。
あれがゲームだったという現実を疑い、洗脳から抜け出そうとします。
(実際、マトリックスは3回もゲーム化されちゃってるから困る)
そうして再び現実に覚醒します。
「何が現実かわからなければ、戦えない」と言っていたけど、そのとおりで
覚醒したことでやっと「戦うか、戦わないか」という2択の話が始められるんですね。
この2択(つまり二元論)の話。
3部作では終盤までずっと「戦う」を選んできたんですけど、最後の最後にネオは
「勝つ/負ける」みたいな二元論をやめて、その先にある選択肢を掴もうとしました。
アウフヘーベン(止揚)というかね。
だから私達は、ネオは犠牲になったけれどその結果「戦うか戦わないか」だけが選択肢ではない時代が
人間と機械の世界に訪れた……はず……そうだと良いなと信じていました。
「敵か味方か」とか「分断」だけの世界が融和していく感じ。
そうでないとネオもトリニティも報われないので。
ネオ本人も今回の覚醒後に
「そうじゃなきゃ、自分たちの成し遂げたことは無意味だったことになってしまう」
と言っていました。
実際、「シンシエント」と呼ばれる、「人間と共存・協力している機械族」や、プログラム(AI等)も存在していて
3部作でネオたちがやったことは確かに無駄ではなかったということが確認できて安心したりしました。
でも、今回は今回の「戦い」というか「選択」というかを迫られているのも確かで、
そこでは再び
「何が、私達にとって現実か」
ということが問題になってきます。
ネオは再び覚醒して「戦うか、戦わないか」の2択では「トリニティを取り戻すために戦う」ことを即決で選んだのですが、
トリニティの方は「何が自分にとって現実なのか」の選択を迫られます。
一度は、マトリックス界での今までの暮らしが既に自分の中で「現実」であると結論づけるものの
それは「飼いならされた感覚」であると思い直して、ちゃんと「覚醒」してたので
こういう展開は王道だけあってカタルシスもありました。
最終的にはネオより先にトリニティが「空を飛べるようになる」のも、
「こういうふうだったら、それはそれでいいな」
と思っていた展開なので、私は結構すんなり受け入れられましたね。
そもそも、1作目からずっと、トリニティは「守られるだけのお姫様じゃない」ヒロインでしたし。
「何の変哲もない」と自分で思っていた主人公が、「自分で道を選ぶこと」で救世主になる
っていうのもマトリックスの「らしさ」の一つ、テーマの一つだと思うので、
その部分ももう一度押さえてくれて胸アツなところがありました。
やはり、「お仕着せの使命と栄光」を手に入れても、「その人である必要性」が薄く感じてしまうので、
フィクションの主人公には、本人なりの思想とか覚悟とか選択の上で何かを成し遂げて欲しいです。
見ている方もそれでこそ主人公だと思えるので。
人間の想像力や決断は、「設計通りに動くプログラム」を超越した力を発揮できる。
プログラムは「物理法則」を超越出来ないけれど、想像力はそれを凌駕していく。
そこが、マトリックス界においてネオが持ちうる最大のアドバンテージでしたので、
選ばれた救世主では意味がなく「選ぶから救世主である」というテーマと、
「主人公の覚醒」が化学反応起こすのが、とても良いな〜と思います。
みんながみんな、自分のやりたいことややるべきことを完全に把握して生きているなんてことないと思います。
でもフィクションにおける主人公には、時には迷いながらでも自分で自分の道をちゃんと決めて
さらに、その結果を自分自身の責任において受け止めて欲しいですし、なんなら成長もしてほしいです。
そういうところから、カリスマ性が感じられる主人公が私は好きですね。
・その他の細かい点について
モーフィアスが「プログラム」っていうか、もはや一種の「概念」?みたいになっていたのが面白かったです。
