マトリックス、公開から20周年だって!!!
私は、マトリックス(1)をレンタルビデオで見て
「これ映画館で見たかった……! なぜ映画館に行かなかったんだろう、もったいないことをした」
と、当時すごく後悔した……。
それで、2〜3作目は映画館で見たし、パンフレットも買った。
その後も1〜3を何回か見返しているけど、1作目を映画館でいつか見たいと思っていた。
例えば新宿とかでは、もう十年以上も前のことにはなるけど、1〜3をぶっ通しで朝まで見るみたいなイベントもあったりした。
そういう情報を掴んでも、上映方式や地域的な理由から参加しなかったので、
今回のMX4D版上映に関してはニュースが出てすぐに、近場で見られるか考えた。
つくばのイオンモールにあるUSシネマにはMX4Dの部屋があるので、そこで上映があれば
ついに1作目を大スクリーンで拝めるのだ、と!
かくして、9月9日の昼過ぎに、私は予約した券であのマトリックスをやっと劇場で見ることができたのである!!
ちなみに、3作目に関してはブログに記事書いてた。
私は、マトリックス(1)をレンタルビデオで見て
「これ映画館で見たかった……! なぜ映画館に行かなかったんだろう、もったいないことをした」
と、当時すごく後悔した……。
それで、2〜3作目は映画館で見たし、パンフレットも買った。
その後も1〜3を何回か見返しているけど、1作目を映画館でいつか見たいと思っていた。
例えば新宿とかでは、もう十年以上も前のことにはなるけど、1〜3をぶっ通しで朝まで見るみたいなイベントもあったりした。
そういう情報を掴んでも、上映方式や地域的な理由から参加しなかったので、
今回のMX4D版上映に関してはニュースが出てすぐに、近場で見られるか考えた。
つくばのイオンモールにあるUSシネマにはMX4Dの部屋があるので、そこで上映があれば
ついに1作目を大スクリーンで拝めるのだ、と!
かくして、9月9日の昼過ぎに、私は予約した券であのマトリックスをやっと劇場で見ることができたのである!!
ちなみに、3作目に関してはブログに記事書いてた。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
率直な感想として、まず
「何度見ても面白い映画だな」
というのがある。
「何度見ても発見がある」
ということにも感動する。
というのは、この映画の主題として
「科学技術の進歩の果てに、人間の制御から逸脱する機械が現れた場合、世界はどうなるか」
というSF的な問いがあり、それはつまり現代において我々と機械の関わりは、
このままで良いのか、目指すべき地点はどこなのかを、常に意識しなければならないということを思い起こさせる。
今、AIやVRの技術が進歩してきているから、この問いは決して古いものではないし、むしろ今考えておかないといけないことだ。
例えば「ロボット三原則」のような規範を人間自身が明確に組み立てた上で、AIをどうしていくか考えなければ
技術が先走ってしまい、こういったSF映画のようなディストピアが実現されてしまう可能性はゼロではない。
SFは常にそういった「今、考えておいた方がいいのではないか」という課題を提示してくれる。
マトリックスで描かれている世界も、「もしかしたらありうる現実の未来」である。
だから私たちは、SFの映画や小説は虚構の世界を描いているということは大前提とした上で尚、
「今の自分たちはどうあるべきか」も考えなくてはいけないと思う。
こういった映画を「何度見ても面白い」を思うのは、まだ時代が完全にはそこに追いついていないからで、
「可能性の話として示唆に富んでいる」という意味の「面白い」である。
逆に、これが「図星すぎて笑えない」になったら手遅れなわけでw
だから私たちの時代はまだマトリックスには追いついていないというか、追いつかなくていいというか
そういう感じである。
また、「見るたびに発見がある」というのは作品自体の深みにも関係していることだが、
受け手側が変わるからというのもある。
つまり同じ作品を何度も見て、何か新しい発見をするというのは鏡を見るような側面もあって、
作品を見た感想や、新たな発見から、「自分が前回の視聴からどのように変化したか」がわかったりもする。
だから同じ作品を5年おきくらいに見直すと、自己分析にもなる。
私が今回のマトリックス鑑賞で改めて気付かされた……というか、やっと腑に落ちた点は、
