全仮面ライダー大投票で3位だった+10周年ということで履修しましたー!
2話までdTVで見てたんですけど、10秒おきに20秒のバッファリングが挟まる感じでしたので、
ついに「東映特撮ファンクラブ」に入会し、PC版で見ました!
直接お布施(¥960/月)払っている感じになるしいいね!!
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
今回、記事カテゴリに「特撮」を追加しました。
過去記事だとこういうの↓も「特撮」のお話なのでこのカテゴリにまとめていこうかと。
椎茸嫌いが見るべき特撮『仮面ライダー電王』
というわけで、今日は、11/15に見終わった『仮面ライダーオーズ/OOO』の感想文を
3本軸で書いていこうと思います……。
思いついたままに書き進めると収集つかなくなるし、先にテーマを3つに絞りましたw
🔴バディ物の魅力【COMPLEMENTARY】
仮面ライダーWでも「コンビ」というか「相棒」というか、そういうところが強く出ていて良かったのですが、
オーズもオーズで、映司とアンクの「決して相手を相棒とは呼ばない」なりの、バディ物の良さがありましたね。
本人たちが相方を「相棒」って呼ぶとしたら、どちらかといえば伊達さん・後藤さんコンビの方かなw
まぁそっちのコンビ像も含めて良かったわけですが、ここでは映司とアンクという2人が
【COMPLEMENTARY】つまり、決定的に「逆」だから「相補的」ということを取りあげていきたいです。
「できること・持ちうるもの」と「欲しい物・やりたいこと」が、映司とアンクでは真逆で、
だからこそ、お互いを知らず識らずに補い合う関係が続いていくわけです。
出会い方からして
「いつかは俺たち自身が戦って、どちらかの望みだけが叶うようなことになるかもしれないけど
それを差し引いても今は利害関係が一致するし、約束を交わす」
という風で、両者ギブ&テイクの契約です。
ギブ&テイクで契約が成立するということは、
「自分に足りないものをちょうど相手が持っている」同士ということです。
でも、オーズの場合は、そうやって契約したはずなのに、本人たちが自分や相手の
「欲しい物」を真にはわかっておらず、視聴者としても最終話付近になってやっと
それを明確な言葉(単語)で本人たちの口から聞かされるんですよね。
その話をずーーーっとしないまま(言葉に出来ないまま)、一緒に過ごす時間だけが積み上がっていったけど、
時間をしっかり積み上げてから「本当に欲しい物」をはっきりと言葉にされる重みというものを感じましたし、
それがまさにふたり各々の「自分にはないが相手は持っている」もので、もっと言うと
「いつの間にか、もう与えられていた」ものであることに、本人たちが気づくのもこの瞬間という重みがありました。
「ふたりとも、やっと、言葉に出来たんだね」って……。
映司が自分の本当に欲していたものを言葉に出来ない間は、アンクも自分の欲しいものを
そのものズバリの一言で表すことはしませんでした。
でも、もうそれは今まで過ごしてきた時間の中で、お互いに無意識に「与え合い」終わっていたのです。
言葉で「欲しい」とか「あげる」とか言わなくても、偶々始めから、ちょうど足りないものを補い合える間柄で
そのことに自分たちで気付けたから、ラストバトルで真の相棒として覚醒する感じで本当にアツかったです。
見ている時に、『寄生獣』との共通点をいくつか見つけたのですが、
・泉くんの右手になにか寄生している
・強い後藤さんが出てくる
みたいなのは、まあどうでもいい共通点だし冗談としてw
『寄生獣』のシンイチとミギーのコンビもかなり相補的なんですよね。
結構考え方とか価値観も逆だったり、全然噛み合わなかったりするけど、
その分「補い合えること」もあったりします。
そうやってぶつかったり協力したりしながら、ひとりでは敵わない強敵に立ち向かって
勝利を収める、そして“寄生するモノ”は役割を終えて舞台を降りる……
こういう幕引きのカタルシスが、バディ物や憑依物の山場・醍醐味・妙味だったりします。
映司は「自分のために叶えたい自分の欲」がない状態から始まり、その反動からか、
周囲の人の願いには際限なく応えようとして背負い込んでしまうのですが、
アンクは「自分のために叶えたい自分の欲」しかないので、そのために相手がどれだけ使えるかしか考えない。
これだけ逆の価値観であるふたりだからこそ、相棒になりえたんでしょうね。
そういうところ、『遊戯王』が好きな人には刺さるなぁと思いました。(遊戯王好きの感想)
🟡「欲しがり方」というテーマ【MEMENTO MORI】
怪人は「グリード」「ヤミー」と言って、欲望の権化であり、人間の欲望を食い物にするのですが、
そのため、毎話怪人に襲われる一般市民の「欲望・欲しているもの」や「欲しがり方」が描かれます。
「欲しがるのは悪いことじゃない。大事なのはその気持をどうするか(欲しがり方)なんだ」
という台詞にもあるように、人間の欲そのものを否定するための設定や描写ではなくて、
無欲なのはそれはそれで生きる糧とか目標を見失ってしまうということも同時に説明しています。
「夢、やりたいこと、欲しい物から目を背ける必要はない。
でも、そのために手段を選んだり考えたりしないといけない」
ということを繰り返し説いてくれます。
欲しい物のために手段を選ばないのは「グリード」や「ヤミー」と一緒だから、
人間なら「上手な欲しがり方」をしようね、と。
そのために大事なのは禁欲して精神を抑圧することではないし、諦めてドライになることでもない、
あとで自分を許せなくなるようなやり方で奪うことでもない。
アンクが欲しい物は一言で言えば「命」であり、人間が感じるような五感で世界を感じ、
