一番新しい訳で読みました。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
2010年くらいまでの私は感性が稚拙で、「自分がどんなものを本当に好きか」すらも自分でわかっていなかった。
自分に刺さるものの「類型」を把握していない状態。
だから、とりあえず気になった作品(それは流行っているものだとか、知り合いが口にしたタイトルだとか)に触れて
「自分に刺さるかどうか」を一生懸命感じ取ろうとした。
そして、何が刺さって、何が刺さらないかがわかってくれば、「自分がどんなものを本当に好きか」がわかってくると思った。
その工程においては、「刺さらなかった物」に対して、「自分に刺さらない理由は大体作品側にある」と考えることもあった。
「私がこの作品を『良い』と思えないのは、作品に質が低い部分があるからだ」と。
しかしながらというべきか、そういうことを繰り返した結果なのか、
「自分が好きっぽいもの」の類型が把握できてくるにつれて、徐々に考えが変わってきた。
刺さるものと刺さらないものがあるのは、「自分の感性や好み」が決めていることで、
作品の質や良し悪しとはまた別の次元の話なのだと。
作品として質が良くても悪くても、刺さったり刺さらなかったりする。
それはそうだ、物の出来と、個人個人がそれを好きになるか嫌いになるかは、まったくレイヤーの異なる問題なのだ。
そこで2010年からの私は、「本当に好きなもののどこが、なぜ好きか」を考えながら、
好きと思った作品に繰り返し触れることにした。
回帰や反芻をした。
2010年までが「広く浅く」だったとするならば、2020年までは「狭く深く」に転向したということだ。
これで、今度は自分の本当に好きなものがどういうもので、それがなぜ好きかを言語化出来るようになった。
そして2020年からの私は、また領域を拡大し、引き出しを増やすために、再び考え方とやり方を変えた。
2010年までの私が、
「作品に広く浅く触れる一方で、作品の質と自分の好みを切り離せていなかった」、
2010〜2020年においては「自分の好みの言語化の追究」の工程だったのだとすれば、
2020年からの私は、「自分の好みとは切り離したままで、作品の”良さ”とは何かを追究すること」となった。
即ち、「自分が好きであれ、嫌いであれ、ウケているものから”ウケている理由”を言語化・概念化して取り込む」ことだ。
たとえそれを「私個人は好きでない」としても、「評価を受けるに値するものとして自分の引き出しの中にしまう」のだ。
これが2010年までの私と2010〜2020年の私の、明確かつ価値ある「止揚(アウフヘーベン)」だと思う。
そういったわけで、近年は大学で必修単位を履修する感覚で、仮に「好き」にはなれなかったとしても、
人気のある作品に可能であれば結末までちゃんと触れてみて「その作品の何が良い(とされている)のか」を哲学している。
それが「教養」だと思うからだ。
教養というのは、義務教育で学ぶような算数国語理科社会がわかるとかそういうこともそうなのかもしれないが、
自分の好みに合おうが合うまいが色々な文化や作品に触れて、その経験を引き出しにしまって、
咀嚼して、良さを解することでもあると思う。
逆を言えば、「自分が好きでないものを好きな人の感性を否定する」のは、教養がないとも言えるのだろう。
「自分は好きではないけど、これを好きだと言う人がどういうところに魅力を感じているかを解する」。
これは立派な教養なのではないだろうか。
良さを解すれば、逆説的に「良くない とは」ということも自ずと明らかになってくるので、「批判的思考」も同時に養える。
(しかし、ここでいう「批判」とは、作品を「悪しざまに言う(腐す)」ことではない 批判的思考のWikipedia)
これも「引き出し」を増やす上では避けて通るわけにいかない。
この間、こういうことがあった。
「今日の仕事は、楽しみですか」品川駅広告炎上、3つの地獄を解き明かす
ツイッターで「ディストピア」の話題になる時は、「1984」とか「ビッグブラザー」とか
「ゼイリブ」とかの単語が散見される。
特に『1984』は本当によく取り沙汰されるが、『1984』のすごいところは、
それを挙げる人間でも「概要は知っているけど本当に読んだことはない」という場合も多くないのではないかということで、
読んだことなくても、それだけ人々の脳内で「ディストピアといえば1984」という図式が成立しているということだ。
「ディストピア小説の金字塔」という評価も伊達ではない。
だから私は、この機に「履修」のつもりで『1984』を読むことにしたのである。
私の中では、ディストピア小説というと『ザ・ギバー』なので。
じゃあ金字塔たる『1984』は、いかほどにディストピアとして強烈なのだろう、と気になった。
単に「数あるディストピア小説の中でも古いから」というのが金字塔とされる理由ではないはずだ。
全体主義批判が主軸となるディストピア作品における”肝”のひとつに
「管理統制する側は、あたかも良いことをしているかのような気になっている」