元々の彼はもう死んで、銅像が建てられているのだけど、伝道師のような役割を全うしたのだなと思いました。
しかも今のモーフィアスは単なるプログラムではなく、粒子を寄せ集める形で現実世界に「現れる」ことも可能だし
そのおかげで生身の人間にはこなすのが難しい役目を果たしてくれたりもします。
現実世界ではモーフィアス(人間)がずっとネオを「信じ」て、人々の心の支えを構築しようとしてくれてて
一方ネオはマトリックス界で次のモーフィアスを「作った」という関係性が面白いです。
ここまではネオは信仰対象という意味でも創造主という意味でも神ですよね。
一方、同じ「人物」ではないのに、モーフィアスという「概念」は、マトリックスの中と外で通底しているんですね。
ネオは救世主として信仰対象かもしれませんが、「通底する概念」となったモーフィアスのほうも
これはこれで一種の「神」に近い存在にも思えます。
その他、ナイオビとかサティみたいに、「過去作にもいた人物(プログラムが人の形をとったもの)」が
ちゃんと作中でも時間が経った形で出てきて、一番のインパクトは
「メロビンジアンの没落ぶりが哀れ」っていうところでしたねw
パッと見てすぐにはメロビンジアンだとわからんよwwってなりました。
ただの口汚いホームレスになってた。(元は口汚い貴族風のプログラムだった)
このへんは特に、「過去作をちゃんと踏まえている人」ほどニヤっと出来る部分でしたので、
一度は3部作を見ている人でも、直前に復習してから行くとより一層
「あ、この人はあの人か!」
って脳みそのシナプスが繋がりやすくて快適なんじゃないですかねw
それから、アナリスト(カウンセラー)についてだけど、私は……
『マッチスティック・メン』の影響で、
「カウンセラーってのが怪しいな」
と思い続けながら見てしまいましたが、その予感が的中。
これは『マッチスティック・メン』見た人ならわかってくれるだろうし
悪いのは『マッチスティック・メン』だと思ってますw
別に現実のカウンセラーを胡散臭いとは思わないけど、映画のカウンセラーは怪しいんですよ。
『マッチスティック・メン』を見た人はわかってくれるw
音の話。
ネオが再度覚醒して、アイオに到着してナイオビと話す時、ナイオビが
「ここは……静かでしょう?」
と確認するように尋ねてくるところについてです。
ここが「本当に静か」なのです。
そしてそれが演出だというのもすぐにわかりました。
というのは、マイトリックス内で、旧スミスやアナリストと話している時に、
聞こえるか聞こえないかくらいの重低音のノイズみたいなものが断続的に入ってくるのです。
すごく、気持ちをザワつかせるような音。
ブオォォーーーーーーン――……みたいな。(ドグラ・マグラの冒頭)
それがずっと気になっていて、それはネオの心理描写のための音響演出だと思っていました。
もちろんその意図も含まれるのでしょうが、そのザワザワするようなノイズがすべてさっぱりと
削ぎ落とされる瞬間が、このナイオビとの会話のシーンで、ナイオビが静かでしょうと尋ねてくるより前に
「すごく静かになったな」
と感じていました。
だから、心理描写の意味だけじゃなく、マトリックス界ならではのノイズっていうのが実際にあって
そこから解放されることも覚醒の一部なのだと思いました。
それにナイオビが言う通り、「機械が襲ってこない」というのも、現実に生きる人達にとって
静寂が証明してくれるというか、静寂が平和の象徴みたいなところがあるんでしょうね。
作中、「ここはどこだ?」「東京よ」というシーンがあって、それがなんらかの高速鉄道車内で
無国籍じみた人々(日本人っぽくはない)が乗っていて、遠くに富士山が見えるって感じなんですけど、
まぁ一言で言ってしまえば
「東京そんなんじゃないだろうw」
って感じなんですよ。
でも、それはわかってて作ってると思うんですよね。
なぜならば! そこは! 「マトリックス界の東京」だから!!!