「なぜ預言者は、ネオに”あなたは今求められている救世主その人ではない”というような意味合いのことを言ったのに
ネオは救世主になったか」
ということ。
そこを、今まであまりよく理解できていなかった気がするが今回でわかった。
なんというか「目が覚めているのにもう一度目が覚めるような感覚」を得た。
いや、2〜3も見た時にふわっと理解はしていたのだけど、言語化できるほどじゃなかったかも。
すんごく噛み砕くと、預言者が
「あなたではない」
と言った時、ネオ自身が
「自分が救世主なんて大それた存在のわけない気がする」
と思っている。
預言者が見抜いているのは、未来ではなくてそのネオの感覚であって、
「救世主になる者は、自分が救世主だと”信じてその道を歩む”者」だから、
自分は違うと思っている人は、その道を歩むに足る資格もまだ持ち合わせていないということだ。
だから預言者は「(今のあなたは)違う」と言った。
その後にモーフィアスが
「道を知ることと、実際に歩むこととは違う」
というけど、これも預言者の発言を補完しているところがあって、
ネオは自分こそは特別な存在だと思って生きてきたわけではないけど、
今これが出来るのは、この場にいる自分しかいないという時に、それを成し遂げることが出来る”魂”の持ち主だから、
実際にそういう重大な決断を積み重ねて、救世主の”道を歩み”出すのだ。
救世主として生まれたとか、周りが救世主だと信じているとかの理由が彼を救世主にしたのではなくて、
実際にその道を歩むことがネオを救世主にした。
それは、本人の意志決定に基づいた行動で、だからこそ意義がある。
救世主というのはただの「肩書」にすぎず、人から・後の世で呼ばれたりする名前にすぎない。
それは「生き方」を指すものではない。
これが、「道を知ることと、実際に歩むこととは違う」ということの意味だと思う。
機械に奴隷、いや、「作物」として栽培される存在となった人間だからこそ、
「自らの意思決定に基づいた行動をする」ということそれ自体の意味の深さが
現実の我々とはかなり異なる。
もし「目覚めぬ人」として生涯を終えるなら、それはそれで「知らぬが仏」、幸せな人生とも言えるのかもしれない。
でもそこに「自らの意思決定」はない。
誰しも、自分で考えて自分で生きている「つもりにさせられている」だけの世界がマトリックス界。
ちょっと話が逸れるが、次期TVアニメでPSYCHO-PASSの第3期が放映されるとのことで、
1〜2期を見直した。ちなみにまだ2周目である。
PSYCHO-PASSも、「SF刑事モノ」であり、「機械と人の境界」や「機械と人の共存」を問うてくる部分がある。
そして「自分で考えて自分で生きる」ということを、私達はありがたみも感じず当然のように享受しているが
実はそれは尊く、案外壊れやすい権利なのだということを伝えている面で、
マトリックスとPSYCHO-PASSにはお互いに通じるテーマが流れていると思う。
おそらくこれは、SF共通のテーマなのだが。
例えば星新一のSFショートショートを読んでいても、「皮肉」で似たようなテーマを投げかけてくる作品がある。
「人間が機械に、監視や使役される存在となる。」
そんなことは、今のところは起こっていない。この先そうそう起こるはずもない、と多くの人は考えている。
けれど、パソコンやスマートフォンのような「外部記録媒体」に何かを記録するとき、
それは使い手の人間の脳の一部を担っているようなもので、例えばこのブログも私の記憶や精神の一部と言える。
また、機械に頼っているからこそ出来ることは多い。
その結果、私達は既に機械にかなり依存して暮らしているし、時に機械の都合に振り回されることもある。
そして機械に振り回されていることに無自覚であったりする。
こういったことが日常となっている以上、SF作品が鳴らす警鐘を一笑に付すことはできない。
全然違う話のようにも思えるが、例えば
「今年のサンマ祭りはサンマが不漁なので冷凍サンマを配布して凌ぐしかない」
というニュースがあった。
「サンマが大漁だったから始まった祭り」というのが由来だと思われるのに、
不漁のときにも無理やり開催する必要はあるのか……?
絶滅の危機まで不安視されているし、
「サンマが獲れたかどうかと関係なくサンマ祭りの季節には祭りをやる」
というのはもはや思考停止なのでは?