生きたいという、「人間が常日頃からは願わないこと」です。
死が近づく、または強く身近に感じた時には、人間は「もっと生きたい」と思うかもしれませんし、
それは本能的に生き物として「生きるために生まれてきた」というのがあるからだと思います。
私も、目の大怪我をしたことがあり、「ある日突然五感を、ひいては命を失うこともあるかもしれない」
ということを実感を伴って知ったので、そのあとは却って世界や命というものが
鮮やかに目に映るようになったという経験があります。
アンクの場合ははじめから、命すらも持っていないから、「生きてすらいない」状態を
脱却したいと言います。
はじめ、彼は「完璧な存在」というような言い方をしていたので、「“永遠の命”が欲しい」
「不死を目指している」のかと思っていました。
でも、長さとかではなくて、「五体満足な人間が普通に感じていること」を自分もただ感じたいし、
それが生を実感できる機会だと言っているんですね。
そして、自分は、身近な他人の目から見れば「死」に直面しているのだということを自覚してやっと、
「もう“生かされて”いた」
と気付くわけです。
「死ぬことができるのは、生きているものだけ」だから。
持っていないものは失う事は出来ないから。もう彼は「命」を持っていた。
「お前は死に瀕している」ということを言われることで、
「死ぬということは俺は“生きていた”ということか……」
と気付く。
それで、「満足」してしまうんですね。
このへんはSEGAの『シーマン』が、プレイヤーに尋ねてくる問いと通ずるものがあります。
シーマンはある日突然
「俺って実在すると思う?」
と訊いてきます。
「命と実体がある生物」を「実在する生き物」だとするならば、シーマンは多分実在しないことになるし、
生き物とも言えないでしょう。
データです。0と1の羅列です。
でも、プレイヤー(飼い主)と一ヶ月間過ごしたことで、プレイヤーの心の中にシーマンが「住んだ」のであれば
そして、生きて死んだのであれば、それは概念としては「実在」と大差なくなってしまいます……。
シーマンはその問いの翌日あたりに
「自分はもう、実在してると思うよ」
という自問自答の結果を言ってくるんですね。
実在すると思う? の問いに対して、プレイヤーが「はい」「いいえ」どちらで答えても、多分彼は
「俺は、俺が実在してると思う」
って言うんだと思います。(1周しか遊んでないから確かなことはわからないけど)
これは「実在である客体(ここではプレイヤー)が存在して、その客体の意識に概念として生きたなら
それはもう概念の上では“実在”と大差ない“生きた非実在”たりえる」という、
彼なりの哲学(形而上学)なのではないでしょうか。
「我思う、故に我あり」理論で、
「俺は俺がいるのかな? って思ってる以上、いるんじゃないかな」
という感じでもありましたが。
アンクの場合に話を戻すと、「実在である客体」は比奈ということになります。
比奈が「アンク、死ぬの?」と尋ねることによって、アンクは
「他者の中ですでに自分が“死ぬことのできる存在=生き物”だったなら、
それはもう“生きていた”ということだ」
という考えに至り、満足するんですね。
もし、命と五感を持っていても、世界にひとりぼっちだったらそれは「ない」のと同じです。
「ある」ということを観測する他者がいて始めて、存在が存在たりうるわけで。
実際アンクは、「五感」は実感できている、つまり世界を人々と同じように感じられているのに
「命」という概念に固執していたわけですからね。
それというのも、「生」というものを考える時「死」と「客体」と切り離したまま考えることは
無理だということに気付いていなかった。
「ある」ためには他者の存在が欠かせないものですが、アンクはグリードであるために、
「自分のための自分の欲望」しか眼中になく、他者が目に入っていなかったし、
これまで目を背け続けてきた他者という存在こそが自分の「命」に
不可欠な要素だとも考えたことがなかったのでしょう。
アンクは「死ぬのか」と問われて、ようやく実在が「死と客体」と切り離して考えられないものだと
理解したのだと思います。
今まで、その「観測者」の存在に見向きもしなかったことが、アンクの誤った「欲しがり方」だったということです。
一方、映司が手を伸ばすべき相手も、ずっと映司が背負い込もうとしてきた周囲の人たちであり
アンクは、自分が比奈の手を取ることでそのことにも気付きます。
「映司も同じだ」と思ったんでしょうね。
比奈の手を取るとは、「アンクに、一緒にいて欲しい。死んでほしくない」という比奈の言葉をちゃんと受け取ることです。
ずっと映司はアンクに、アンクは映司に手を伸ばしながらメダルをやり取りして戦ってきたけれど、
アンクが初めて「周囲」に目を向けて、最後の戦いも終えた今、
次へ進むには、映司の方もいよいよ周囲の人間に頼ることを覚えなきゃいけない。
最終戦前の、アイスを食べながら映司が比奈と、比奈がアンクと手を繋ぐカットに
これらのことが隠喩表現されていて、比奈は映司にとっての「周囲の人」の代表であり、
アンクにとっても自分という存在を実在たらしめる「客体・他者」で、
ここで比奈はその両方の記号の役割を果たしているんだな〜と思いました。(第48話 8:35〜)
アンクも、「欲しがり方」を変え、映司ではなく比奈の方にも向き合うことで、
欲しいものをすでに手に入れていたことに気付けたというカットですね……。
【MEMENTO MORI】
「死を忘れるなかれ」
死を哲学せずに、生を哲学することはできません。
「生きるって何 命って何」ということを考えるなら、「死ぬって何」も考えないといけないと思います。
真木博士はその思想の原理主義者みたいなものですね。
