先日、序破Qを一気観したという記事に書いた通り、今日「シン〜」を見てきましたので……
ここに記事を立てるぞー!

エヴァンゲリオン公式サイト

(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


私は、エヴァはずっと「父の屍を越えていく息子の成長物語(ジュブナイル)のはず」と思っていたんだけど、
テレビシリーズや旧劇は、そうだと明確にわかるような終わり方・見せ方をしなかったので
「わけがわからない作品」の烙印を押され続けてきた印象がある。
しかし、今回ので説明しすぎなくらいそれを見せてくれたし、
「なぜゲンドウという父親が“越えるべき存在”なのか」
もゲンドウ自身がめちゃくちゃ自分語りしてくれた。
だからむしろ
「昔からわからないわからない言われすぎて、誰がどう見てもわかるようにめちゃくちゃ説明したんかなw
これだけ言えばわかるだろ!? みたいな執念すら感じるw」
と思ってしまったw
「自分はわかってるからって”わからないのかよw”とマウントをとって楽しむ嫌味なファンがいる作品」
とまで言われたりして、(いや中には本当にそういう人もいるのかもしれないけど)
まず前提として基本作っている側は「最終的に分かる人にだけ分かれば報われる」というのが根底にあるだろうし、
ファンとしても「万人に理解されろ」と思っていないし、わからない人、刺さらない人も
「いるのはしょうがない」ことでむしろ刺さらなかった人に対して“容認”の姿勢だと思うのだが。
なのに、今作は作品側が
「分かる人にだけ分かって貰えれば良い」
を越えた
「もしかしたらこう言えば分かってくれる人は増えるかもしれない」
という執念にも似た歩み寄りがあったと私は感じたのだw


そもそもエヴァの物語の大筋やシンジの心理描写には「発達心理学の成長過程」が当てはめられていると考えると
あの「わけがわからない」と言われているテレビシリーズの最終回すら「いや、合ってんじゃん」となるので、
「発達心理学」のWikiを見て欲しい。

エリク・H・エリクソンによる発達段階の項目にある表がそのままそれである。

時期/導かれる要素/心理的課題/主な関係性/起こりうる疑問

乳児期/希望/基本的信頼 対 不信/母親/世界を信じることは出来るか。
幼児前期/意思/自律性 対 恥、疑惑/両親/私は私でよいのか。
幼児後期/目的/積極性 対 罪悪感/家族/動き、移動し、行為を行ってよいか。
児童期/有能感/勤勉性 対 劣等感/地域、学校/人々とものの存在する世界で自己成就できるか。
青年期/忠誠心/同一性 対 同一性の拡散/仲間、ロールモデル/私は誰か? 誰でいられるか。
初期成年期/愛/親密性 対 孤独/友だち、パートナー/愛することが出来るか。
成年期/世話/生殖 対 自己吸収/家族、同僚/私は自分の人生をあてにできるか。
成熟期/賢さ/自己統合 対 絶望/人類/私は私でいてよかったか。


「分かる人にだけ分かってもらえればいい」で閉じていた作品自体の「発達段階」が成熟期へと進んだとすら言える。


シンジは、
「ここに来てみれば、なにか良いことがあるかもしれない」という希望に従って第3新東京市へやってきて、
自分の意思でエヴァに乗るだの乗らないだのを問われ、考えさせられ、
次に「僕はなんでここにいるんだろう」「エヴァに乗るならその目的はなにか」を考え、知り、
克己心を身に着け、友達を作り、最終的に「社会、人類全体のような、より広い世界」に自分を置き、
そこで自己実現を果たす。
例えば「地域、学校」の段階での象徴はトウジとケンスケで、友達・パートナーの段階がカヲルくんだ。
最後の「私は私でいてよかったか。」の段階を表現するために、
最終回で「拍手でおめでとう!」というやり方をしたので、その段階までにこれが
発達心理学に従って進んできた物語だと思っていなかった人には
「は?」と思われてしまったのだろうと分析する。
なんせ見た目には、「目的不明の巨大な敵と戦うロボットと、謎の秘密結社による怪しい計画」が
強く興味を惹くので。
そういう「視覚的なところで行われていること」は、飽く迄「監督が見たい感じの映像表現」「横糸」であって、
縦糸としての「発達心理学の段階」には人々は気づかなかったのだと思う。
皮肉で不幸なことに、あまりに1話1話のエピソード構成が上手く、アニメーション映像が美麗なせいで、
本当の縦糸が巧妙に覆い隠されてしまったのかなと思う。
もう一度よく見直してみれば「希望」だの「意思」だの「目的」だのと、明確に言葉で言っているセリフが
発達段階に従った順序で出てきて「ここテストに出まーす」ばりの強さで声優さんも強調しているから、
発達心理学の成長段階を追っているという前提で見たら「ストンと落ちる」と思う。