というのがあると思う。
しかし『1984』ではその彼岸に達している。
というのも、『1984』における管理側の人間は、「二重思考(ダブルシンク)」のおかげで
良いことと良くないことというような観念自体を捨てているからこそ
そういった管理統制のシステムを敷けているというのがある。
それに、『ザ・ギバー』は、「大人も楽しめる児童文学」という感じで、読者層として中高生を想定しているからかもしれないが
まだ「希望を感じさせる結末」になっている。
その点で『1984』の“筋金入り”なところは、「一切救いがない結末」なことだった。
例えば、小説に限らなければ、映画『マトリックス』だって、ディストピア×テクノロジーものと言える。
1作目で、ネオが住んでいる部屋が「101号室」であることも、『1984』に出てくる「101号室」のオマージュと言われているくらいだし。
(101号室のWikipedia)
そして『マトリックス』も、3作目のRevolutionsで主人公・ヒロインともに命を落とすことになるが
その犠牲をもって世界は改善するという結末なので、これだって『1984』に比べたらまだ希望が感じられる。
そういった「確かに酷い世界だったが最後には光が見えた」という作品にはいくつも触れてきたが、
「結局救いがない」というのは、そうそう出会えなかったということに気付いた。
強いて言えば、本編の後に付録としてついている「ニュースピークに関する解説部分」が、
「過去形で書かれていること」を、唯一の希望と解釈できるくらいだ。
絶望したし「そりゃ金字塔だわ……」となった。
(「ネズミかよ」感もあったけど、海外では海洋生物がホラー的に捉えられていてラブクラフト作品が生まれるのに
日本では「イカタコなどただの食べ物」というギャップがあるように、ネズミはヨーロッパの方では
ペストの印象も強いから、日本人が感じるよりも「強い恐怖の対象」なのかもしれんな、と思った)
それに、「同志だと思っていた、頼れる相手こそが最も警戒すべき相手だった」ことよりも、
むしろその相手こそが、スミスを「思想犯罪者」へと作り上げていったと読めるところも恐ろしい。
読者はやはり主人公に感情移入しながら読むものなので、ずっと
「スミスは(ちょっとその判断はどうかなという部分もなくはないが)自分の考えで決めて行動して
一筋の光に手を伸ばした」
と思って読んでいくのだけれど、あの社会においてスミスは最初から「イレギュラー」で
党はその素質を早くに見抜き、スミスが一層自分の思い込みを強くして、後戻りのできないほどの”思想犯罪”を犯すまで
あえて泳がせたり、干渉したりしてきたのだとわかる。
スミスだけが「自分は自分で考えている」と思っていて、読者はそれに同調しているだけで、
「イレギュラーは必ず生まれ出るものなので、それを早くに察知して、わざと一筋の光を見せてやる」
というシナリオが党の方には予め用意してある。
これも『マトリックス』の、「ネオは“初代”ではないし、繰り返し生まれてくる予期されたイレギュラーである」ことを彷彿とさせるし、
『PSYCHO-PASS』においてシビュラが「早期に免罪体質者を発見し、取り込むことで、よりシステムを堅牢にしていく」
という設計思想のもと稼働していることにも通じる。
必ずイレギュラーやバグは発生し、根絶することはできない。
だから、それをシステムに取り込みながら、システムが完璧であることの補強要件とか演出に利用するわけだ。
なるほど90年代以降のSFやディストピア要素のあるものにおいて、
『1984』に見られるような「イレギュラーを“排除しない”ことのほうが統制システムを完璧に近づける」という
描き方がなされてきたのも得心が行く。
異常者とみなされ摘発されるだけよりも一層恐ろしく、生まれたときから逃げる隙などないことを意味するからだ。
なにしろ、『1984』は1948年に書かれたので、執筆時点から見れば1984年は未来にあたるが
2021年の今から見れば1984年は40年近く過去に相当すると言うのに、
「まるで『1984』のよう」
なことが行われている、または行われようとしている国があるというのが信じがたい。
1948年時点で「将来こういうことが現実になるかもしれない。例えば1984年頃には」と
注意喚起の意味も込めて書かれたものが、2021年に現実味を持っているというのは哀しくもある。
どれだけ「考えうるリスク」を予め訴える人がいても、人は過ちを犯す、もっというと繰り返すということになるのだから。
「想定できますよ」と言われ続けても、「それが現実になるまでは」本当に起こりうることだと思ってもいなしい、
その深刻さがわからないということだ。
参考リンク
【解説:内田樹】ディストピア小説の金字塔! ジョージ・オーウェルが幻視した悪夢のような未来世界『1984』【文庫巻末解説】
私が読んだ版の巻末についている解説部分だけウェブでも読めます
2010年くらいまでの私は感性が稚拙で、「自分がどんなものを本当に好きか」すらも自分でわかっていなかった。