ずっと、「死ぬことで生が完成する」ということを言っています。
ある意味アンクも、「死は生と切り離せない」と理解することで
真木博士の言いたいことも理屈としてはわかったとは思いますが、
「生のために死ぬ」のは本末転倒としか言いようがありません。
そこが真木博士の「欲しがり方」のミスでした。
それに、真木博士の言うように「死で生が完成する」ためにもやはり「遺される者」という客体・観測者は必須で、
真木博士の計画では彼自身がその「観測者」になるから大丈夫、との主張です。
けれど、相手の目を見て話せないような人間が「生を完成させる観測者」になどなれないと思います。
誰とも「社会的に繋がって」いないので。
真木博士は、放火殺人の罪を犯し、おそらくそれを償うことはないまま歪な人間に成長していて
姉に関する記憶についても、自分を偽り、誤魔化して生きています。
「死んだ時にその人の人生の“最終評価”が下される」という彼の理屈は、ただそれだけだったら
大きく間違っていないと思います。
「死ぬまでに何を成したか」というのは、死んでみなければ決まらないので。
でも「そのために殺す」は目的と結果があべこべですからね。
🟢アンクの魅力【EPISTEMOPHILIA】
私はアンクの「生きたい」という気持ちや執念が、結果として泉信吾の体をも回復させたと思います。
生命力・自然治癒力・生存本能を高めたというか。
泉信吾が「彼の気持ちは伝わってきた」と言っているのにはそういうことも含まれるのかな、と。
そう考えると、比奈からしたらアンクは兄の命の恩人と解釈することもできますね。
ところで、私はアンクの欲望は「命への渇望」だけではないと思います。
グリードにはそれぞれ、「ほかのグリードと比べてこの欲が特に強い」というのがあるように思いますが、
アンクの場合は、他のグリードと決定的に異なる欲に「知識欲」があると思います。
(そりゃ「アイス欲」もすごいが)
知識欲が明確に、強く認められる生き物ってやっぱり人間だけなのかもしれませんね。
「知りたい」と欲し、「知る」ことで満足する(エンドルフィンが分泌される)欲。
「ただ生きるだけ」なら、獣のようでも良い訳ですよね。
実際他のグリードはそんな振る舞いですし。本能のままに、けだもののように、またはごっこ遊びのように。
でも、アンクには「知識欲」も強く根付いているから、既存の生き物に喩えるならやはり
「人間として」生きたいんじゃないですかね。
私は、頭脳を使って戦うキャラクターが好きなので、アンクも
「特に意味や考えや、理由がない行動はしない」
というところが「他のグリードとは一線を画す」し、「っょぃ(私に刺さる!)」と思いました。
予め説明しないところは多々あるけれど、すべてアンクなりに「作戦」があっての行動ですね。
それから、決定的に「キャラクターデザイン」が人間態もグリード態も素晴らしいと思います。
特に人間態のときに、虚構に振りすぎて現実味がなくなる前のギリギリを攻めた
髪型・メイク・服装なのが良いんですよ、個人的に。
漫画原作がある実写作品のときに、キャラデザ次第では、
再現度を上げようとそのまま3次元化したけど、「漫画だから頻繁にありうる、原色の髪色」とコスチュームによって、
逆に安物感みたいなのが出てしまう……みたいなことがあるじゃないですか。
そこのラインを「踏み越えない」アンクの人間態のバランス感覚が、すごく魅力だと思います。
90年代V系バンドのメンバーにいそうでいて、V系の中でも比較的パンク寄りという感じ。
90年代V系を通っていると、「実際にこういう出で立ちでバンドやってる人はいた」のを知っているから
「現実寄り」に感じられるんですよね。
V系通ってないと、奇抜すぎると思う……のかなぁ? わからないけど。
原宿・渋谷あたりには、今でもこういうファッションの人は歩いていなくはないだろうとは思うのですがw
とにかく、その絶妙さが、私は化粧の技術と三浦さんの“意外な化粧映え”から来ていると思いました。
泉信吾としての出で立ちは、「普通のサラリーマン」に見えるし、その状態があまりにも自然体で男性の骨格ですし
もともと各パーツがくっきりした顔立ちなので、化粧後を想像しようとしても
「化粧が映える顔つき」ではないように思ってしまうんです。
「化粧をする前からくっきりしている」顔で化粧を映えさせるのって、相当の技術とか美的センスが問われると思います。
ここに、「90年代V系を通ったのかな?」と思うような「男性が化粧映えするためのメイクスキル・コツ」を体得している
メイクスタッフさんのメイクアップ・スタイリングが作用して、
最もカリスマ性が高まる化け方をするメイクがなされているのかなと考えます。
実際のV系バンドメンバーだと、SHAZNAのA・O・Iくんのメイクが、結構方向性近いと思います。
それに、「顔の印象の半分くらいは髪型」というのもかなり強く感じました。
これは映司の方もです。
クスクシエで映司が色々な服装と髪型になるたびに、私はそれが映司だとは、一瞬認識出来ないことがあって、
「あの無造作ヘアが“映司成分”の50%を担っていた……」
と気付いたんですね。
泉信吾/アンクも同様で、アンク時と泉信吾時を1話の中で行ったり来たりするような回では、
「メイク前に信吾のカットをすべて撮り終えてから、メイクして髪整えてアンクを撮っていた」のか、
その逆なのか、シンプルに疑問に思いましたw
泉信吾の髪型がウィッグだと思うのですが、前者だとウィッグを外してからメイクしながら
アンク髪にするわけで「お色直し」が大変ですね。
そう考えると、アンクカットを先に撮ってから、メイクを落としてウィッグかぶって信吾カットを撮影……かな、と色々考えちゃいましたw