AIやプログラムが、遺された大昔の記録から「東京」っていう概念を解析、再構築したものだから
現実・現代の東京とどこかズレていても、それこそが辻褄合うという感じもしましたね。
「伝言ゲームの限界」みたいなw
メタの話をしますと、リローデッド〜レボリューションズの頃、つまり2003年のインターネットにおいて
「エージェントスミスOFF」っていうフラッシュモブのオフ会が流行ったんですよね。
私は行ったことはないですけどw
2ちゃんねるの「オフ板」ではかなりのパート数になっていたはずです。
行ったことがなくても知っているくらいの大規模オフですし。
まぁオフと言っても「フラッシュモブ」をするのが目的なので、
参加したい人間はエージェントスミスのコスプレをして決まった日の決まった時間、
決まった地域に出没するんだけど互いに交流とかはしないで
「ネオを探すスミスのような挙動をする」イベントですね。
集会が目的ではないため「オフ会」と呼ぶのも変かもしれませんが、便宜上オフ会と呼ばれていました。
それはまだ、集会としては可愛いもので、マトリックスってのちに本国アメリカでは
「プロパガンダに利用された」部分があって、
「赤いピルを飲む」っていうのが政治的な意味を持ってしまったんですよね。(2018年頃〜)
これは『1984』というディストピア小説が、その小説が書かれた時代の社会に向けて
著者が放った「警告のメッセージ」が、イデオロギーの統率やプロパガンダに利用されてしまったのに似ていると思いましたね。
『1984』も最近読んだところですけど、本当に救いのないディストピア物で、読後感の「ぞわぞわ」「心のざわつき」はなんとも言えません。
マトリックスの場合は、不思議の国のアリスや鏡の国のアリスをモチーフにしながら
白いウサギの後を追って、赤いピルを選択すると「現実への覚醒」をする展開になっていますが、
それが「私達もこの世界(政治)が狂っていることに気付いて目覚めよう!」という
政治的メッセージで引用・濫用されてしまったのです。
政治的というか、「陰謀論者がカルト集団を形成するのに使った」とも言えるのかも。
そういうこともあって、多分監督は『マトリックス』というシリーズをもう一度、
単純な娯楽作品として、「奪還」したかったのかもしれませんね。
「レザレクションズ」は復活の複数形ですが、この作品はマトリックスシリーズそのものの復活でもあり
ネオとトリニティの復活でもあり、監督によるマトリックスシリーズの、
ネオによるトリニティの「奪還劇」でもあります。
パンフレットを読んでいるとそういう事情があって今回の作品製作が進められたというのがわかりましたし、
その上でやはり、「そういう事情を別にしても面白い」作品にしているのだからすごいと思いました。
作中でフェイスブックやウィキリークスが具体名を挙げて揶揄されているシーンなどは、
「アメリカらしいな!w」と思いましたし、監督からの皮肉が込められているのもわかりました。
そして、「そういうこと」をパンフレットを読んで理解しなくても、作品単体で筋が通っているわけですから
「娯楽作品は斯くあるべきだなあ」
と感心しました。
それから、直前に「The Matrix Awakens: An Unreal Engine 5 Experience」を見ていたのが
映画体験に深みをもたらしてくれて面白かったんですよ〜。
4DXで見たので、椅子が揺れたり、水しぶきがかかったり、トリニティが決定を覆すところなんかは
ふわ〜っと花のような匂いまで漂ってきたし、そういう意味でのアトラクション的な楽しみもすごくあったんですけど。
UNREAL ENGINE5では、「映画の中にいる」ような没入感でゲームをプレイするのが常識になるんだなぁ
すごいなぁ、そしてある意味では怖いなぁと思いました。
それを見せてもらった後に映画。
「全てはゲームだった」からのスタートだったので
「UNREAL ENGINE5製のゲームだった みたいなことか……」
って考えを巡らせたりすることになりましたが、おそらくそれすらも全部仕組まれてたことだと思うので
とても楽しませてもらいましたね。
UNREAL ENGINE5と映画両方のプロモーションとして成功してると思いますw
アザンさんが、作業配信の中でやっていて、以下のアーカイブを再生したら
その部分から見られるように設定されています。(開始から5時間16分頃〜)
もちろんPS5を持っている人は、自分のところでDLしてきてプレイするのが一番だと思いますが、
配信で見ても十分に「PS5とUNREAL ENGINE5やべぇな」ってなれるので見てみて下さい。
