ついにクリアです!!


(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


話したいことがいっぱいあるゲームです。

でも……、クリアしないと話せないだろ? だから、クリアしておきたいんだ……。

って感じで、生放送で、全14回に亘って配信してきました。
今日が最終回、クリアです。

FF10の三大すごいところ

■理由が明確

まず、私はこのゲームの、
「この人達じゃなきゃダメだった」
感がたまらなく好きです。

ハリーポッターでもそうなんですけど、主人公やその周りの仲間達、その上の世代の人やそこから続いている因縁、
すべてがからみ合って、
「この人達でなければ、成し遂げられなかった」
というカタルシスを物語の最後に感じられるのがひとつの“感動”だなぁと思います。
「特に深い理由はないけど、なんとなく居合わせた人たち」が、なぜかすごいことやっちゃった、
というのも荒唐無稽で面白いとは思うんですけど、
物語の主人公ってもっと、「色々な偶然という名の運命」に翻弄されたり、それに立ち向かったりしながら成長して、
最後は何かを成し遂げるものなんじゃないかなぁ、という物語に対する理想のようなものがあります。
その人がその物語の主人公に選ばれるに足りうる「理由」が物語の中にちゃんと存在していて、
確かにそれは「たまたま」でもあるのだけれど、ただ偶然によって選ばれただけでなく、
作品の作者によって無味乾燥としたお話の軸になるだけにもとどまらず、自分の意志や力で何かを成し遂げ、
最終的には「この人だからできたんだ」と思えること。
それがカタルシスに思えるのです。

まずスピラには、シンという1000年かけても取り除けない呪いのようなものがずーっと存在し続けていて、
シンについてワッカは、「シンは機械を使って楽した人間への罰だ」と説明します。
しかし、私は、シンというのは
「共通の強大な敵を前にしない限りは団結できず、同種族同士で殺しあう生き物」である人間への戒めや皮肉としての存在、
そして人間の罪(SIN)の象徴なのだろうと思うのです。

地球上でも、国や人種に分かれて人間は殺し合いをしてきましたし、今だって場所によっては紛争が起きています。
こういうものは、もしかしたら、「宇宙戦争」のように、ある日突然、地球外からの超強力な外敵により
人類全体の生存が脅かされない限り終わらないのかな、と考えたりします。
人間だけが、他の動物に比べて、やけに自分以外の個体、そしてそこにある自分との差異について狭量ではないでしょうか?
それは人間が持つ、生物としての本能なのでしょうか?
どうしてもやめられないことなのでしょうか?
殺しあって数を減らさなければ、地球上の生態系が崩れてしまうために、
人間の意思よりももっと高次の意思が働いているのでしょうか?
その答えは私には今わかりませんが、少なくとも人間が人間を殺さずにはいられないなんて、
悲しいことには変わりありません。
どんな理由があっても、それは「罪」なのではないでしょうか。
他の生き物だって、なんらかの理由で争い、殺しあったりすることもあるかもしれません。テリトリー争いとか。
でも、人間は、話し合いで解決したり、これを「罪」だと認識できるところが一番他の動物たちと異なると思うのです。

だからこそ、殺し合いしかできない状況なんて悲しいですよね。
だって、殺し合いは殺し合いを呼ぶんですよ。
なぜ、話し合いができず、罪を犯してしまうのか。

スピラでは、1000年前に戦争があり、その規模はかなり大きく、スピラそのものを破壊してしまう寸前まで行ったといいます。
そこで、当時、ザナルカンドの地方を統治していた、生前の「エボン=ジュ」が、
殺し合いが生む殺し合いを終わらせるため、自らは「エボン=ジュ(呪)」という”魂”のようなものになり、
「強力な重力魔法で大量の幻光虫を鎧として纏」ったもの=シンになりました。
そして同時に、栄華を極めた頃のザナルカンドの姿を、夢でも良いから残すために、
ザナルカンドの全市民を、祈り子にしてザナルカンドの街を召喚するシステムを構築した…んだったかな。