いや、電王のときも、良太郎にどのイマジンがつくかで良太郎の髪型がそこそこに変わることはあったけど
アンクの方が憑依のためのメイク・スタイリングは所要時間がかかりそう……。
48話まで見終わってから2話に戻ったら、「1〜3話は4話以降より髪の巻き具合が緩い」ことに気付きましたw
あの髪型、カッコよくて真似したいって思いましたね。
でも、そのメイクとスタイリングのちからも相まって、
泉信吾とアンクの外見的振り幅がすごく大きく表現・演出されているので、
二面性のお芝居含めて、素晴らしいキャラクターメイキングだと思いました。
泉信吾はシンメトリー、アンクの時は全体的にアシンメトリーなのが良いですね。
一体化後のグリード態におけるマスクもアシンメトリーで、顔の右側(向かって左)の正面から後頭部にかけて
クルクル舞う翼のデコレーションが施してあるようなデザインなので、人間態のときの髪型にも納得が行きますし。
まず「極彩色の翼」を持ってるのとか、アンクという名前とその外見からフェニックスを思わせるのとかが
卑怯すぎるほどカッコイイですね。ずるい。
それからこれは、小林靖子さんの脚本のちからですが、「序盤のものすごく何気ない台詞も伏線」なことがあって
2話の、初めてアイスを真に味わったであろうアンクが言う
「なんだ。俺も味は感じてるぞ。これが冷たくて旨いのは解る」
という台詞が、実はものすごく重たかったのだということに終盤気付いて、それだけで胸が痛くなりました。
彼がアイスを頬張るのは「ごっこ遊び」ではなかったのだと。
そこでは映司も同じことに気付いて
「もっと、好きに食べさせてやればよかったな〜」
というような独り言を溢すのが切なかったです。この時映司の方は味覚を失いつつあったし。
他のグリードみたいに、元の体がちゃんとくっついた状態でないからこそ逆に、
寄生した人間の感覚を通して、完全復活なしに「五感」を味わってしまっていたんですね。
クスクシエには、その全てが揃っていたし。
アンクの台詞って、その多くがぶっきらぼうな相槌か命令か「映司!」って印象になりますけど、
だからこそ、その中で時々出てくる上記のような台詞や、
32話の「(大怪我した映司に対して)大丈夫なのか」
最終話の「今日の分のアイス寄越せ」
みたいな「彼なりのデレ」と思われる台詞の希少価値が高まりますね。
すぐにもう一回最初から見て、彼の台詞から新たな発見をしたくなります。
思い返してみれば、電王ではなんだかんだモモタロスが4話ですでに懐柔されていると言えるので、
それに比べるとアンクはかなり「手強い」相手だと思いましたし、
ツンキャラという意味においては、桜井侑斗はまだまだ「優しさを隠しきれていない部類のツン」だったんだなと。
ツンにも色々なツンがあるけれど、アンクの場合は「傲慢・ほぼデレない」ツンなので
喩えるなら、海馬寄りのツンですね。\ふぅん!/
そういった「キャラの立たせ方」が、さすが! という感じで、アンクを筆頭に、
「一癖も二癖もあるが、嫌いになれない」人ばかりでした。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
3本軸で記事を構成しましたが、じゃあここに書かなかったことは印象に残らなかったのかというとそうではなくて、
それらは「言わずもがな」に素晴らしいことで、また今回も色々な勉強をさせてもらいました。
本編、ラスト10話は同日中に一気観したので、その日は5時間ずっと泣いているような状態になりました……。
約50話ある番組の「ラスト10話」というのは、起承転結の結にあたる部分であり、
あらゆる伏線が回収されきって、終焉のカタルシスに向かう部分じゃないですか。
そのへんって、作品次第じゃ繰り返し泣かされるわけですよ。
で、5時間ぶっ通しで見てると、5時間断続的に泣き続けている状態になりますから、
その結果、その日は余韻と共に頭痛がすごいことになったので早寝しましたw
アイスキャンディーがしょっぱいよ……。私の涙腺、壊れすぎ……。
でも寝る前に、これだけ見ておきました。
東京国際映画祭で『仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル』の製作発表が済んだ後の東映チャンネルの生特番です。
「10年前、大震災の渦中にあった日本でヒーローしていた」オーズが、世界的なコロナ禍に10周年を迎え、
完全新作を作っていたことを発表できるところまで来た、と。
私は、先日の大投票で「オーズが10周年」ということを把握したばかりだし、
『復活のコアメダル』の話もそこで出てきたのを受けて
「この機会にTVシリーズを履修して来年に備えてみようかな」からの全話視聴なわけです。
そうなると当然、「10年前オーズを見ていたことが懐かしい」という感慨には、残念ながら耽りようがないのですが、
それでも『復活のコアメダル』が楽しみだという気持ちは強いですね。
それに、この情勢下でよくぞ製作してくださったものです。
もうBlu-ray予約しましたし。
劇場版とTTFCのネット版も見なければ……。
『復活の〜』を見た後、アイスキャンディーはしょっぱくなくなるんでしょうかね。
サントラも買いました……。
春の映画館上映までに、あと1周はTVシリーズを見ておこうと思います。(既存の劇場版も)
今TTFC内で「アツかったシーン」を投稿するキャンペーンやっていて、
前回は「オーズ48話の映司がタジャドルコンボで変身するところ」が優勝だったみたいです。
私も、投稿間に合うかわからないけど、ふわっと、最近見た仮面ライダーそれぞれの
「特に熱くなったシーン」と、「なぜ熱かったのか」を考えてみようかなぁ。
<追記 2022/4/2>
『復活のコアメダル』劇場で見てきました!