父ゲンドウは体の年齢こそ大人ではあるが、発達段階で言えば乳児期で止まっているようなものだ。
発達段階ごとで異なって広がり続けるはずの「主な関係性」の全てをユイに求め、依存し、自分の世界の殻から出てこない。
ゲンドウにとって、ユイが母親でもあり父親でもあり、家族であり、学校で、友達で同僚で恋人だった。
本来の発達段階としては、「それぞれの役割を別の人間に求める」ことで人間は社会性を構築し、
複数のコミュニティに属していく訳だが、それに失敗したまま先へ進めず、
自分の身を省みることが出来ていないのがゲンドウという父親なのだ。
その「社会不適合の本質」を、今作では本人が延々事細かに喋ってくれるw
こういうところを例えば「ゲンドウの過去編」とかで短いシリーズにするのが、多くのフィクション作品のやり方なのだが
庵野監督はその手法が「野暮ったい」と感じてしまうたちなのかもしれないw
いや、テレビシリーズでは実際「過去編」をやっていたし、その役割はこれだったのだが、
それだと伝わらなかった+尺を食うからゲンドウにモノローグを言わせる手法に変えてきたという感じがする。

作品上、主人公としてのシンジはこれを克服してみせなければならなかったのだが、
作中ではゲンドウの人となりもふわっとしか語られなかったのが旧劇までのエヴァなので、
「話し合いが出来ない父親とウジウジした息子が結局最後まですれ違って終わる」
みたいな印象になってしまって、それがひいては
「なぜこの主人公なのかわからない」「キャラクターが何をしたい/いいたいのかわからない」
という感想を引き起こしたのではなないだろうか。
飽く迄私の分析だけど。
いや、本当に、発達心理学だと思って見ると、TVシリーズも旧劇も、筋通ってるな……ってなるのよね。
ゼーレとか死海文書とかは一回全部忘れて、そこだけ意識すると全部辻褄合うのだけどw


それはそれとしてね、私二日前にQまで見てすぐ映画館へ行ったからこそ、Qのラストの予告映像も
見たばかりだったわけで、
「本編であのシーンがちゃんと見られるのか! 楽しみだな!」
って思ってたの。
Qの次回予告で、2号機と8号機が1機体となって「2プラス8号機」としてすごい動きしてるあれね。

最後まで待ってたけど、あのシーンなくて
「ないのおおおおおおおおおおおおおお」
ってなって笑っちゃったよw
じゃああの映像は何、一回作ったけどカットまるごとナシになったか、予告のためだけに作ったかどっちかじゃんw
すごいな……ってなった。謎のすごいな。


あと、Qの時点で
「なんでいきなり宇宙艦隊になってるの? 意味不明だから★1」
みたいなレビューを見かけたのだけど、エヴァは最初から
錨だの舵だの六分儀だの、赤城(赤木リツコ)だの葛城だの、伊吹マヤ(伊吹で摩耶とか贅沢)だの、
青葉だの蒼龍(惣流)だの綾波だの……
挙げたらキリがねぇわ、とにかく船に関する名前、旧日本海軍の艦船名を沢山使っているので、
私はむしろ
「やっとその名の通りフリート(艦隊)化したか……」
って思った。
「なんでいきなり宇宙戦艦になってるのか」というのを説明するなら、
「元々艦隊みたいな名前をつけてたから視覚的にも艦隊にして遊びだしちゃったんじゃない?」
って感じw
こういうお遊びや仕込みに気付かないか、気付いても面白くなかったなら、面白いと思えなくても仕方がないけど。
むしろ「ずっと名前の上では艦隊を編成してたよ!!」と言わんばかりに艦隊出してきたから、
「キャラの名前だけのお遊びを映像化しちゃうのかよw」って言う方向に笑ったんだけどw


2016年時点でも、艦これでエヴァごっこが出来るレベル。
というかこれがやりたくて艦これ始めたw

作者の「お遊び」も、視聴者に伝わらないお遊びはおしなべて
「意味不明なので★1」
というレビューになってしまうのか、それは悲しいなと思った。
しかし「わかる人」も確実にいるわけで、いちいち悲観することでもないよなw
そして、わかる人の考察や解説によって、のちに「わかる」人が増えるかもしれないから、
「わかんないの?(プゲラ」と嘲笑ったり、マウントを取るのではなく、
あちこちで「一応解説してみる」という布教方法も手だよな、と思うなど……。