当然、シンの登場によって、人と人との戦争は終わりました。
あれだけの強大な蹂躙者がいれば、小さき者としての人間たちは、力を合わせるしかなくなるからです。
まぁそれでも、派閥に分かれて、いがみ合いや駆け引き、権力闘争などが行われたりはしていますが。
しかし少なくとも、大量殺戮の応酬は行わなくなりましたよね。
そんなことをしなくても、シンが大量殺戮を繰り返すので、みなそれぞれ生き残るのに必死ですから。

エボン=ジュの娘であるユウナレスカは、歴代初めてシンを倒しましたが、
エボン=ジュが永遠に生きる”器”としての、究極召喚の術を残し、2世代に亘る「呪い」を完成させてしまったわけです。
ユウナレスカは、父親を「永遠」にしてしまったのです。
あの「ダニ」のような姿になったエボン=ジュには、もはや人格などはなく、「ユウナレスカの父」と言えるか怪しいものなのに、
(しいていえば生前のエボン=ジュの得意とした能力を使えるだけ)
それでもきっとユウナレスカは、父の“魂”や、名前、そして思想などを後世に遺したかったんでしょうね。
1000年かかってもスピラの人々はこれを解くことができず、そのあたりの真実は知らず「エボンの教え」に沿って生きています。

そこに、なぜか、夢であるザナルカンドの世界からジェクトがスピラにやってきて、ティーダと2世代かけて呪いを解くわけですね。
夢であるザナルカンドの世界も、エボン=ジュが残した呪いのひとつと言ってもいいので、
その呪いの中から、呪いを解く鍵が生まれ出てきたので、私はこれはまるで「パンドラの箱」のようだなと思っています。
エボン=ジュとユウナレスカが作った「永遠の父親」という呪いを、ティーダが「父親殺し」によってようやく解呪するんですよ……。
ティーダにそこまでしなきゃいけない動機や理由は本当はないはずなのに、
(死んじゃえばいいのに、と憎まれ口を叩いていますが、それでも心の底からは思っていなかったはずですよね)
そのときが来てみれば、逆にティーダにしかそれをする理由はなくなってるんですよ。
悲しすぎる……。

ジェクトがスピラにきてブラスカ・アーロンと旅して「ブラスカの究極召喚」となったことで、
ティーダがスピラに来たことは必然ということになります。
むしろ、他のパターンはありえないですよね。
新たなシンがジェクトだからこそ、アーロンはザナルカンドへ行き、10年ものあいだ、ティーダの成長を見守ることができ、
更に、再びスピラへ戻ることができたわけだろうし。
そういうふうにして時間をかけて、じわじわとパズルのピースを集めて、はめていき、
ついにシンを倒す手はずが整った! というのが、このゲームのスタート地点なんですよね。
その視点からは、アーロンが主役になります。
上役から振られた縁談を断ったことでクビになった僧兵が、旅の仲間である無二の親友の息子を10年傍らで見守って、
必ず全てを終わらせようと、心の奥底ではずっと灯火を絶やさずにいたんですよ。
ある意味すごく一途で不器用で、“独り”の男です。
そしてある意味ではティーダの父親でもあります。
それでも、スピラに1000年、シンが居座って人々を苦しめた時間を考えれば、
この“たった”10年の準備で終わらせられるなら短いものと、アーロンは思ったかもしれませんね。死んでるし。
(ユウナレスカも1000年間死人やってるし、むしろそこは死人の後輩だからって負けられないですよね)

そういったわけで、アーロンがザナルカンドに居たのは、動機も「どのようにして行ったか」の方法も十分に思います。

ユウナが、父に倣って自らも召喚士を志すというのもすんなり納得が行きますし、
召喚士が命を(比喩でなく文字通り)”捨て”てシンと戦うからこそ、ガードは命を賭して召喚士を守るわけで、
「召喚士とガード」のパーティはそれだけで、集まって一緒に旅をする理由が明確です。