こういう「思考停止」は機械使用の上でも既に重症の状態にあるのが現代だと思う。
マトリックスの世界でも、「栽培」されている人間たちは、自分で考えて自分の人生を生きているつもりだが、
生きている時代も場所も、現実のそれとは剥離していて、主体性を持つ権利は与えられていないし、そうなっていると自覚もしていない。
そういった世界だから「自分で考えて決めたこと」の尊さがわかるのだが、
この尊さは普遍のもので、マトリックスの世界に生きていない私達ももっと自覚的に行使するべき権利なのだと思う。
銃の弾丸を海老反りで回避するシーンなど、映像的な部分がよく取り沙汰されたし
パロディにされたり実際あれらのアクションシーンは見どころでもあるとは思うけれど、
私は今回は大スクリーンで、その「見どころアクションシーン」を見たくて映画館に行った反面、
「物語の持つテーマ」の方に改めて惹きつけられる結果となった。
ちなみに、MX4Dだが3Dメガネは不要。
つけてみたけど、意味がなかったw
さすがに元が3D用に作られた物じゃないのだからそれもそうか…と途中で外した。
あと、パンフレットは売ってなかった……。
これもリバイバル上映だから仕方がないが、2・3はパンフとサントラも持っている分、
1が欠けているのは残念だ。
グッズの販売も皆無だった。
何かしら記念に買いたかったな。
確か、上映当時はあの黒いレザーコートだとか、サングラスなんかがあった。
そしてマトリックス、4作目が作られるそうだな。
ここで、劇場で1作目を見ておいて本当に良かった!!
4作目、どういう感じかまだわからないけど、面白いと良いな……
率直な感想として、まず
「何度見ても面白い映画だな」
というのがある。
「何度見ても発見がある」
ということにも感動する。
というのは、この映画の主題として
「科学技術の進歩の果てに、人間の制御から逸脱する機械が現れた場合、世界はどうなるか」
というSF的な問いがあり、それはつまり現代において我々と機械の関わりは、
このままで良いのか、目指すべき地点はどこなのかを、常に意識しなければならないということを思い起こさせる。
今、AIやVRの技術が進歩してきているから、この問いは決して古いものではないし、むしろ今考えておかないといけないことだ。
例えば「ロボット三原則」のような規範を人間自身が明確に組み立てた上で、AIをどうしていくか考えなければ
技術が先走ってしまい、こういったSF映画のようなディストピアが実現されてしまう可能性はゼロではない。
SFは常にそういった「今、考えておいた方がいいのではないか」という課題を提示してくれる。
マトリックスで描かれている世界も、「もしかしたらありうる現実の未来」である。
だから私たちは、SFの映画や小説は虚構の世界を描いているということは大前提とした上で尚、
「今の自分たちはどうあるべきか」も考えなくてはいけないと思う。
こういった映画を「何度見ても面白い」を思うのは、まだ時代が完全にはそこに追いついていないからで、
「可能性の話として示唆に富んでいる」という意味の「面白い」である。
逆に、これが「図星すぎて笑えない」になったら手遅れなわけでw
だから私たちの時代はまだマトリックスには追いついていないというか、追いつかなくていいというか
そういう感じである。
また、「見るたびに発見がある」というのは作品自体の深みにも関係していることだが、
受け手側が変わるからというのもある。
つまり同じ作品を何度も見て、何か新しい発見をするというのは鏡を見るような側面もあって、
作品を見た感想や、新たな発見から、「自分が前回の視聴からどのように変化したか」がわかったりもする。
だから同じ作品を5年おきくらいに見直すと、自己分析にもなる。
私が今回のマトリックス鑑賞で改めて気付かされた……というか、やっと腑に落ちた点は、
「なぜ預言者は、ネオに”あなたは今求められている救世主その人ではない”というような意味合いのことを言ったのに
ネオは救世主になったか」
ということ。
そこを、今まであまりよく理解できていなかった気がするが今回でわかった。
なんというか「目が覚めているのにもう一度目が覚めるような感覚」を得た。
いや、2〜3も見た時にふわっと理解はしていたのだけど、言語化できるほどじゃなかったかも。
すんごく噛み砕くと、預言者が
「あなたではない」
と言った時、ネオ自身が
「自分が救世主なんて大それた存在のわけない気がする」
と思っている。
預言者が見抜いているのは、未来ではなくてそのネオの感覚であって、
「救世主になる者は、自分が救世主だと”信じてその道を歩む”者」だから、
自分は違うと思っている人は、その道を歩むに足る資格もまだ持ち合わせていないということだ。
だから預言者は「(今のあなたは)違う」と言った。
その後にモーフィアスが
「道を知ることと、実際に歩むこととは違う」
というけど、これも預言者の発言を補完しているところがあって、
