AbemaTVで、「叛逆の物語」の初配信と、それに伴っての「劇場版前後編」の配信があったので両方見た。
ちなみに、今からでも(期限内なら何度でも)見られるので、未見の方はこの機会に!
「魔法少女まどか☆マギカ」劇場版 前後編一挙配信 (視聴期限:2017年5月17日(水)20:46)
独占・日本初!劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語(視聴期限:2017年5月18日(木)21:02)
ちなみに、生放送はのべ100万人が来場したらしい。
多分AbemaTVにおける1番組としての最高視聴者数の記録を樹立したのではないだろうか。
まさかそんなに見ていたとは知らなかった。
ちなみに、今からでも(期限内なら何度でも)見られるので、未見の方はこの機会に!
「魔法少女まどか☆マギカ」劇場版 前後編一挙配信 (視聴期限:2017年5月17日(水)20:46)
独占・日本初!劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語(視聴期限:2017年5月18日(木)21:02)
ちなみに、生放送はのべ100万人が来場したらしい。
多分AbemaTVにおける1番組としての最高視聴者数の記録を樹立したのではないだろうか。
まさかそんなに見ていたとは知らなかった。
(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)
■はじめに
そもそも、テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」について、私は何度も見ているのに一度も記事にしたことがなかったので、
今回劇場版をAbemaで見るまでの流れについてざっと書いておくと、確か初めて見たのは2011年の春〜夏にかけてで、
放送中話題になっていたので、ずっと気になってはいたが途中から見るわけにもいかないので、
放送終了後にイッキ見したのだった。(一気に2周見た)
そのあとは、ニコニコで一挙放送があるたびに毎回のように見てるので、計6回はフルで見た。
人にも薦めたりした。
このことから既にわかるように、私は「まどマギ」が好きだ。
けれど、劇場版はまだ一度も見たことがなかった。
再編前後編は、ニコニコのまどマギチャンネル(加入済)で、「400円(税抜き)で7日間視聴可」という
いわゆる「レンタル形式」で配信されているので、課金すれば見られるが、見たことがなかった。
どうせ見るなら、「叛逆の物語」と合わせて、通して見たいと思っていた。
でも、「叛逆〜」はニコニコチャンネルを含むネット上のどこにも配信されていないのであった。
今回AbemaTVが、サイト1周年記念企画の一環で「叛逆の物語」をウェブ初配信。
それに合わせて、「叛逆〜」放送の前日夜と、当日夕方に「前後編」の配信も行う(すべて無料)というので、
まさに私のニーズにぴったり!
(無料って言っても、私は既にAbemaは有料会員なんだけどもね)
この機会に見ない手はない! ということで、番組発表からこの日までずっと楽しみに待っていた。
前後編は「再編」、つまりテレビ版のお話を劇場用に再編成したもので、
新たなシーンやセリフの追加が若干あるものの、ストーリーの流れ自体はテレビ版と同じだ。
あんまりそういう人はこの記事を読んでいないと思うけれど、まだ見ていない人のために
テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」のあらすじを書いておくと、
主人公はごく平凡な中学生「鹿目(かなめ)まどか」。
平凡すぎる自分にコンプレックスを抱いているくらい平凡。
ある日の学校帰りに、異世界のようなところに迷い込んでしまい、それが「魔女の結界」だと知る。
転校生の「暁美ほむら」や、1学年先輩の「巴マミ」に、魔法少女や魔女のことを教わり、
魔法少女にその魔法の力を授ける「キュウべぇ」に勧誘されて自分も魔法少女になるべきか考え始めるのだが――。
お話の導入はこんな感じで、徐々に明かされていく魔法少女が力を得るために支払う対価や、
キュウべぇの本当の目的を知る中で、まどかは苦しみながら、自分なりの決断を下すために色々考える。
他の魔法少女として出て来る女の子たちもみんな、理想と現実の間で揺れながら魔法少女になって
ぼろぼろになるまで戦う。
その姿に、視聴者は共感したり同情したり涙したりするのである……!!
その、「まどかが魔法少女という存在を知って、そして自分なりの決断を下すまでのお話」が、
テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」、そして劇場版再編前後編。
あ、ところで、まどマギを見たことがなくて、今ここであらすじを読んで「そういう話なんだー」と思った方は、
ここで一旦記事を読むのをやめて、冒頭のリンクから劇場版全部見てきたほうが良いですよ。
ここからは、ネタバレもします。
■まどマギの魅力
それで、ネタバレも含みつつで、私が感じたまどマギの面白さとか魅力についても書いておくと
蒼樹うめさんの可愛らしいキャラクターデザインと、虚淵玄氏のダークな物語が醸し出すギャップが魅力のひとつでもあって。
キュウべぇや「お菓子の魔女」など、可愛らしいマスコットっぽいキャラに限って、
黒かったり、残酷なシーンで残酷なことをやらかしたりするというのが、
視聴者にそのキャラや出来事を強く印象づける感じの演出になっているのだなと思った。
カードキャプターさくらとか、リリカルなのはとか、主人公の魔法少女の近くに「喋る動物」みたいなマスコットがいて
そのマスコットが主人公を魔法少女に勧誘したり、魔法について教えたりするっていうのはよくあるんだけど、
まどマギではキュウべぇがそれに相当する。
でも、キュウべぇこそがある意味「黒幕」で、そいつが人類に干渉してこなかったらそもそも魔女は存在しなかったから、
「魔女を倒すための」魔法少女も要らなかったっていう設定
これは今までの「マスコット」を知ってる人にはどんでん返しで、
「魔法少女モノに出てくるマスコットと言ったら、パートナーでサポーターで癒やしだろー!!騙されたー!!」
みたいなw
魔法少女たちも作中でまんまと「騙されて」いるんだけど、視聴者も別のベクトルで騙され、裏切られるw
今まで、「様式美」みたいにされていた舞台装置を全く違う使い方で提示されてるからね。
そんな、「視覚的な可愛さ」と、「物語的にもメタ的にも残酷」な側面のギャップは、
あとに続くアニメ作品にも影響を与えた部分があるのではないかと思う。
あとに続くアニメ作品たくさん見ていないから知らないけど、そのくらい皆の印象に残ったと思うから。
それにバックに流れている梶浦さんの劇伴もすごく印象的でドラマティックだ…!