強いて言えば、「ジェクトがなぜ・どのようにしてスピラに来たか」だけが明確ではないのですが、
そこにも何か「偶然」以外の理由があるのかもしれませんね。
まず前提として、1000年もの間、夢を見続けてきた、ザナルカンド市民(祈り子)たちの「夢を見る力」が
時間の経過で変質した可能性。
それに、その可能性を仮に抜きにしても、元々召喚獣と祈り子の関係が、
「祈り子の夢を幻光虫を使って具現化したものが召喚獣」というような感じなので、
ジェクトとティーダは、ある意味人の姿をした「召喚獣」に近い存在なのだと前から考えています。
召喚士は、召喚獣の祈り子と心(夢の世界)を通い合わせることで、周囲の幻光虫を使って
召喚獣を具現化させている、というシステムです。
ですから、スピラの誰かが、(ともすれば無意識に)ザナルカンドの祈り子たちと心を通じ合わせた結果、
まずジェクトがスピラに「召喚(幻光虫により具現化)」されてしまった。
そして、1000年もの長い時間が、同時にスピラの夢のザナルカンドとの間の境目に綻びを作って、
アーロンやティーダのような、ある一定の条件を持つ人なら、移動が出来るようになったという感じです。

放送でも、「IF」として話しましたが、私は、
その、そうとは知らずにジェクトを召喚してしまった人物こそがブラスカだったら面白いな、と思っています。
もっと言えば、ジェクトとアーロンの思いは、彼らが「召喚士」の肩書を持たないことと無関係に、
ティーダをスピラに呼び出せてもおかしくないと思いますから、ティーダをスピラに「召喚」したのは、
ジェクトとアーロンと考えるのがすんなりいきますね。
映像で物理的に表現すると、ゲーム冒頭のムービーのようになるのだと思いますが、
夢と現実の境界には綻びが出来始めていたタイミングで、ジェクトとアーロンの思いがティーダを容易にスピラへ召喚した
というのが私のイメージです。



■宗教を描いている

また、私は、ここまで宗教の「はじまりとおわり」を描いた作品はなかなかないのでは? と考えています。
ましてや、RPGという媒体で。
確かに「エボンの教え」は、部分的には、生前エボン=ジュが本当に説いたことなのかもしれません。
彼は地域の統率者だったそうなので。
戦争を「本当に」終わらせたかったのは事実のように思います。戦争は「死の螺旋」ですからね。

でも、伝言ゲームや、寺院の既得権益を守るための方便として使われるうちに、
内容が変異した部分も少なくないと思います。

そもそも、宗教が「既得権益」を持っていることもおかしいのですが、
でも実際宗教には、時としてそういう側面があるという現実を、私たちはなんとなく知っていますよね。
それを描いたのは、すごいと思いました。

また、戦争という「死の螺旋」を食い止めるために生み出された蹂躙者がシンだと考えれば、
「機械が悪いからシンが居る」というのは大きな誤解ですし、エボン=ジュが本当に伝えたかった教訓が
もう人々の間に伝わっていないことになります。
さらに、戦争という「死の螺旋」に、シンという別の「死の螺旋」を置換するのは、
解決策としてはいくらなんでも片手落ちで、そこにはユウナレスカのエゴが見え隠れします。
シン(エボン=ジュ)が永遠である必要はまったくなく、「機械に頼った暮らしが悪い」という教えも
改めて然るべきです。でもそれはやらない。