ブログ記事
今回、記事カテゴリに「特撮」を追加しました。
過去記事だとこういうの↓も「特撮」のお話なのでこのカテゴリにまとめていこうかと。
椎茸嫌いが見るべき特撮『仮面ライダー電王』
というわけで、今日は、11/15に見終わった『仮面ライダーオーズ/OOO』の感想文を
3本軸で書いていこうと思います……。
思いついたままに書き進めると収集つかなくなるし、先にテーマを3つに絞りましたw
🔴バディ物の魅力【COMPLEMENTARY】
仮面ライダーWでも「コンビ」というか「相棒」というか、そういうところが強く出ていて良かったのですが、
オーズもオーズで、映司とアンクの「決して相手を相棒とは呼ばない」なりの、バディ物の良さがありましたね。
本人たちが相方を「相棒」って呼ぶとしたら、どちらかといえば伊達さん・後藤さんコンビの方かなw
まぁそっちのコンビ像も含めて良かったわけですが、ここでは映司とアンクという2人が
【COMPLEMENTARY】つまり、決定的に「逆」だから「相補的」ということを取りあげていきたいです。
「できること・持ちうるもの」と「欲しい物・やりたいこと」が、映司とアンクでは真逆で、
だからこそ、お互いを知らず識らずに補い合う関係が続いていくわけです。
出会い方からして
「いつかは俺たち自身が戦って、どちらかの望みだけが叶うようなことになるかもしれないけど
それを差し引いても今は利害関係が一致するし、約束を交わす」
という風で、両者ギブ&テイクの契約です。
ギブ&テイクで契約が成立するということは、
「自分に足りないものをちょうど相手が持っている」同士ということです。
でも、オーズの場合は、そうやって契約したはずなのに、本人たちが自分や相手の
「欲しい物」を真にはわかっておらず、視聴者としても最終話付近になってやっと
それを明確な言葉(単語)で本人たちの口から聞かされるんですよね。
その話をずーーーっとしないまま(言葉に出来ないまま)、一緒に過ごす時間だけが積み上がっていったけど、
時間をしっかり積み上げてから「本当に欲しい物」をはっきりと言葉にされる重みというものを感じましたし、
それがまさにふたり各々の「自分にはないが相手は持っている」もので、もっと言うと
「いつの間にか、もう与えられていた」ものであることに、本人たちが気づくのもこの瞬間という重みがありました。
「ふたりとも、やっと、言葉に出来たんだね」って……。
映司が自分の本当に欲していたものを言葉に出来ない間は、アンクも自分の欲しいものを
そのものズバリの一言で表すことはしませんでした。
でも、もうそれは今まで過ごしてきた時間の中で、お互いに無意識に「与え合い」終わっていたのです。
言葉で「欲しい」とか「あげる」とか言わなくても、偶々始めから、ちょうど足りないものを補い合える間柄で
そのことに自分たちで気付けたから、ラストバトルで真の相棒として覚醒する感じで本当にアツかったです。
見ている時に、『寄生獣』との共通点をいくつか見つけたのですが、
・泉くんの右手になにか寄生している
・強い後藤さんが出てくる
みたいなのは、まあどうでもいい共通点だし冗談としてw
『寄生獣』のシンイチとミギーのコンビもかなり相補的なんですよね。
結構考え方とか価値観も逆だったり、全然噛み合わなかったりするけど、
その分「補い合えること」もあったりします。
そうやってぶつかったり協力したりしながら、ひとりでは敵わない強敵に立ち向かって
勝利を収める、そして“寄生するモノ”は役割を終えて舞台を降りる……
こういう幕引きのカタルシスが、バディ物や憑依物の山場・醍醐味・妙味だったりします。
映司は「自分のために叶えたい自分の欲」がない状態から始まり、その反動からか、
周囲の人の願いには際限なく応えようとして背負い込んでしまうのですが、
アンクは「自分のために叶えたい自分の欲」しかないので、そのために相手がどれだけ使えるかしか考えない。
これだけ逆の価値観であるふたりだからこそ、相棒になりえたんでしょうね。
そういうところ、『遊戯王』が好きな人には刺さるなぁと思いました。(遊戯王好きの感想)
🟡「欲しがり方」というテーマ【MEMENTO MORI】
怪人は「グリード」「ヤミー」と言って、欲望の権化であり、人間の欲望を食い物にするのですが、
そのため、毎話怪人に襲われる一般市民の「欲望・欲しているもの」や「欲しがり方」が描かれます。
「欲しがるのは悪いことじゃない。大事なのはその気持をどうするか(欲しがり方)なんだ」
という台詞にもあるように、人間の欲そのものを否定するための設定や描写ではなくて、
無欲なのはそれはそれで生きる糧とか目標を見失ってしまうということも同時に説明しています。
「夢、やりたいこと、欲しい物から目を背ける必要はない。
でも、そのために手段を選んだり考えたりしないといけない」
ということを繰り返し説いてくれます。
欲しい物のために手段を選ばないのは「グリード」や「ヤミー」と一緒だから、
人間なら「上手な欲しがり方」をしようね、と。
そのために大事なのは禁欲して精神を抑圧することではないし、諦めてドライになることでもない、
あとで自分を許せなくなるようなやり方で奪うことでもない。
アンクが欲しい物は一言で言えば「命」であり、人間が感じるような五感で世界を感じ、
生きたいという、「人間が常日頃からは願わないこと」です。
死が近づく、または強く身近に感じた時には、人間は「もっと生きたい」と思うかもしれませんし、
それは本能的に生き物として「生きるために生まれてきた」というのがあるからだと思います。
私も、目の大怪我をしたことがあり、「ある日突然五感を、ひいては命を失うこともあるかもしれない」