自分に刺さるものの「類型」を把握していない状態。
だから、とりあえず気になった作品(それは流行っているものだとか、知り合いが口にしたタイトルだとか)に触れて
「自分に刺さるかどうか」を一生懸命感じ取ろうとした。
そして、何が刺さって、何が刺さらないかがわかってくれば、「自分がどんなものを本当に好きか」がわかってくると思った。
その工程においては、「刺さらなかった物」に対して、「自分に刺さらない理由は大体作品側にある」と考えることもあった。
「私がこの作品を『良い』と思えないのは、作品に質が低い部分があるからだ」と。
しかしながらというべきか、そういうことを繰り返した結果なのか、
「自分が好きっぽいもの」の類型が把握できてくるにつれて、徐々に考えが変わってきた。
刺さるものと刺さらないものがあるのは、「自分の感性や好み」が決めていることで、
作品の質や良し悪しとはまた別の次元の話なのだと。
作品として質が良くても悪くても、刺さったり刺さらなかったりする。
それはそうだ、物の出来と、個人個人がそれを好きになるか嫌いになるかは、まったくレイヤーの異なる問題なのだ。
そこで2010年からの私は、「本当に好きなもののどこが、なぜ好きか」を考えながら、
好きと思った作品に繰り返し触れることにした。
回帰や反芻をした。
2010年までが「広く浅く」だったとするならば、2020年までは「狭く深く」に転向したということだ。
これで、今度は自分の本当に好きなものがどういうもので、それがなぜ好きかを言語化出来るようになった。
そして2020年からの私は、また領域を拡大し、引き出しを増やすために、再び考え方とやり方を変えた。
2010年までの私が、
「作品に広く浅く触れる一方で、作品の質と自分の好みを切り離せていなかった」、
2010〜2020年においては「自分の好みの言語化の追究」の工程だったのだとすれば、
2020年からの私は、「自分の好みとは切り離したままで、作品の”良さ”とは何かを追究すること」となった。
即ち、「自分が好きであれ、嫌いであれ、ウケているものから”ウケている理由”を言語化・概念化して取り込む」ことだ。
たとえそれを「私個人は好きでない」としても、「評価を受けるに値するものとして自分の引き出しの中にしまう」のだ。
これが2010年までの私と2010〜2020年の私の、明確かつ価値ある「止揚(アウフヘーベン)」だと思う。
そういったわけで、近年は大学で必修単位を履修する感覚で、仮に「好き」にはなれなかったとしても、
人気のある作品に可能であれば結末までちゃんと触れてみて「その作品の何が良い(とされている)のか」を哲学している。
それが「教養」だと思うからだ。
教養というのは、義務教育で学ぶような算数国語理科社会がわかるとかそういうこともそうなのかもしれないが、
自分の好みに合おうが合うまいが色々な文化や作品に触れて、その経験を引き出しにしまって、
咀嚼して、良さを解することでもあると思う。
逆を言えば、「自分が好きでないものを好きな人の感性を否定する」のは、教養がないとも言えるのだろう。
「自分は好きではないけど、これを好きだと言う人がどういうところに魅力を感じているかを解する」。
これは立派な教養なのではないだろうか。
良さを解すれば、逆説的に「良くない とは」ということも自ずと明らかになってくるので、「批判的思考」も同時に養える。
(しかし、ここでいう「批判」とは、作品を「悪しざまに言う(腐す)」ことではない 批判的思考のWikipedia)
これも「引き出し」を増やす上では避けて通るわけにいかない。
この間、こういうことがあった。
「今日の仕事は、楽しみですか」品川駅広告炎上、3つの地獄を解き明かす
ツイッターで「ディストピア」の話題になる時は、「1984」とか「ビッグブラザー」とか
「ゼイリブ」とかの単語が散見される。
特に『1984』は本当によく取り沙汰されるが、『1984』のすごいところは、
それを挙げる人間でも「概要は知っているけど本当に読んだことはない」という場合も多くないのではないかということで、
読んだことなくても、それだけ人々の脳内で「ディストピアといえば1984」という図式が成立しているということだ。
「ディストピア小説の金字塔」という評価も伊達ではない。
だから私は、この機に「履修」のつもりで『1984』を読むことにしたのである。
私の中では、ディストピア小説というと『ザ・ギバー』なので。
じゃあ金字塔たる『1984』は、いかほどにディストピアとして強烈なのだろう、と気になった。
単に「数あるディストピア小説の中でも古いから」というのが金字塔とされる理由ではないはずだ。
最近『1984』読み進めてるせいで、現実と『1984』がごっちゃになる https://t.co/7n9UAIZP0Q
— (V)・∀・(V)かにぱん。🦀🍞@つくば (@kanipan666) October 11, 2021
全体主義批判が主軸となるディストピア作品における”肝”のひとつに
「管理統制する側は、あたかも良いことをしているかのような気になっている」