こういうふうにして、時に意図して誤解混じりに「エボンの教え」は宗教化され、
それを都合よく扱える人にはいいように利用され、最後には、空中分解します。
すべてが暴かれてみれば、「エボンの賜物」なんていう言葉は、ちゃんちゃらおかしいんですよね。
仮に、エボン=ジュがシンとなった当初の理念が優れていても、
その理念込みで語り継がれていないシンという鎧を纏うエボン=ジュがスピラにもたらしているのは、
戦争という形を取っていないだけで「死の螺旋」でしかないですし、
理念が優れていれば永遠でなきゃいけないということもないからです。

祈りの歌も、

いえ ゆい
のぼ めの
れん みり
よじゅ よご

はさ
てか
なえ
くた
 ま
 え

縦読みすると、

「祈れよエボン=ジュ、 夢見よ祈り子
果てなく 栄え賜え」

となり、これは「ユウナレスカの祈り」でしかなく、スピラの人々にとっては「呪いの歌」となります。


最後に、ユウナが演説で

「時間もいっぱいあるから、みんなで一緒に歩いていけるよね」

というようなことを言いますが、これこそ、

「人間同士で殺しあってないで、上手に共存の道を探していこうよ」

ということでもありますよね。
エボンは、本当はこういうことを伝えるべきだったんじゃないでしょうか?

確かに、言動よりも行動のほうが説得力を持つことはあります。
だから、説話がどんなに優れていても、人間としてのメンタリティと行動がそれが伴っていなければ、
信仰されないでしょうし、されるべきではないと思います。
だからこそ、エボンは、「行動」で示したのかもしれません。
でも、彼のやったことは残念ながら、自分の持つ能力の誇示に過ぎなかったのではないでしょうか。
それは、説話よりむしろ破壊兵器を使ってその技術や能力を競うのと似ています。

宗教とは、倫理学の分野であり、倫理学とは「どう生きるか」を考える分野です。
その視点から見ても、エボン寺院とエボンの教えが描かれた部分には色々考えさせられます。

信仰するあまり、それにあやかってただ行動を真似るだけというのも、真に教訓を得たことにはならないとも思います。
例えば宗教には「儀式」がありますよね。
エボンなら、「お祈りのポーズ」がひとつの象徴です。
これも、本来は「ブリッツ必勝のおまじない」だったのが、いつからか宗教的な意味を持ちながら伝播して、
「そのポーズを取ることが信仰心の現れであり、幸運を呼び寄せる鍵」
というように変化したパターンが考えられます。
ポーズを取ったら信仰心の現れ、というのは、逆に考えれば踏み絵のようなもので、
「ポーズを取ることは重要視していないが誰よりも教えを理解している人」

「教えは理解していないがポーズだけはちゃんと取る人」
の区別をつける気のない人の了見です。

元々は、
「ブリッツを見るのが好きだったエボンも、よく必勝のおまじないとしてとっていたポーズ」
を、後世の人が、
「ありがたい教えを広めたエボンがよくとっていたポーズ」
という部分にだけ反応して、あやかって自分も真似る、というのが連鎖的に起こって、
最後には「儀式」になってしまう。
それが「ブリッツ必勝のおまじない」だったかどうかはもう後世の人は知りもしないし、
知ってもどうでもいいことなんですよね。

こういうところで、ものすごくよく宗教というものを観察して、描いているんだなぁと感心しました。
ましてや、宗教の「おわり」までを描くのは、やはりなかなか見かけませんね。



■親子を描いている

特に、「父」と子が沢山出てきます。

ジェクトとティーダ。
ブラスカとユウナ。
シドとリュック。
ジスカルとシーモア。

更に、「まるで父親のような存在」まで加えれば、ユウナにとってキマリはこの10年間父親のような保護者でしたし、
ティーダにとってはアーロンがそれに当たります。

おそらく、シナリオライターが、その部分に何かとても強い「描きたい」というテーマや思いを持っているのだと思いますが、
「自分が父親になることで見えてくるもの」
を、ゲームやシナリオを媒体にして、子供に伝えたい・残したいと考えるクリエイターの男性は多いのだと思うので、
FF10のライターさんもそうなのかもしれません。
坂口さんや糸井さんも、どこかインタビューで
「父と子を描きたい」
とか
「父として親子を描いた作品を子に残したい」
というようなことを言っていたような気がします。
出展がどこだったか持って来られないのですが。
「父としてのクリエイターってそうなんだなぁ」
となんだかやけに納得した記憶があるんですけども。

