やっと『シン・エヴァ』が劇場で見られるので、序破Qを見ました。
で、シンの方は近く見に行くので、見終わってからそれは別途記事を立てるとして、
まず序破Qの記事をここに立てよう!

厳密には、序は当時見てあったのですが、「○部作構成」のものを新章が出来るたびに見に行くのは
あまり好きではないので(と言いつつそういうシリーズの映画だって何作も見てきたのだけども)
破とQは、シンを見る権利が発動出来るようになってから一気にでいいやってことで保留してあったんですよ!
一気観の方が好きだから!

ネルフのSSD買った!
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(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


私は、エヴァのリアルタイム世代です。
テレビ放映時にシンジ君たちと同じ14歳だった直撃世代です。
水曜になると同級生が「早く帰らないとエヴァが始まってしまう」とソワソワしていたのが懐かしいです。
私自身はその友人がハマっているのを見て作品が気にはなっても、
途中からテレビシリーズを追いかける気にはなれなかったので、
別のアニメビデオ買いまくる友人からのVHSレンタルで全話見て、旧劇場版はみんなで一緒に映画館へ行ったんですよね。

テレビシリーズの最終回を見て、
「こんな終わり方ありなのか!」
とびっくりして、映画を見れば意味がわかるのだろうと思って見に行って
「気持ち悪い…」
ってアスカに言われた瞬間幕がおりて(物理)びっくりしました。
あ、当時の映画館には緞帳があって、終わるとそれをちゃんと閉じていたんですよ。
シネコンにしか行ったことがないと「そうなの!?」ってなるかもしれませんが。
そして映写室からテープを巻き戻す音が聞こえてくるんです。カラカラ〜って。(時代)

「気持ち悪い…」
というアスカの最後のセリフが言い終わるかどうかというタイミングで
ガガーーーーーー!!
と緞帳が閉じてきて
「えぇえええ!?」
と。
その時は、
「もう、エヴァって“こういうもの”なんじゃないかな。自分で考えるものなんだよ…」
と思い直して、シナリオブック(脚本そのものを書籍化したもの)を買って、
TVシリーズを見ながら脚本を目で追って、セリフや副題や演出の意味とかを頑張って考察したものです。(遠い目)
↓今も手元にある現物。
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その頃は「少女革命ウテナ」も見ていたので、
「見た人が意図や意味を考える」「作中の説明は不足している」
みたいなコンテンツを「そういうもの」だと受け入れていましたね。
私にとってはその始まりがエヴァだったという。
わからないものを「わからないもの」としてそのまま抱え続けて、自分の中で時間をかけて咀嚼していく楽しみ方をするというか。

死海文書ってなんだ? とか、使徒の名前がキリスト教の天使の名前から来てるのはなぜ? とか、
「エヴァンゲリオン」の語源は「福音」を意味する「Evangel」のようだなとか辞書を調べて考えて、
ルーツを辿ればわかる……いや、ルーツを“辿らなければ”わからないものだと思って
色々本を読んだり考えたりしました。
ネット環境はなかったので
「考察ウェブサイトやブログを漁る」
みたいなことはできませんでしたしねw 図書館に行ってましたw
そしてその
「自分で考えて“こういうことなんじゃないかな”っていうフワっとした答えに到達する(確信は得られない)」
というのを楽しんでしまう人が、私を含め大量生産されたと思います。

「死に至る病、そして」というサブタイトルの回がありますが、それがきっかけでキルケゴールを知り
(この副題の元ネタはキルケゴールの著書『死に至る病』に由来していて、「死に至る病」とは「絶望」のことを指します)
哲学、倫理学、心理学などに興味を持って、そのままそういう系の大学進学をしちゃったので、
「私は進路はエヴァが決めた」と言っても過言ではないんですよねw
人の心の暗部を描く作品で、それを直視させられる……みたいなところがエヴァの大きな特色(特徴ではあるが特長ではない)でもあったので、
中学の頃に自我が芽生えて親と衝突する度に途方も無い理不尽さを抱えて、
「人はどうしたらもっと強く生きられるのだろう」
ということを毎日考えていたりもした私は、そのあとにエヴァを見てしまったことにより
「深淵を覗くこと」それ自体に惹かれてしまったところもあります。
自分の弱さと向かい合えばいつか強くなれるのだろうか、と担任の先生に相談したりしてたな……。

だからこそ、キルケゴールやニーチェに興味を持ったし、今思えば必然の流れにも感じますが。
例えばニヒリズム(虚無主義)の思想って
「この世の全ては無常で無意味じゃん……いつ死んでも同じじゃん、今死のう」
という結論に至ることではなくて、その“自分がこの宇宙で生かされていることの意味のわからなさ”を
どう克服するかが焦点だと思うし。
ニーチェに関しては「ルサンチマン(劣等感の一種)」もそうだと思いますよ。
「ルサンチマンってこういうものなんだよ」という定義づけが最終目的ではなくて、それをどう越えていくか。
キルケゴールやニーチェの思想の魅力は、
「人間の暗部と向き合って、それを越えようと足掻いた実直さ」
だと思います。
で、これすごく話が逸れているように見えますが、エヴァも全くもってそうだと思うんです。