曲を聴けば、場面が脳裏に蘇ってくる。
そして登場人物たち、つまり魔法少女たちはみんな、その子たちなりの夢や理想を持っていて、
でもそれをキュウべぇ(悪魔)に利用されて、文字通り魂を売り渡してしまう。
そこから起こる数々の悲劇がまた壮絶で、キャラクターに共感していればしているほど、当然ながらショックも大きい。
キュウべぇからしてみれば、これらの悲劇は起こるべくして起こっているし、
それによって得られるエネルギーは、悲劇が悲惨であるほど大きい場合も多いし、
悲劇の前にはその夢や理想を叶えるための「希望」を見せているのだから「Win-Win」という風に考えていて、
それがまた魔法少女たちにとっては悲劇でしかなく、私達視聴者はキュウべぇへのヘイトを溜めていくのであったww
ヤツは自分へのヘイトもエネルギーに置換する方法を模索したほうがいい。
■叛逆の物語では、何が何に叛逆するのか
そんなわけで「叛逆の物語」は、まどかが自分が持つ強大な魔力(因果律に比例)を用いて、
宇宙の仕組み自体を作り変え、すべての魔法少女を救済する概念になった後の物語を描いている。
まどかがいなくなった後の世界では、魔女と戦う代わりに、魔獣と戦う使命を持った魔法少女。
ほむらだけがまどかの存在を覚えていて、いつかまたどこかでまどかに会える日を夢見ながら魔獣と戦い続けている。
そして、「特に意味はないCパート」とも言われた、砂漠を歩く黒い翼のほむら。
あの後を描いているのが「叛逆〜」である。
まず、物語の始まりの時点ですでに、現実世界のほむらは魔女化している。
経緯は語られないのでわからないが、なんらかの理由でソウルジェムの浄化が追いつかなくなり、
魔女化が進行すると見るや、キュウべぇはほむらとそのソウルジェムを「干渉遮断装置」の中に監禁した。
それは、「円環の理」を観測するためだ。
「観測できれば干渉もできる」ので、円環の理を乗っ取るか打ち消すかして、
かつてのような希望から絶望への相転移によるエネルギー回収法を復活させようとしている。
ソウルジェムが干渉遮断装置の中にあるため、現実世界に魔女の結界が作られることはなく、
ほむらはほむらの中に見滝原市をコピーした結界を作り、何人かの人物やキュウべぇ、まどかたちを取り込んだ。
そして、そこで暮らす「ほむらの中のほむら」は、その世界の異変に気づき、最終的には、
自己が魔女化している事実にたどり着いてしまうのだ。
本来ここで「円環の理」により魔法少女の魂は救済されるはずだが、ほむらにとって
まどかとの再会(=魔女化)は絶望の末路どころか夢であり希望、
そしてその瞬間まどかが危険に晒されるというのなら、
救済自体を拒んで魔女となりソウルジェムの中で魔法少女たちに討たれて死ぬ、という道を選択する。
しかし、魔法少女たちと円環の理のシステムの一部であるさやか、なぎさたちの連携で、干渉遮断装置の破壊に成功。
ここで、まどかにとってもほむらにとっても安全な状態でのほむらの魂救済が可能になったにも関わらず、
ほむらが一転して「円環の理」の中にある「人間だったまどかとしての記録」を切り取って収奪する。
そして、今度はほむらによって、世界の再構築がされるのだった。
私は「叛逆〜」を見るならば、自分なりの「何が何に叛逆するのか」を見つけようと決めていた。
「叛逆の物語」という副題には、主語と目的語がないからだ。
それを自分なりに解釈するということくらいはテーマにしよう、と思ってから見た。
事前には「感想が賛否両論」ということだけは聞いていた。
で、結論から言うとこの記事のタイトルに書いたように、これは「愛が愛に」叛逆する物語だと解釈した。
でも、こう書くと何がなんだかわからないから、噛み砕くと、
「愛(Ἔρως:エロース)が愛(αγάπη:アガペー)に叛逆する」のである。
もちろんこの場合、アガペーはまどか、エロースはほむらである。
まどかの下した決断は、すべての魔法少女と、
そして彼女が暮らした世界に対する「無償の愛、博愛(アガペー)」から来るものであった。
だから彼女は、たとえでもなんでもなく「女神」となった。
一方、「叛逆の物語」は「魔法少女そして魔女になったほむら」がどんな決断を下すかの物語。
ほむらは、テレビ版のときから実質主人公であった。
しかしテレビ版においては、「なぜ魔法少女になる決断をしたか」が描かれている。
つまり「まどかを守る私になりたい」という夢や理想。
魔法少女になってからも、「いかにまどかを守るか」を行動原理、判断基準としていた。
そのためにならば他者を利用したり、排除したりも厭わなかった。
その行動原則は、「エロース(個対個の愛)」から来ている。
そして今作は、「私が思う、まどかの幸せ」を追求することに対して、ほむらが躊躇いを捨て去る物語である。