というのがあると思う。
しかし『1984』ではその彼岸に達している。
というのも、『1984』における管理側の人間は、「二重思考(ダブルシンク)」のおかげで
良いことと良くないことというような観念自体を捨てているからこそ
そういった管理統制のシステムを敷けているというのがある。
それに、『ザ・ギバー』は、「大人も楽しめる児童文学」という感じで、読者層として中高生を想定しているからかもしれないが
まだ「希望を感じさせる結末」になっている。
その点で『1984』の“筋金入り”なところは、「一切救いがない結末」なことだった。
例えば、小説に限らなければ、映画『マトリックス』だって、ディストピア×テクノロジーものと言える。
1作目で、ネオが住んでいる部屋が「101号室」であることも、『1984』に出てくる「101号室」のオマージュと言われているくらいだし。
(101号室のWikipedia)
そして『マトリックス』も、3作目のRevolutionsで主人公・ヒロインともに命を落とすことになるが
その犠牲をもって世界は改善するという結末なので、これだって『1984』に比べたらまだ希望が感じられる。
そういった「確かに酷い世界だったが最後には光が見えた」という作品にはいくつも触れてきたが、
「結局救いがない」というのは、そうそう出会えなかったということに気付いた。
強いて言えば、本編の後に付録としてついている「ニュースピークに関する解説部分」が、
「過去形で書かれていること」を、唯一の希望と解釈できるくらいだ。
絶望したし「そりゃ金字塔だわ……」となった。
(「ネズミかよ」感もあったけど、海外では海洋生物がホラー的に捉えられていてラブクラフト作品が生まれるのに
日本では「イカタコなどただの食べ物」というギャップがあるように、ネズミはヨーロッパの方では
ペストの印象も強いから、日本人が感じるよりも「強い恐怖の対象」なのかもしれんな、と思った)
それに、「同志だと思っていた、頼れる相手こそが最も警戒すべき相手だった」ことよりも、
むしろその相手こそが、スミスを「思想犯罪者」へと作り上げていったと読めるところも恐ろしい。
読者はやはり主人公に感情移入しながら読むものなので、ずっと
「スミスは(ちょっとその判断はどうかなという部分もなくはないが)自分の考えで決めて行動して
一筋の光に手を伸ばした」
と思って読んでいくのだけれど、あの社会においてスミスは最初から「イレギュラー」で
党はその素質を早くに見抜き、スミスが一層自分の思い込みを強くして、後戻りのできないほどの”思想犯罪”を犯すまで
あえて泳がせたり、干渉したりしてきたのだとわかる。
スミスだけが「自分は自分で考えている」と思っていて、読者はそれに同調しているだけで、
「イレギュラーは必ず生まれ出るものなので、それを早くに察知して、わざと一筋の光を見せてやる」
というシナリオが党の方には予め用意してある。
これも『マトリックス』の、「ネオは“初代”ではないし、繰り返し生まれてくる予期されたイレギュラーである」ことを彷彿とさせるし、
『PSYCHO-PASS』においてシビュラが「早期に免罪体質者を発見し、取り込むことで、よりシステムを堅牢にしていく」
という設計思想のもと稼働していることにも通じる。
必ずイレギュラーやバグは発生し、根絶することはできない。
だから、それをシステムに取り込みながら、システムが完璧であることの補強要件とか演出に利用するわけだ。
なるほど90年代以降のSFやディストピア要素のあるものにおいて、
『1984』に見られるような「イレギュラーを“排除しない”ことのほうが統制システムを完璧に近づける」という
描き方がなされてきたのも得心が行く。
異常者とみなされ摘発されるだけよりも一層恐ろしく、生まれたときから逃げる隙などないことを意味するからだ。
なにしろ、『1984』は1948年に書かれたので、執筆時点から見れば1984年は未来にあたるが
2021年の今から見れば1984年は40年近く過去に相当すると言うのに、
「まるで『1984』のよう」
なことが行われている、または行われようとしている国があるというのが信じがたい。
1948年時点で「将来こういうことが現実になるかもしれない。例えば1984年頃には」と
注意喚起の意味も込めて書かれたものが、2021年に現実味を持っているというのは哀しくもある。
どれだけ「考えうるリスク」を予め訴える人がいても、人は過ちを犯す、もっというと繰り返すということになるのだから。
「想定できますよ」と言われ続けても、「それが現実になるまでは」本当に起こりうることだと思ってもいなしい、
その深刻さがわからないということだ。
参考リンク
【解説:内田樹】ディストピア小説の金字塔! ジョージ・オーウェルが幻視した悪夢のような未来世界『1984』【文庫巻末解説】
私が読んだ版の巻末についている解説部分だけウェブでも読めます
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