FF10では、出てくる親子を見ていて、
父親がどういうものか、父親ってこうだったらカッコイイ、こういう父と子もいるよね、
というようなことを、沢山描いてみたかったのかな、ということを感じました。

ジェクトもブラスカも、そして血縁ではないもののティーダの父親役を10年担ったアーロンも、
それぞれ、異なる「父親像」です。
ジェクトとアーロンは、すごく不器用でぶっきらぼうなんですよね。
ブラスカは穏やかで芯がある人です。

誰だって、初めて親になるときは、初めてなのでどうしたらいいかわからないことばかりなんだと思います。
だから、ジェクトのように、元々不器用だったり、照れ屋だったりすると、
傷つけるのが怖くて「普通に」接することすらままならないんでしょうね。
アーロンも、「堅物」だったからこそ逆に普通なら難しいはずの約束でも守ることができたのだと思います。
そういう父親たちを見て、子供の側も戸惑ったり、それなりに成長したりしていきます。

元々親子なんて、本当によくわからない「偶然の出会い」から関係が始まるわけですよ。
親からすれば、どんな人になるかもわからない赤ちゃんの頃から手探りで付き合わなければいけなくて、
子供からすれば、親は選べないのですから。

そんな、「親だってわけわからないんだ」っていうことと、「子供だってちゃんと親を見てるんだ」っていうことが
すごく伝わってくるゲームでした。
エンディングムービーの最後で、ジェクトがティーダに手を差し伸べて、ティーダがそれを打つシーンでは、
不器用だった親子が、初めて「共同作業」を完遂して、対等になっています。
ジェクトは、自分がうまく「父親」できていなかったことを自覚しているので、ずっとティーダが気がかりでしたが、
自分を倒しに来た息子の、10年前よりも逞しく育った姿を見て、本当はきっとすごく嬉しかったことでしょう。
ティーダも、自分がジェクトの息子だったからやってこれたのだと思うことが色々あったのだと思います。
もし、スピラにジェクトが「召喚」されなかったら、ブリッツの世界でいつか一緒に試合に出て活躍する、
という形でこういう日を迎えたのかもわかりませんが、そういう風にはできずに、
再開するなり殺し合わなければならなかった点は、この作品の「悲劇」としか言いようがありません。
そして、「悲劇」を通して、「親子」を描いたのがこの作品全体のテーマとも言えるわけですよね。



以上、私が思う「FF10の三大すごいところ」でした。

生放送ではまだちょっと考えがうまくまとまっていなかったのですが、文字に起こしてみたら、
少なくとも自分の中では解釈や感想がくっきりしました!
この記事を読んだ人がわかりやすく読める文章になっているかはわかりませんが……。

でも、FF10については、こういう部分をずっと語りたくて、でも、ゲームのストーリーをちゃんと把握していない相手に対しては
ただネタバレを交えながら話すみたいになってしまうので、まずゲームをやったのでした。

自分で今までプレイしたことがなかった方にも、生放送を通じて楽しんでもらえていたら嬉しいです。
そして、自分自身の手でもプレイしてほしいですね〜!
今からならやはりHDで!





さて、生放送の編集をして動画にするために、当面缶詰になります。
あ、どこかのタイミングでうろ絵を描いて放送するとは思いますが、FF10の方は、
年が明けたら連載が始められるような形にしたいなぁと一応考えています。
実際は作業を始めてみないとメドが立ちませんけども。


私が今言いたいことは


 Final Fantasy -Zero(ジェクト編) 作ってください!

です。