テレビ版では、「まどかがそうしたいのならば私はそれを受け入れよう」だったけれど、
今回は、「まどかも本当は嫌だったって言ってるし全力でやめさせよう」に変化。
けれど、まどかの「ほむらちゃんでも泣いちゃうのに私が我慢できるわけない」発言を、
あくまでほむらが自分に都合よく「本当は嫌だった」と解釈したにすぎない。
このあたりが実に「エロース」的。
アガペーとエロースは、ある意味で対の概念であるし、背中合わせ。
まどかのほむらへの愛は、無償であるがほむらにだけ特別向けられるものではない。
一方ほむらの愛は、まどかにだけ特別向けられるものであり、このふたつはお互い愛であるのに噛み合うことはない。
だからかつて、何度ほむらが訴えても、そのたびにまどかは
「皆のところへ行かなきゃ」「さやかちゃんを探さなきゃ」と去ってしまうのだった。
でもそれがお互いの本質だ。
ほむらの愛は常にまどかに向かっていて、まどかの愛は常に万人他者に向けられていて、
ほむらにとってまどかは「たったひとりの友達」なのに、まどかにとってのほむらは
「(沢山いる中の)最高の友達」なのだ。
だからほむらはアガペーに「叛逆」し、まどかを「堕天」させた。
本人が「悪魔」と自称したが、確かにタロットカードにおける「悪魔」のカードは「エロース」のカードである。
しかしこれは、アガペーとエロースのどちらが「高尚」かというお話ではない。
今回は、エロース側がアガペーに叛逆して勝ってしまったが。
この映画を見てもやもやした人の心理として、最もシンプルなものは
「もっとこう、何か皆でハッピーになる方法あるやろ!」
とかだと思う。これは
「相手は”沙耶の唄”の人だぞ、諦めろ」
という話になる。
で、それ以外に、エロースがアガペーに勝ってしまったことについて、
無自覚にもやもやした人もいるかもしれない。
どういうことかというと、心のどこかでアガペーという愛(博愛)は
エロースというエゴに叛逆されたとて負けるわけはないという、
一種の信仰や思い込みのようなものがあって、「博愛」は「エゴの愛」より尊いと思っている場合。
キリスト教者に限らず、なんとなく「博愛>>>超えられない壁>>>エゴの愛」という観念を持っている人は
少なからずいると思うし、無自覚な場合も少なくないと思う。だから、自分で言語化はできていない。
そういう人にとっては、作品から
「だからって君自身は、どうせアガペーを体現することはできないんでしょ? ヒトである以上。
どんなに博愛が高尚だと言ったって、君自身がそうするわけじゃない。
君は最終的にエゴの愛に生きて死ぬ。ほむらと同属じゃないか」
と嘲笑われているようでもやもやするのではないだろうか。
でも、この部分自覚がないからただもやもやするだけで言語化できない、とかがありそうだと思った。
テレビ版を見た視聴者は、魔法少女たちの健気さに感動したし、まどかとほむらが、
対象は違っても献身的に、利他的に魔法を使う姿にも心を動かされたのだと思う。
でも、実際まどかの愛とほむらの愛は相容れなくて、いざぶつかりあった場合は、ほむらの愛が勝ってしまうというのが今作。
それは、すなわち「神の無償の愛」でなく「ヒトのエゴの愛」への賛美でもあるのに、なぜか賛美されたヒトのほうが、
違和感を感じるパターンがあるというのが、この作品の妙味だと思う。
この作品から、エロースとアガペーを哲学する論文を書けるくらいには。
■叛逆の物語の結末は
ほむらの能力は、「時間を操る」能力であり、時間とは世界を形成する重要な要素なので、
ひとたび使っただけでも「世界を改変している」とも捉えられる。
世界を(本来止まることはおかしいのに)止めたり、巻き戻したりというのは、改変とあまり変わらない。
だが、魔法少女の時点では、それをまどかを救うためにやむなく使っているのであり、
世界の仕組み自体を変えるためではなかった。
けれど、能力に元来そういう素質があるため、自らキュウべぇへの呪いを溜め込みエネルギーに変え、
今回は「高次元のまどか」さえも含むこの世界の仕組みを変えるために使うことにしたし、
それが現に成功したというのもあるだろう。
まどかという一個人の因果律を大幅に変えるという、本来はありえないことを過去に成し遂げているし。
それが「ほむらが思う、まどかの幸せ」のために必要なことだったから、今回は世界を作り変えた。
さっき、「ヤツは自分へのヘイトもエネルギーに置換する方法を模索したほうがいい。」と書いたが、
ほむらはある意味で、まさにそれをやったのだとも言える。
映画のラスト、キュウべぇがボロボロになっているカットがあるが、ほむらはキュウべぇに感情を与え、
それをエネルギーに置換する仕組みすら作ったのかもしれない。