あと、これはもしかしたら殆どの人に共感されないかもしれないんだけど、私がシン・エヴァで最初に泣いたシーンは、
たんぽぽの綿毛が飛ぶ所である。
それは、加持さんが遺した、地球上の出来る限り多種多様な生物の「種の情報」を積んだ小型衛星が
最終決戦を前にヴンダーから射出されるシーンである。
その小型衛星が「たんぽぽの綿毛型」だったのだ。
風に乗って、種子を遠くまで飛ばす綿毛を模した「アーク(方舟)」なんて素敵すぎる……。
そして、その綿毛は「故・加持さんの仕事」だと思うと、「土の匂いがする男」らしいな、
なんて思って泣いてしまった。
加持さんも、カヲルくんも、TVシリーズの時点で一度は死んでいるから、今更劇場版で死んだからと言って
「えっ、あの人が死ぬなんて!」
とは思わないキャラクターだけど、
「死に様」とかメッセージが変わっていたり、よりキャラのメッセージが明確になっていたりして、
同じシリーズの同じキャラクターではあるんだけど、本当に「正統進化」を感じた。
なんていうか、こうやって数回の映画化を経て、最後に
「蛇足だった」
と思わせないのって相当すごいのではないだろうか……。

ただ、私は今でも「エヴァは見る人を選ぶ作品」だとは思ってる。
誰にでも刺さるものじゃない。
例えば『シン・ゴジラ』とかに比べれば、多くの人が見て、その人達の多数に刺さって、
「面白かった! また何度でも見たい!」
と思われるような作風かと言われると、そうではないと思う。
中高生の頃にテレビシリーズに出会って、衝撃を受けて、そこから他にも色々な作品を見た上で、
「エヴァの唯一無二性」を知っている者にとっては、
「あの時代にそれを見た」
ということが大きいので、今から全部追いかける人が同じ感覚になるとは思わない。
例えば、エヴァテレビシリーズに中高生時代に出会うというのは、前にも書いたが、
90年代という世紀末を
「ノストラダムスの大予言で1999年には地球が滅びるかもしれないんだ」
と一度は真剣に考えたことがある世代なのだ。
私の学年、つまり「エヴァ放映当時にシンジと同じ年齢だった人間」というのは、
「ノストラダムスの大予言が的中したら成人する前に死ぬ」はずだった世代なのだ。
だからエヴァの「一回世界がほぼ滅亡した」というのは、あの時リアルタイムに見ていた人間にとって
「数年後本当にこうなっているかもしれないアニメ」だったのだ……。
それを、1999年に世界や人類が滅亡するかもしれなかったんだよ、と言われてもピンと来ない世代が見ても、
エヴァの「ポストアポカリプス感」が我が事のように迫ってくる感覚が生まれ得ない。
もうここだけは本当にしょうがないと思う。
生まれたタイミングがそうなのだし。
逆に『シン・ゴジラ』が多くの人に刺さったのは、311の震災を経験した後だからでもあると言える。
311を経験していないし、日本人の気質をよくわかっていない海外では『シン・ゴジラ』はウケなかったし納得の結果である。
要は、タイミングとか時流や風土が、作品への共感とか没入感とかに大きな影響を与えるから、
エヴァの場合は
「ノストラダムスの大予言が当たったら世界人類が滅亡する」
と真剣に考えたり、地下鉄サリン事件でカルトの本当の恐ろしさが身にしみた人間によく刺さるのであって
そこから時間が経てば経つほど、刺さる人間が減るのは仕方がないと思う。

それでも、「発達心理学」はタイミングや時流、時事、流行などと関係がないので、
「発達心理学的考察をしながら見る」なら、いつ見ても面白い作品だと思う。
こっちはこっちで、「心理学に興味のある人間」というのが限られるので、
やはり「人を選ぶ」ことには変わりないのだが、この要素のおかげで
「90年くらいまでに生まれていないとわかりようがない作品」
という烙印は免れるので助かるw
「ノストラダムスの大予言」に怯えながら小〜高校生時代を過ごした世代でないならば、
ぜひ発達心理学的見地からエヴァを見てみて欲しい、という布教が可能なので助かる!w

ちなみにこの日、4DXで映画を3本見たけど、エヴァが一番揺れたと思う。
あとシャボン玉演出を初めて見たw
劇場内にシャボン玉が舞うやつw