「暗部を描く、暗部と向き合う、それを越えようと足掻く人間」
エヴァにおける人間ドラマの焦点はここだと思うので、私がエヴァもキルケゴールもニーチェも好きなのは、
ここが共通しているからだと思うんですよ。

人は、みんな強くはない。
仮に強い人間がいたとしても、最初から強かった人ばかりじゃない。
(中には最初から強い人もいるのかもしれないけど、普通人間は完璧超人ではないと思う)
それに、「克服」を経験出来るのは弱い人間の「特権」なのだ。
だからまず自分の弱点を知る必要がある。そしてそれをひとつひとつ潰す。
そして弱さも強さも知る人間になる……。
そんなことも「弱さと強さ」について考えていた中学時代に思ったりしました。

エヴァは徹頭徹尾シンジ君の成長物語を描こうとしてきたと思います。
それが、多くの人にそうストレートに伝わったかは別として、私はそう解釈していますし、
新劇場版シリーズも、全部がそこへ収束していくための物語なんじゃないかと思うんですよね。
だから弱くて脆くてうじうじしてるところからスタートして、最終的には
自分で自分の居場所を作るとか、誰かに認めてもらう前に自分で自分を認めるとか、
そういう「弱さの克服」へ持っていくんじゃないかな……と思うんです。
TVシリーズも、旧劇も、そういうテーマだったと考えるとそれはそれで辻褄は合うし。
投げ方が雑だからボールを受け取れなかった人が多かったってことなのかなとw

それに、エヴァってそもそもTVシリーズの1エピソードごとのシナリオ構成はほんっとおおおに面白くて
最終回があのあれだったから「意味不明なので★1」みたいな言われ方することもあるんだろうけど、
使徒が現れて、予想外の挙動をされて、それを毎回打ちのめしていくっていう
勝利のカタルシスにはすごいものがあるんですよ。
そして作画とカメラワーク(構図)、カット割りと音ハメね。
見ていて映像の爽快感と重量感がすごいんです。
「世界が一回滅び(かけ)たらどうなるんだろう」
っていう、ノストラダムスの大予言を通過した誰もが一度は考える
「ポストアポカリプス」に対するひとつの答えみたいなものも提示してくれているし、
「要塞都市」のカッコ良さも惚れ惚れしますね。廃墟とメカ萌えで。


というわけで新劇シリーズを一気に見て思ったのは、
TVシリーズの胸熱展開な部分(ヤシマ作戦とか)をしっかり押さえて再構築し、
更に正統進化させた部分も沢山あったなあということですね。

それから、使徒の持つ「特性」みたいなのが、その前後に出てくる用語とマッチしている部分などもあり改めて唸りました。
例として、これは直前直後というほどではないけれども、「ヤマアラシのジレンマ」についてリツコが言及した後に
「ゼロ距離では戦えない相手」としてラミエルくんが出てきたり、
そのラミエルの被弾後の姿もヤマアラシのように(?)トゲトゲだったり。
シンジが周囲の全てを拒絶しエヴァにはもう乗らない、誰にも笑わないと言い放った後に出てくるゼルエルに対しては
「最強の拒絶」という表現が用いられるなど。
「命の選択」と「命の洗濯」をかけているように、使徒の特性と人間模様が
オーバーラップするように創られていたんだなぁ……と。
あー当時は、読み解けなかったけれど、演出の意図を感じ、汲めるようになったんだなぁ、私……とか思ったりしましたしw
これもニーチェ的表現でいえば「メタファー(暗喩)」の積み重ねで作品が構築されている。
こういう
「シンジの心理状態こそが、その特性を持つ使徒を生み出し、第3新東京市へ召喚しているのでは!?」
と思ってしまうような演出、エヴァで考察好きにさせられた人間としては本当に深読みが捗るのでやめてほしいですw(楽しい)

アニメとしての、前述のような「構図、カメラワーク、爽快感、重量感」とかも確実に
TVシリーズ時代からの正統進化を遂げていて、
「特撮好きが敢えて特撮じゃなくてアニメで特撮のような表現をする」
っていうのが前面に出ていてすごいです。
なぜなら、本来特撮番組であった「電光超人グリッドマン」がアニメになって「SSSS.GRIDMAN」になったとき
「特撮好きが作ったアニメであるエヴァの爽快感、重量感などの表現」
が、元特撮番組だったものがアニメ化されるにあたって逆輸入されたように感じられたのを思い出して……。
「特撮という文化が存在し、庵野監督が特撮が好きだからエヴァの“エヴァらしさ”が生まれ、
それが特撮であったグリッドマンのアニメ化の時にオマージュとして跳ね返ってくる」
っていう。
グリッドマンとエヴァ両方知っていると、SSSS.GRIDMANってそういう点でも胸アツアニメだったんですよ。
「映像特にアニメ制作者にとってエヴァの影響ってやっぱりすごかったんだなぁ」
とSSSS.GRIDMANの時に思ったんですが、新劇エヴァを見て改めて
「こんなもの見せられちゃ、触発されるよなぁ……」
と感じさせられましたねw
したくても、ながら見ができないんですよ、全てのカットに目が奪われて……。


んじゃ、近々シン〜も見てきます。


<追記>
シン〜見てきました。