キュウべぇがボロボロになるようなことをする、そのときのキュウべぇの感情からエネルギーを抽出できます、
というのをあのワンカットで示唆したのかもしれない。
それこそがほむらの言う「協力してもらう」の実質的な内容かもしれない。虚淵さんならありうる。
そうすることで、これまでのキュウべぇから魔法少女への「裏切り」の代償を払わせることを兼ねながら
エネルギーの回収が可能だ。
宇宙を存続させるにはエントロピーを凌駕するエネルギーが必要であることは、おそらく変わりない。
そこで、魔法少女の「希望から絶望への相転移」からエネルギーを取り出すことをやめる
「まどか世界」のルールを一部引き継ぎ、キュウべぇに感情を与えて
「死なない程度に殺し続ける」ことにしたのかな、と思った。
それは、女神であるまどかにはできなくても、悪魔であるほむらにならできることだから。
まどかが再構築した世界で、キュウべぇという存在は残り、その本質は何も変わらなかった。
そのことは、今回の「ほむら監禁事件」でも明らかだ。
世界の歪みは魔獣となって現れるので、魔法少女も必要なままだった。
ほむらの再構築した世界は、映画のラストで少ししか描かれないので、詳しいことはわからないけれど、
少なくとも「円環の理」はシステムの一部が人の姿のまどかとなって堕天したために機能不全を起こしていると思われる。
「円環の理」の一部であったさやかちゃんもなぎさも、自分がそうであったという記憶を失い、この世界に順応し始める。
魔女化せずに死んだマミさんと杏子は、指輪をつけているから引き続き魔法少女で、
ほむらが「すべての魔獣が滅んだ後は」とも言っているので、
多分「まどか世界」の魔獣と戦うシステムは引き継いでいると推測できる。
少なくとも、世界の歪み=魔獣はあるし、それはエントロピーの問題を解消できていないからで、
しかも「円環の理」は一部システム障害発生。
それをキュウべぇの「協力」で緩和しようというのが「ほむら世界」なのかな、と。
なんにせよ、ほむらは、名前の通りルシファーとなった。「暁に浮かぶ美しい焔」!!
まどマギのキャラクター名は、姓も名も、女性のファーストネームでよく使われる「音」を使っている。
ミキ・サヤカも、トモエ・マミも、サクラ・キョウコも、
苗字と名前それぞれが女性のファーストネームに使われておかしくない。
けれど、「ホムラ」は珍しいな、と思っていた。苗字の方のアケミはともかくとして。
「叛逆〜」は、最初に書いた「ほむらが円環の理に無事導かれてハッピーエンド」シナリオがボツになって
書き換えたものらしいから、当初名前をつけた時点で狙ってたというより、結果的に偶然こうなったのかもしれないけど、
暁美ほむらだけは、他のキャラのように「女性的」というより
ものすごくルシファー的名前だったし、現にルシファーとなってしまったわけだなーw
■個人的に印象に残ったところ
作中の演出までも見ていくと、魔女ほむらの世界にいる使い魔のようなものたち(偽街の子どもたち)が、
「神は死んだ!」と叫んでいるのが気になる。
「円環の理」は、まどか(円)という名前から来ているのであろうが、ほむら世界における「円環の理」は、
「永劫回帰」的な円環のことを言っているのかもしれない。
今回は、「もう躊躇わない」という強い意志表示もしていたし。
(後から思ったけど、「円環の理」には、
そもそも魔法少女が魔女になってその魔女を新たな魔法少女が倒すという“ループ(円環)”を断つ、
「円環の断り」という意味もあったのかもしれない)
「永劫回帰」は「意志」の問題と密接だ。
もちろん、「まどかが危険に晒されるくらいなら、魂の救済など拒絶する」という意味で
「神は死んだ!」と言っている可能性もあるな。
映像の中に、「くるみ割り人形」をモチーフとした多くの小ネタみたいなものが仕込まれているようだけど、
それを含めても、画面から出てくる情報量はとても多すぎて、一回見ただけでは目が追いつかない。
目が追いつかないから、演出の意図をまだ全ては把握しきれてないけれど、
仮に画面内にあるあれこれを全部視認したとしても、解釈の幅が広そうだから、何回見ても楽しめそうだ。
テレビ版のときはさやかちゃんが魔女化したところでは泣かなかったのだけど、
今回の映画では、さやかちゃんが自分の魔女を能力として従えているシーンでぶわー!!っと涙が出てきて
「さやかちゃん……ッ!!!!(´;ω;`)」
ってなりながら見た。
円環の理に導かれて魂を救済されると、魔女化した自分を「切り離して」克服できるということだ。
それは、自分の中にある恨みとか妬みとかを、切り離して客観視し、
自分の魂そのものが堕落することを免れたということだから、確かに円環の理は素晴らしいと思ったし、
さやかちゃんの成長と活躍に瞬時に感動した!!