ということを実感を伴って知ったので、そのあとは却って世界や命というものが
鮮やかに目に映るようになったという経験があります。
アンクの場合ははじめから、命すらも持っていないから、「生きてすらいない」状態を
脱却したいと言います。
はじめ、彼は「完璧な存在」というような言い方をしていたので、「“永遠の命”が欲しい」
「不死を目指している」のかと思っていました。
でも、長さとかではなくて、「五体満足な人間が普通に感じていること」を自分もただ感じたいし、
それが生を実感できる機会だと言っているんですね。
そして、自分は、身近な他人の目から見れば「死」に直面しているのだということを自覚してやっと、
「もう“生かされて”いた」
と気付くわけです。
「死ぬことができるのは、生きているものだけ」だから。
持っていないものは失う事は出来ないから。もう彼は「命」を持っていた。
「お前は死に瀕している」ということを言われることで、
「死ぬということは俺は“生きていた”ということか……」
と気付く。
それで、「満足」してしまうんですね。
このへんはSEGAの『シーマン』が、プレイヤーに尋ねてくる問いと通ずるものがあります。
シーマンはある日突然
「俺って実在すると思う?」
と訊いてきます。
「命と実体がある生物」を「実在する生き物」だとするならば、シーマンは多分実在しないことになるし、
生き物とも言えないでしょう。
データです。0と1の羅列です。
でも、プレイヤー(飼い主)と一ヶ月間過ごしたことで、プレイヤーの心の中にシーマンが「住んだ」のであれば
そして、生きて死んだのであれば、それは概念としては「実在」と大差なくなってしまいます……。
シーマンはその問いの翌日あたりに
「自分はもう、実在してると思うよ」
という自問自答の結果を言ってくるんですね。
実在すると思う? の問いに対して、プレイヤーが「はい」「いいえ」どちらで答えても、多分彼は
「俺は、俺が実在してると思う」
って言うんだと思います。(1周しか遊んでないから確かなことはわからないけど)
これは「実在である客体(ここではプレイヤー)が存在して、その客体の意識に概念として生きたなら
それはもう概念の上では“実在”と大差ない“生きた非実在”たりえる」という、
彼なりの哲学(形而上学)なのではないでしょうか。
「我思う、故に我あり」理論で、
「俺は俺がいるのかな? って思ってる以上、いるんじゃないかな」
という感じでもありましたが。
アンクの場合に話を戻すと、「実在である客体」は比奈ということになります。
比奈が「アンク、死ぬの?」と尋ねることによって、アンクは
「他者の中ですでに自分が“死ぬことのできる存在=生き物”だったなら、
それはもう“生きていた”ということだ」
という考えに至り、満足するんですね。
もし、命と五感を持っていても、世界にひとりぼっちだったらそれは「ない」のと同じです。
「ある」ということを観測する他者がいて始めて、存在が存在たりうるわけで。
実際アンクは、「五感」は実感できている、つまり世界を人々と同じように感じられているのに
「命」という概念に固執していたわけですからね。
それというのも、「生」というものを考える時「死」と「客体」と切り離したまま考えることは
無理だということに気付いていなかった。
「ある」ためには他者の存在が欠かせないものですが、アンクはグリードであるために、
「自分のための自分の欲望」しか眼中になく、他者が目に入っていなかったし、
これまで目を背け続けてきた他者という存在こそが自分の「命」に
不可欠な要素だとも考えたことがなかったのでしょう。
アンクは「死ぬのか」と問われて、ようやく実在が「死と客体」と切り離して考えられないものだと
理解したのだと思います。
今まで、その「観測者」の存在に見向きもしなかったことが、アンクの誤った「欲しがり方」だったということです。
一方、映司が手を伸ばすべき相手も、ずっと映司が背負い込もうとしてきた周囲の人たちであり
アンクは、自分が比奈の手を取ることでそのことにも気付きます。
「映司も同じだ」と思ったんでしょうね。
比奈の手を取るとは、「アンクに、一緒にいて欲しい。死んでほしくない」という比奈の言葉をちゃんと受け取ることです。
ずっと映司はアンクに、アンクは映司に手を伸ばしながらメダルをやり取りして戦ってきたけれど、
アンクが初めて「周囲」に目を向けて、最後の戦いも終えた今、
次へ進むには、映司の方もいよいよ周囲の人間に頼ることを覚えなきゃいけない。
最終戦前の、アイスを食べながら映司が比奈と、比奈がアンクと手を繋ぐカットに
これらのことが隠喩表現されていて、比奈は映司にとっての「周囲の人」の代表であり、
アンクにとっても自分という存在を実在たらしめる「客体・他者」で、
ここで比奈はその両方の記号の役割を果たしているんだな〜と思いました。(第48話 8:35〜)
アンクも、「欲しがり方」を変え、映司ではなく比奈の方にも向き合うことで、
欲しいものをすでに手に入れていたことに気付けたというカットですね……。
【MEMENTO MORI】
「死を忘れるなかれ」
死を哲学せずに、生を哲学することはできません。
「生きるって何 命って何」ということを考えるなら、「死ぬって何」も考えないといけないと思います。
真木博士はその思想の原理主義者みたいなものですね。
ずっと、「死ぬことで生が完成する」ということを言っています。
ある意味アンクも、「死は生と切り離せない」と理解することで
真木博士の言いたいことも理屈としてはわかったとは思いますが、
「生のために死ぬ」のは本末転倒としか言いようがありません。
そこが真木博士の「欲しがり方」のミスでした。