「実在の人物をCGで再現し、不気味の谷を越えさせる」っていうのは、STAR WARSのローグ・ワンで
ラストに出てくるレイア姫が、「エピソード4当時のその人のままにしか見えない」っていう成功例があるんですけど、
これって「映画」の映像技術でやったことなわけですよね。
それが、これからは「ゲーム」の映像技術としても使えてしまうということなんですよ。
ゲームだと、同じく「実在の人物をCGで再現し、不気味の谷を越えさせた」例として、
「デス・ストランディング」がすごかったと思います。
UNREAL ENGINE5においては「ゲーム映像として」、「1999年当時のネオ」が動くし喋る。
おそらくUNREAL ENGINE5では、デス・ストランディングももっと登場人物たちを
「元の俳優本人にしか見えない状態」にしてゲームに登場させられるのだろうし、
その人達を若返らせたり、老けさせることも違和感なくデータ上で出来てしまうんでしょうね。
本人と見分けのつかない「リアルアバター」がゲーム上で動かせるのだからすごい。
マトリックスは、繰り返し見てきて、ブログに記事もあります。
2002年にマトリックスをレンタルで初視聴した時
今日の映画は
2003年に映画館でレボリューションズを見た時
【映画】壮絶! 「Matrix Revolutions」
2019年。公開20年記念で4DMX上映されて映画館行った時
【映画】THE MATRIX MX4D
Reloadedは記事がないんですけど、映画館で2回見たかも。
3部作を全部映画館で1度は見ていることは確かで、それ以外にも家で見て、考察をして自分の解釈の幅を広げて
記事では当時「謎だった」「わからないところがあった」と言っている部分も、自分なりに言語化できるようになるまで見て
それで今回のレザレクションズだったわけですが、なかなか語り合える相手はいないですね……w
強いて言えば、私にとって語り合える相手は「このブログ」っていう感じになってしまいました。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
ところで、今回4DXで見たので、イオンモールつくばのUSシネマで見たわけですけど、
イオンモールつくばにはMoffがあるんですよねぇ〜〜〜。
しかも、この間イーアスつくばのMoffに行った時に、チンチラ抱っこしてたら、店員さんが
「今はイオンモール店の方にカピバラちゃんいるんですよー!」
と教えてくれたので、
「カピバラをモフれるだと!? 次イオン行く時絶対寄らねばー」
って思ってたんですよー。
カピバラが「モフモフ」なのかどうかはまた別の問題だったけどww
レタスの芯が喉に詰まってずっとぱくぱくしてた……
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) December 17, 2021
飼育員さんに伝えたらピンセットで摘んで出そうとしたけどうまくいかんかったので、水を飲ませてみようってなって霧吹きで水与えたら飲み込めたっぽかった pic.twitter.com/Jon2bzWYEj
「我関せず」感がすごい pic.twitter.com/PbUK2FjCud
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) December 17, 2021
うさぎとかめ pic.twitter.com/B7BjO2eVyS
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) December 17, 2021
撫で始めることで一層リラックスしてしまうカピバラ pic.twitter.com/HFPmE1enX6
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) December 17, 2021
ここの店舗には他にもインコ系の鳥が放されている「小鳥小屋」があり、ミーアキャットとフェネックもいる。
モルモット、ハムスター、ウサギの数も豊富で、カピバラやトイプードルは放し飼い。
ヒョウモントカゲモドキもいますし、スタッフさんに声をかけてふれあいすることも可能です。
フクロウ・ミミズクの腕のせやなでなでも可能!
ですので、イオンモールつくばで4DXやADMIXで映画を見る時には、その前か後に1時間くらいの猶予を見ておいて、
Moffに寄ると良いですよ!!(´∀`人)
(イーアスつくばで映画を見る場合でもMoffありますよ!!)
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