そのときは、ただ涙が出て
「さやかちゃん……ッ!!!!なんだかわからないけど、さやかちゃん……ッ!!!!(´;ω;`)」
ってなってたけど、言語化するならば今書いたようなことに私は感動したのだと思った。
(これが、自分の感動を客観視して言語化する、円蟹の理である)
「続編が出せない」という理由で、ハッピーエンドシナリオはボツられたらしいから、
そうまで言うからには続編の発表に期待しておこう、と思った。
とりあえず「叛逆の物語」で検索すると考察とか解釈とか色々出てきて、読み応えがある。
きっと続編が出るまで、みんな(私も)何度も見てあーでもないこーでもないって考えて楽しむんだろうな。
■はじめに
そもそも、テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」について、私は何度も見ているのに一度も記事にしたことがなかったので、
今回劇場版をAbemaで見るまでの流れについてざっと書いておくと、確か初めて見たのは2011年の春〜夏にかけてで、
放送中話題になっていたので、ずっと気になってはいたが途中から見るわけにもいかないので、
放送終了後にイッキ見したのだった。(一気に2周見た)
そのあとは、ニコニコで一挙放送があるたびに毎回のように見てるので、計6回はフルで見た。
人にも薦めたりした。
このことから既にわかるように、私は「まどマギ」が好きだ。
けれど、劇場版はまだ一度も見たことがなかった。
再編前後編は、ニコニコのまどマギチャンネル(加入済)で、「400円(税抜き)で7日間視聴可」という
いわゆる「レンタル形式」で配信されているので、課金すれば見られるが、見たことがなかった。
どうせ見るなら、「叛逆の物語」と合わせて、通して見たいと思っていた。
でも、「叛逆〜」はニコニコチャンネルを含むネット上のどこにも配信されていないのであった。
今回AbemaTVが、サイト1周年記念企画の一環で「叛逆の物語」をウェブ初配信。
それに合わせて、「叛逆〜」放送の前日夜と、当日夕方に「前後編」の配信も行う(すべて無料)というので、
まさに私のニーズにぴったり!
(無料って言っても、私は既にAbemaは有料会員なんだけどもね)
この機会に見ない手はない! ということで、番組発表からこの日までずっと楽しみに待っていた。
前後編は「再編」、つまりテレビ版のお話を劇場用に再編成したもので、
新たなシーンやセリフの追加が若干あるものの、ストーリーの流れ自体はテレビ版と同じだ。
あんまりそういう人はこの記事を読んでいないと思うけれど、まだ見ていない人のために
テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」のあらすじを書いておくと、
主人公はごく平凡な中学生「鹿目(かなめ)まどか」。
平凡すぎる自分にコンプレックスを抱いているくらい平凡。
ある日の学校帰りに、異世界のようなところに迷い込んでしまい、それが「魔女の結界」だと知る。
転校生の「暁美ほむら」や、1学年先輩の「巴マミ」に、魔法少女や魔女のことを教わり、
魔法少女にその魔法の力を授ける「キュウべぇ」に勧誘されて自分も魔法少女になるべきか考え始めるのだが――。
お話の導入はこんな感じで、徐々に明かされていく魔法少女が力を得るために支払う対価や、
キュウべぇの本当の目的を知る中で、まどかは苦しみながら、自分なりの決断を下すために色々考える。
他の魔法少女として出て来る女の子たちもみんな、理想と現実の間で揺れながら魔法少女になって
ぼろぼろになるまで戦う。
その姿に、視聴者は共感したり同情したり涙したりするのである……!!
その、「まどかが魔法少女という存在を知って、そして自分なりの決断を下すまでのお話」が、
テレビ版「魔法少女まどか☆マギカ」、そして劇場版再編前後編。
あ、ところで、まどマギを見たことがなくて、今ここであらすじを読んで「そういう話なんだー」と思った方は、
ここで一旦記事を読むのをやめて、冒頭のリンクから劇場版全部見てきたほうが良いですよ。
ここからは、ネタバレもします。
■まどマギの魅力
それで、ネタバレも含みつつで、私が感じたまどマギの面白さとか魅力についても書いておくと
蒼樹うめさんの可愛らしいキャラクターデザインと、虚淵玄氏のダークな物語が醸し出すギャップが魅力のひとつでもあって。
キュウべぇや「お菓子の魔女」など、可愛らしいマスコットっぽいキャラに限って、
黒かったり、残酷なシーンで残酷なことをやらかしたりするというのが、
視聴者にそのキャラや出来事を強く印象づける感じの演出になっているのだなと思った。
カードキャプターさくらとか、リリカルなのはとか、主人公の魔法少女の近くに「喋る動物」みたいなマスコットがいて
そのマスコットが主人公を魔法少女に勧誘したり、魔法について教えたりするっていうのはよくあるんだけど、
まどマギではキュウべぇがそれに相当する。
でも、キュウべぇこそがある意味「黒幕」で、そいつが人類に干渉してこなかったらそもそも魔女は存在しなかったから、
「魔女を倒すための」魔法少女も要らなかったっていう設定
これは今までの「マスコット」を知ってる人にはどんでん返しで、
「魔法少女モノに出てくるマスコットと言ったら、パートナーでサポーターで癒やしだろー!!騙されたー!!」
みたいなw
魔法少女たちも作中でまんまと「騙されて」いるんだけど、視聴者も別のベクトルで騙され、裏切られるw
今まで、「様式美」みたいにされていた舞台装置を全く違う使い方で提示されてるからね。
そんな、「視覚的な可愛さ」と、「物語的にもメタ的にも残酷」な側面のギャップは、
あとに続くアニメ作品にも影響を与えた部分があるのではないかと思う。
あとに続くアニメ作品たくさん見ていないから知らないけど、そのくらい皆の印象に残ったと思うから。
それにバックに流れている梶浦さんの劇伴もすごく印象的でドラマティックだ…!