それに、真木博士の言うように「死で生が完成する」ためにもやはり「遺される者」という客体・観測者は必須で、
真木博士の計画では彼自身がその「観測者」になるから大丈夫、との主張です。
けれど、相手の目を見て話せないような人間が「生を完成させる観測者」になどなれないと思います。
誰とも「社会的に繋がって」いないので。
真木博士は、放火殺人の罪を犯し、おそらくそれを償うことはないまま歪な人間に成長していて
姉に関する記憶についても、自分を偽り、誤魔化して生きています。
「死んだ時にその人の人生の“最終評価”が下される」という彼の理屈は、ただそれだけだったら
大きく間違っていないと思います。
「死ぬまでに何を成したか」というのは、死んでみなければ決まらないので。
でも「そのために殺す」は目的と結果があべこべですからね。
🟢アンクの魅力【EPISTEMOPHILIA】
私はアンクの「生きたい」という気持ちや執念が、結果として泉信吾の体をも回復させたと思います。
生命力・自然治癒力・生存本能を高めたというか。
泉信吾が「彼の気持ちは伝わってきた」と言っているのにはそういうことも含まれるのかな、と。
そう考えると、比奈からしたらアンクは兄の命の恩人と解釈することもできますね。
ところで、私はアンクの欲望は「命への渇望」だけではないと思います。
グリードにはそれぞれ、「ほかのグリードと比べてこの欲が特に強い」というのがあるように思いますが、
アンクの場合は、他のグリードと決定的に異なる欲に「知識欲」があると思います。
(そりゃ「アイス欲」もすごいが)
知識欲が明確に、強く認められる生き物ってやっぱり人間だけなのかもしれませんね。
「知りたい」と欲し、「知る」ことで満足する(エンドルフィンが分泌される)欲。
「ただ生きるだけ」なら、獣のようでも良い訳ですよね。
実際他のグリードはそんな振る舞いですし。本能のままに、けだもののように、またはごっこ遊びのように。
でも、アンクには「知識欲」も強く根付いているから、既存の生き物に喩えるならやはり
「人間として」生きたいんじゃないですかね。
私は、頭脳を使って戦うキャラクターが好きなので、アンクも
「特に意味や考えや、理由がない行動はしない」
というところが「他のグリードとは一線を画す」し、「っょぃ(私に刺さる!)」と思いました。
予め説明しないところは多々あるけれど、すべてアンクなりに「作戦」があっての行動ですね。
それから、決定的に「キャラクターデザイン」が人間態もグリード態も素晴らしいと思います。
特に人間態のときに、虚構に振りすぎて現実味がなくなる前のギリギリを攻めた
髪型・メイク・服装なのが良いんですよ、個人的に。
漫画原作がある実写作品のときに、キャラデザ次第では、
再現度を上げようとそのまま3次元化したけど、「漫画だから頻繁にありうる、原色の髪色」とコスチュームによって、
逆に安物感みたいなのが出てしまう……みたいなことがあるじゃないですか。
そこのラインを「踏み越えない」アンクの人間態のバランス感覚が、すごく魅力だと思います。
90年代V系バンドのメンバーにいそうでいて、V系の中でも比較的パンク寄りという感じ。
90年代V系を通っていると、「実際にこういう出で立ちでバンドやってる人はいた」のを知っているから
「現実寄り」に感じられるんですよね。
V系通ってないと、奇抜すぎると思う……のかなぁ? わからないけど。
原宿・渋谷あたりには、今でもこういうファッションの人は歩いていなくはないだろうとは思うのですがw
とにかく、その絶妙さが、私は化粧の技術と三浦さんの“意外な化粧映え”から来ていると思いました。
泉信吾としての出で立ちは、「普通のサラリーマン」に見えるし、その状態があまりにも自然体で男性の骨格ですし
もともと各パーツがくっきりした顔立ちなので、化粧後を想像しようとしても
「化粧が映える顔つき」ではないように思ってしまうんです。
「化粧をする前からくっきりしている」顔で化粧を映えさせるのって、相当の技術とか美的センスが問われると思います。
ここに、「90年代V系を通ったのかな?」と思うような「男性が化粧映えするためのメイクスキル・コツ」を体得している
メイクスタッフさんのメイクアップ・スタイリングが作用して、
最もカリスマ性が高まる化け方をするメイクがなされているのかなと考えます。
実際のV系バンドメンバーだと、SHAZNAのA・O・Iくんのメイクが、結構方向性近いと思います。
それに、「顔の印象の半分くらいは髪型」というのもかなり強く感じました。
これは映司の方もです。
クスクシエで映司が色々な服装と髪型になるたびに、私はそれが映司だとは、一瞬認識出来ないことがあって、
「あの無造作ヘアが“映司成分”の50%を担っていた……」
と気付いたんですね。
泉信吾/アンクも同様で、アンク時と泉信吾時を1話の中で行ったり来たりするような回では、
「メイク前に信吾のカットをすべて撮り終えてから、メイクして髪整えてアンクを撮っていた」のか、
その逆なのか、シンプルに疑問に思いましたw
泉信吾の髪型がウィッグだと思うのですが、前者だとウィッグを外してからメイクしながら
アンク髪にするわけで「お色直し」が大変ですね。
そう考えると、アンクカットを先に撮ってから、メイクを落としてウィッグかぶって信吾カットを撮影……かな、と色々考えちゃいましたw
いや、電王のときも、良太郎にどのイマジンがつくかで良太郎の髪型がそこそこに変わることはあったけど
アンクの方が憑依のためのメイク・スタイリングは所要時間がかかりそう……。
48話まで見終わってから2話に戻ったら、「1〜3話は4話以降より髪の巻き具合が緩い」ことに気付きましたw