ネオは自分こそは特別な存在だと思って生きてきたわけではないけど、
今これが出来るのは、この場にいる自分しかいないという時に、それを成し遂げることが出来る”魂”の持ち主だから、
実際にそういう重大な決断を積み重ねて、救世主の”道を歩み”出すのだ。
救世主として生まれたとか、周りが救世主だと信じているとかの理由が彼を救世主にしたのではなくて、
実際にその道を歩むことがネオを救世主にした。
それは、本人の意志決定に基づいた行動で、だからこそ意義がある。
救世主というのはただの「肩書」にすぎず、人から・後の世で呼ばれたりする名前にすぎない。
それは「生き方」を指すものではない。
これが、「道を知ることと、実際に歩むこととは違う」ということの意味だと思う。
機械に奴隷、いや、「作物」として栽培される存在となった人間だからこそ、
「自らの意思決定に基づいた行動をする」ということそれ自体の意味の深さが
現実の我々とはかなり異なる。
もし「目覚めぬ人」として生涯を終えるなら、それはそれで「知らぬが仏」、幸せな人生とも言えるのかもしれない。
でもそこに「自らの意思決定」はない。
誰しも、自分で考えて自分で生きている「つもりにさせられている」だけの世界がマトリックス界。
ちょっと話が逸れるが、次期TVアニメでPSYCHO-PASSの第3期が放映されるとのことで、
1〜2期を見直した。ちなみにまだ2周目である。
PSYCHO-PASSも、「SF刑事モノ」であり、「機械と人の境界」や「機械と人の共存」を問うてくる部分がある。
そして「自分で考えて自分で生きる」ということを、私達はありがたみも感じず当然のように享受しているが
実はそれは尊く、案外壊れやすい権利なのだということを伝えている面で、
マトリックスとPSYCHO-PASSにはお互いに通じるテーマが流れていると思う。
おそらくこれは、SF共通のテーマなのだが。
例えば星新一のSFショートショートを読んでいても、「皮肉」で似たようなテーマを投げかけてくる作品がある。
「人間が機械に、監視や使役される存在となる。」
そんなことは、今のところは起こっていない。この先そうそう起こるはずもない、と多くの人は考えている。
けれど、パソコンやスマートフォンのような「外部記録媒体」に何かを記録するとき、
それは使い手の人間の脳の一部を担っているようなもので、例えばこのブログも私の記憶や精神の一部と言える。
また、機械に頼っているからこそ出来ることは多い。
その結果、私達は既に機械にかなり依存して暮らしているし、時に機械の都合に振り回されることもある。
そして機械に振り回されていることに無自覚であったりする。
こういったことが日常となっている以上、SF作品が鳴らす警鐘を一笑に付すことはできない。
全然違う話のようにも思えるが、例えば
「今年のサンマ祭りはサンマが不漁なので冷凍サンマを配布して凌ぐしかない」
というニュースがあった。
「サンマが大漁だったから始まった祭り」というのが由来だと思われるのに、
不漁のときにも無理やり開催する必要はあるのか……?
絶滅の危機まで不安視されているし、
「サンマが獲れたかどうかと関係なくサンマ祭りの季節には祭りをやる」
というのはもはや思考停止なのでは?
こういう「思考停止」は機械使用の上でも既に重症の状態にあるのが現代だと思う。
マトリックスの世界でも、「栽培」されている人間たちは、自分で考えて自分の人生を生きているつもりだが、
生きている時代も場所も、現実のそれとは剥離していて、主体性を持つ権利は与えられていないし、そうなっていると自覚もしていない。
そういった世界だから「自分で考えて決めたこと」の尊さがわかるのだが、
この尊さは普遍のもので、マトリックスの世界に生きていない私達ももっと自覚的に行使するべき権利なのだと思う。
銃の弾丸を海老反りで回避するシーンなど、映像的な部分がよく取り沙汰されたし
パロディにされたり実際あれらのアクションシーンは見どころでもあるとは思うけれど、
私は今回は大スクリーンで、その「見どころアクションシーン」を見たくて映画館に行った反面、
「物語の持つテーマ」の方に改めて惹きつけられる結果となった。
ちなみに、MX4Dだが3Dメガネは不要。
つけてみたけど、意味がなかったw
さすがに元が3D用に作られた物じゃないのだからそれもそうか…と途中で外した。
あと、パンフレットは売ってなかった……。
これもリバイバル上映だから仕方がないが、2・3はパンフとサントラも持っている分、
1が欠けているのは残念だ。
グッズの販売も皆無だった。
何かしら記念に買いたかったな。
確か、上映当時はあの黒いレザーコートだとか、サングラスなんかがあった。
そしてマトリックス、4作目が作られるそうだな。
ここで、劇場で1作目を見ておいて本当に良かった!!
4作目、どういう感じかまだわからないけど、面白いと良いな……
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