曲を聴けば、場面が脳裏に蘇ってくる。
そして登場人物たち、つまり魔法少女たちはみんな、その子たちなりの夢や理想を持っていて、
でもそれをキュウべぇ(悪魔)に利用されて、文字通り魂を売り渡してしまう。
そこから起こる数々の悲劇がまた壮絶で、キャラクターに共感していればしているほど、当然ながらショックも大きい。
キュウべぇからしてみれば、これらの悲劇は起こるべくして起こっているし、
それによって得られるエネルギーは、悲劇が悲惨であるほど大きい場合も多いし、
悲劇の前にはその夢や理想を叶えるための「希望」を見せているのだから「Win-Win」という風に考えていて、
それがまた魔法少女たちにとっては悲劇でしかなく、私達視聴者はキュウべぇへのヘイトを溜めていくのであったww
ヤツは自分へのヘイトもエネルギーに置換する方法を模索したほうがいい。
■叛逆の物語では、何が何に叛逆するのか
そんなわけで「叛逆の物語」は、まどかが自分が持つ強大な魔力(因果律に比例)を用いて、
宇宙の仕組み自体を作り変え、すべての魔法少女を救済する概念になった後の物語を描いている。
まどかがいなくなった後の世界では、魔女と戦う代わりに、魔獣と戦う使命を持った魔法少女。
ほむらだけがまどかの存在を覚えていて、いつかまたどこかでまどかに会える日を夢見ながら魔獣と戦い続けている。
そして、「特に意味はないCパート」とも言われた、砂漠を歩く黒い翼のほむら。
あの後を描いているのが「叛逆〜」である。
まず、物語の始まりの時点ですでに、現実世界のほむらは魔女化している。
経緯は語られないのでわからないが、なんらかの理由でソウルジェムの浄化が追いつかなくなり、
魔女化が進行すると見るや、キュウべぇはほむらとそのソウルジェムを「干渉遮断装置」の中に監禁した。
それは、「円環の理」を観測するためだ。
「観測できれば干渉もできる」ので、円環の理を乗っ取るか打ち消すかして、
かつてのような希望から絶望への相転移によるエネルギー回収法を復活させようとしている。
ソウルジェムが干渉遮断装置の中にあるため、現実世界に魔女の結界が作られることはなく、
ほむらはほむらの中に見滝原市をコピーした結界を作り、何人かの人物やキュウべぇ、まどかたちを取り込んだ。
そして、そこで暮らす「ほむらの中のほむら」は、その世界の異変に気づき、最終的には、
自己が魔女化している事実にたどり着いてしまうのだ。
本来ここで「円環の理」により魔法少女の魂は救済されるはずだが、ほむらにとって
まどかとの再会(=魔女化)は絶望の末路どころか夢であり希望、
そしてその瞬間まどかが危険に晒されるというのなら、
救済自体を拒んで魔女となりソウルジェムの中で魔法少女たちに討たれて死ぬ、という道を選択する。
しかし、魔法少女たちと円環の理のシステムの一部であるさやか、なぎさたちの連携で、干渉遮断装置の破壊に成功。
ここで、まどかにとってもほむらにとっても安全な状態でのほむらの魂救済が可能になったにも関わらず、
ほむらが一転して「円環の理」の中にある「人間だったまどかとしての記録」を切り取って収奪する。
そして、今度はほむらによって、世界の再構築がされるのだった。
私は「叛逆〜」を見るならば、自分なりの「何が何に叛逆するのか」を見つけようと決めていた。
「叛逆の物語」という副題には、主語と目的語がないからだ。
それを自分なりに解釈するということくらいはテーマにしよう、と思ってから見た。
事前には「感想が賛否両論」ということだけは聞いていた。
で、結論から言うとこの記事のタイトルに書いたように、これは「愛が愛に」叛逆する物語だと解釈した。
でも、こう書くと何がなんだかわからないから、噛み砕くと、
「愛(Ἔρως:エロース)が愛(αγάπη:アガペー)に叛逆する」のである。
もちろんこの場合、アガペーはまどか、エロースはほむらである。
まどかの下した決断は、すべての魔法少女と、
そして彼女が暮らした世界に対する「無償の愛、博愛(アガペー)」から来るものであった。
だから彼女は、たとえでもなんでもなく「女神」となった。
一方、「叛逆の物語」は「魔法少女そして魔女になったほむら」がどんな決断を下すかの物語。
ほむらは、テレビ版のときから実質主人公であった。
しかしテレビ版においては、「なぜ魔法少女になる決断をしたか」が描かれている。
つまり「まどかを守る私になりたい」という夢や理想。
魔法少女になってからも、「いかにまどかを守るか」を行動原理、判断基準としていた。
そのためにならば他者を利用したり、排除したりも厭わなかった。
その行動原則は、「エロース(個対個の愛)」から来ている。
そして今作は、「私が思う、まどかの幸せ」を追求することに対して、ほむらが躊躇いを捨て去る物語である。
テレビ版では、「まどかがそうしたいのならば私はそれを受け入れよう」だったけれど、
今回は、「まどかも本当は嫌だったって言ってるし全力でやめさせよう」に変化。
けれど、まどかの「ほむらちゃんでも泣いちゃうのに私が我慢できるわけない」発言を、