あの髪型、カッコよくて真似したいって思いましたね。
でも、そのメイクとスタイリングのちからも相まって、
泉信吾とアンクの外見的振り幅がすごく大きく表現・演出されているので、
二面性のお芝居含めて、素晴らしいキャラクターメイキングだと思いました。
泉信吾はシンメトリー、アンクの時は全体的にアシンメトリーなのが良いですね。
一体化後のグリード態におけるマスクもアシンメトリーで、顔の右側(向かって左)の正面から後頭部にかけて
クルクル舞う翼のデコレーションが施してあるようなデザインなので、人間態のときの髪型にも納得が行きますし。
まず「極彩色の翼」を持ってるのとか、アンクという名前とその外見からフェニックスを思わせるのとかが
卑怯すぎるほどカッコイイですね。ずるい。
それからこれは、小林靖子さんの脚本のちからですが、「序盤のものすごく何気ない台詞も伏線」なことがあって
2話の、初めてアイスを真に味わったであろうアンクが言う
「なんだ。俺も味は感じてるぞ。これが冷たくて旨いのは解る」
という台詞が、実はものすごく重たかったのだということに終盤気付いて、それだけで胸が痛くなりました。
彼がアイスを頬張るのは「ごっこ遊び」ではなかったのだと。
そこでは映司も同じことに気付いて
「もっと、好きに食べさせてやればよかったな〜」
というような独り言を溢すのが切なかったです。この時映司の方は味覚を失いつつあったし。
他のグリードみたいに、元の体がちゃんとくっついた状態でないからこそ逆に、
寄生した人間の感覚を通して、完全復活なしに「五感」を味わってしまっていたんですね。
クスクシエには、その全てが揃っていたし。
アンクの台詞って、その多くがぶっきらぼうな相槌か命令か「映司!」って印象になりますけど、
だからこそ、その中で時々出てくる上記のような台詞や、
32話の「(大怪我した映司に対して)大丈夫なのか」
最終話の「今日の分のアイス寄越せ」
みたいな「彼なりのデレ」と思われる台詞の希少価値が高まりますね。
すぐにもう一回最初から見て、彼の台詞から新たな発見をしたくなります。
思い返してみれば、電王ではなんだかんだモモタロスが4話ですでに懐柔されていると言えるので、
それに比べるとアンクはかなり「手強い」相手だと思いましたし、
ツンキャラという意味においては、桜井侑斗はまだまだ「優しさを隠しきれていない部類のツン」だったんだなと。
ツンにも色々なツンがあるけれど、アンクの場合は「傲慢・ほぼデレない」ツンなので
喩えるなら、海馬寄りのツンですね。\ふぅん!/
そういった「キャラの立たせ方」が、さすが! という感じで、アンクを筆頭に、
「一癖も二癖もあるが、嫌いになれない」人ばかりでした。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
3本軸で記事を構成しましたが、じゃあここに書かなかったことは印象に残らなかったのかというとそうではなくて、
それらは「言わずもがな」に素晴らしいことで、また今回も色々な勉強をさせてもらいました。
本編、ラスト10話は同日中に一気観したので、その日は5時間ずっと泣いているような状態になりました……。
約50話ある番組の「ラスト10話」というのは、起承転結の結にあたる部分であり、
あらゆる伏線が回収されきって、終焉のカタルシスに向かう部分じゃないですか。
そのへんって、作品次第じゃ繰り返し泣かされるわけですよ。
で、5時間ぶっ通しで見てると、5時間断続的に泣き続けている状態になりますから、
その結果、その日は余韻と共に頭痛がすごいことになったので早寝しましたw
アイスキャンディーがしょっぱいよ……。私の涙腺、壊れすぎ……。
仮面ライダーオーズ/OOO
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) November 15, 2021
最終話まで見終わったので、あとは来年の春を待つばかりだが
今は心に深い傷を負っているのでつらい
でも寝る前に、これだけ見ておきました。
東京国際映画祭で『仮面ライダーオーズ10th 復活のコアメダル』の製作発表が済んだ後の東映チャンネルの生特番です。
「10年前、大震災の渦中にあった日本でヒーローしていた」オーズが、世界的なコロナ禍に10周年を迎え、
完全新作を作っていたことを発表できるところまで来た、と。
私は、先日の大投票で「オーズが10周年」ということを把握したばかりだし、
『復活のコアメダル』の話もそこで出てきたのを受けて
「この機会にTVシリーズを履修して来年に備えてみようかな」からの全話視聴なわけです。
そうなると当然、「10年前オーズを見ていたことが懐かしい」という感慨には、残念ながら耽りようがないのですが、
それでも『復活のコアメダル』が楽しみだという気持ちは強いですね。
それに、この情勢下でよくぞ製作してくださったものです。
もうBlu-ray予約しましたし。
劇場版とTTFCのネット版も見なければ……。
『復活の〜』を見た後、アイスキャンディーはしょっぱくなくなるんでしょうかね。
サントラも買いました……。
春の映画館上映までに、あと1周はTVシリーズを見ておこうと思います。(既存の劇場版も)
今TTFC内で「アツかったシーン」を投稿するキャンペーンやっていて、
前回は「オーズ48話の映司がタジャドルコンボで変身するところ」が優勝だったみたいです。
私も、投稿間に合うかわからないけど、ふわっと、最近見た仮面ライダーそれぞれの
「特に熱くなったシーン」と、「なぜ熱かったのか」を考えてみようかなぁ。
<追記 2022/4/2>
『復活のコアメダル』劇場で見てきました!
ブログ記事
コメント