あくまでほむらが自分に都合よく「本当は嫌だった」と解釈したにすぎない。
このあたりが実に「エロース」的。
アガペーとエロースは、ある意味で対の概念であるし、背中合わせ。
まどかのほむらへの愛は、無償であるがほむらにだけ特別向けられるものではない。
一方ほむらの愛は、まどかにだけ特別向けられるものであり、このふたつはお互い愛であるのに噛み合うことはない。
だからかつて、何度ほむらが訴えても、そのたびにまどかは
「皆のところへ行かなきゃ」「さやかちゃんを探さなきゃ」と去ってしまうのだった。
でもそれがお互いの本質だ。
ほむらの愛は常にまどかに向かっていて、まどかの愛は常に万人他者に向けられていて、
ほむらにとってまどかは「たったひとりの友達」なのに、まどかにとってのほむらは
「(沢山いる中の)最高の友達」なのだ。
だからほむらはアガペーに「叛逆」し、まどかを「堕天」させた。
本人が「悪魔」と自称したが、確かにタロットカードにおける「悪魔」のカードは「エロース」のカードである。
しかしこれは、アガペーとエロースのどちらが「高尚」かというお話ではない。
今回は、エロース側がアガペーに叛逆して勝ってしまったが。
この映画を見てもやもやした人の心理として、最もシンプルなものは
「もっとこう、何か皆でハッピーになる方法あるやろ!」
とかだと思う。これは
「相手は”沙耶の唄”の人だぞ、諦めろ」
という話になる。
で、それ以外に、エロースがアガペーに勝ってしまったことについて、
無自覚にもやもやした人もいるかもしれない。
どういうことかというと、心のどこかでアガペーという愛(博愛)は
エロースというエゴに叛逆されたとて負けるわけはないという、
一種の信仰や思い込みのようなものがあって、「博愛」は「エゴの愛」より尊いと思っている場合。
キリスト教者に限らず、なんとなく「博愛>>>超えられない壁>>>エゴの愛」という観念を持っている人は
少なからずいると思うし、無自覚な場合も少なくないと思う。だから、自分で言語化はできていない。
そういう人にとっては、作品から
「だからって君自身は、どうせアガペーを体現することはできないんでしょ? ヒトである以上。
どんなに博愛が高尚だと言ったって、君自身がそうするわけじゃない。
君は最終的にエゴの愛に生きて死ぬ。ほむらと同属じゃないか」
と嘲笑われているようでもやもやするのではないだろうか。
でも、この部分自覚がないからただもやもやするだけで言語化できない、とかがありそうだと思った。
テレビ版を見た視聴者は、魔法少女たちの健気さに感動したし、まどかとほむらが、
対象は違っても献身的に、利他的に魔法を使う姿にも心を動かされたのだと思う。
でも、実際まどかの愛とほむらの愛は相容れなくて、いざぶつかりあった場合は、ほむらの愛が勝ってしまうというのが今作。
それは、すなわち「神の無償の愛」でなく「ヒトのエゴの愛」への賛美でもあるのに、なぜか賛美されたヒトのほうが、
違和感を感じるパターンがあるというのが、この作品の妙味だと思う。
この作品から、エロースとアガペーを哲学する論文を書けるくらいには。
■叛逆の物語の結末は
ほむらの能力は、「時間を操る」能力であり、時間とは世界を形成する重要な要素なので、
ひとたび使っただけでも「世界を改変している」とも捉えられる。
世界を(本来止まることはおかしいのに)止めたり、巻き戻したりというのは、改変とあまり変わらない。
だが、魔法少女の時点では、それをまどかを救うためにやむなく使っているのであり、
世界の仕組み自体を変えるためではなかった。
けれど、能力に元来そういう素質があるため、自らキュウべぇへの呪いを溜め込みエネルギーに変え、
今回は「高次元のまどか」さえも含むこの世界の仕組みを変えるために使うことにしたし、
それが現に成功したというのもあるだろう。
まどかという一個人の因果律を大幅に変えるという、本来はありえないことを過去に成し遂げているし。
それが「ほむらが思う、まどかの幸せ」のために必要なことだったから、今回は世界を作り変えた。
さっき、「ヤツは自分へのヘイトもエネルギーに置換する方法を模索したほうがいい。」と書いたが、
ほむらはある意味で、まさにそれをやったのだとも言える。
映画のラスト、キュウべぇがボロボロになっているカットがあるが、ほむらはキュウべぇに感情を与え、
それをエネルギーに置換する仕組みすら作ったのかもしれない。
キュウべぇがボロボロになるようなことをする、そのときのキュウべぇの感情からエネルギーを抽出できます、
というのをあのワンカットで示唆したのかもしれない。
それこそがほむらの言う「協力してもらう」の実質的な内容かもしれない。虚淵さんならありうる。
そうすることで、これまでのキュウべぇから魔法少女への「裏切り」の代償を払わせることを兼ねながら
エネルギーの回収が可能だ。
宇宙を存続させるにはエントロピーを凌駕するエネルギーが必要であることは、おそらく変わりない。
そこで、魔法少女の「希望から絶望への相転移」からエネルギーを取り出すことをやめる
「まどか世界」のルールを一部引き継ぎ、キュウべぇに感情を与えて
「死なない程度に殺し続ける」ことにしたのかな、と思った。
それは、女神であるまどかにはできなくても、悪魔であるほむらにならできることだから。
まどかが再構築した世界で、キュウべぇという存在は残り、その本質は何も変わらなかった。
そのことは、今回の「ほむら監禁事件」でも明らかだ。
世界の歪みは魔獣となって現れるので、魔法少女も必要なままだった。
ほむらの再構築した世界は、映画のラストで少ししか描かれないので、詳しいことはわからないけれど、
少なくとも「円環の理」はシステムの一部が人の姿のまどかとなって堕天したために機能不全を起こしていると思われる。
「円環の理」の一部であったさやかちゃんもなぎさも、自分がそうであったという記憶を失い、この世界に順応し始める。
魔女化せずに死んだマミさんと杏子は、指輪をつけているから引き続き魔法少女で、
ほむらが「すべての魔獣が滅んだ後は」とも言っているので、
多分「まどか世界」の魔獣と戦うシステムは引き継いでいると推測できる。
少なくとも、世界の歪み=魔獣はあるし、それはエントロピーの問題を解消できていないからで、
しかも「円環の理」は一部システム障害発生。
それをキュウべぇの「協力」で緩和しようというのが「ほむら世界」なのかな、と。
なんにせよ、ほむらは、名前の通りルシファーとなった。「暁に浮かぶ美しい焔」!!
まどマギのキャラクター名は、姓も名も、女性のファーストネームでよく使われる「音」を使っている。
ミキ・サヤカも、トモエ・マミも、サクラ・キョウコも、
苗字と名前それぞれが女性のファーストネームに使われておかしくない。
けれど、「ホムラ」は珍しいな、と思っていた。苗字の方のアケミはともかくとして。
「叛逆〜」は、最初に書いた「ほむらが円環の理に無事導かれてハッピーエンド」シナリオがボツになって
書き換えたものらしいから、当初名前をつけた時点で狙ってたというより、結果的に偶然こうなったのかもしれないけど、
暁美ほむらだけは、他のキャラのように「女性的」というより
ものすごくルシファー的名前だったし、現にルシファーとなってしまったわけだなーw
■個人的に印象に残ったところ
作中の演出までも見ていくと、魔女ほむらの世界にいる使い魔のようなものたち(偽街の子どもたち)が、
「神は死んだ!」と叫んでいるのが気になる。
「円環の理」は、まどか(円)という名前から来ているのであろうが、ほむら世界における「円環の理」は、
「永劫回帰」的な円環のことを言っているのかもしれない。
今回は、「もう躊躇わない」という強い意志表示もしていたし。
(後から思ったけど、「円環の理」には、
そもそも魔法少女が魔女になってその魔女を新たな魔法少女が倒すという“ループ(円環)”を断つ、
「円環の断り」という意味もあったのかもしれない)
「永劫回帰」は「意志」の問題と密接だ。
もちろん、「まどかが危険に晒されるくらいなら、魂の救済など拒絶する」という意味で
「神は死んだ!」と言っている可能性もあるな。
映像の中に、「くるみ割り人形」をモチーフとした多くの小ネタみたいなものが仕込まれているようだけど、
それを含めても、画面から出てくる情報量はとても多すぎて、一回見ただけでは目が追いつかない。
目が追いつかないから、演出の意図をまだ全ては把握しきれてないけれど、
仮に画面内にあるあれこれを全部視認したとしても、解釈の幅が広そうだから、何回見ても楽しめそうだ。
テレビ版のときはさやかちゃんが魔女化したところでは泣かなかったのだけど、
今回の映画では、さやかちゃんが自分の魔女を能力として従えているシーンでぶわー!!っと涙が出てきて
「さやかちゃん……ッ!!!!(´;ω;`)」
ってなりながら見た。
円環の理に導かれて魂を救済されると、魔女化した自分を「切り離して」克服できるということだ。
それは、自分の中にある恨みとか妬みとかを、切り離して客観視し、
自分の魂そのものが堕落することを免れたということだから、確かに円環の理は素晴らしいと思ったし、
さやかちゃんの成長と活躍に瞬時に感動した!!
そのときは、ただ涙が出て
「さやかちゃん……ッ!!!!なんだかわからないけど、さやかちゃん……ッ!!!!(´;ω;`)」
ってなってたけど、言語化するならば今書いたようなことに私は感動したのだと思った。
(これが、自分の感動を客観視して言語化する、円蟹の理である)
「続編が出せない」という理由で、ハッピーエンドシナリオはボツられたらしいから、
そうまで言うからには続編の発表に期待しておこう、と思った。
とりあえず「叛逆の物語」で検索すると考察とか解釈とか色々出てきて、読み応えがある。
きっと続編が出るまで、みんな(私も)何度も見てあーでもないこーでもないって考えて楽しむんだろうな。
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