しばらく前に観て来ました。

映画『ジュピター -Jupiter Ascending- 』 公式サイト

あの「マトリックス」のウォシャウスキー姉弟が、完全オリジナル新作として撮ったというところが作品の大きなPRポイントであり、
観る側からしても期待が高まる点でありました。
以下、レビューは、若干ネタバレを含みますのでその点ご注意ください。


(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


マトリックスと比較をしながら感想を書く意味はあまり感じていないので、独立したシリーズであることを意識してレビューしてみようと思います。
逆に、あえてマトリックスと比較しながらというのもレビューテーマとしてはアリかもしれませんが。

と、前置きをしておきながら早速申し訳ないのですが、マトリックスを「彷彿とさせる」点があり
それが映画のあらすじとは関係ないところなので、むしろここで先に紹介してしまおうと思います。
それは、作品内の人物が着る服や、持ち物・ガジェット・メカ等の「デザイン」です。

こちらに、ジュピターのコンセプトアート集があるので、
映画をまだ鑑賞していない方でも一度覗いてみてください。
近未来を感じさせる「アート」です。

こういった「美術」の担当する部分は「演出」に直結し、近未来SFではその美術と演出が世界観の見せ方にも大きな影響を与えると思うので、
ウォシャウスキー姉弟(監督)は、作品が「総合アート」になるよう、デザインにもすごくこだわっているのかな、
と感じました。
もしかしたら、そういうことはインタビューで本人たちが喋ったことがあるかもしれませんけどね。
単にそれを私が読んだことがないだけでw
ともかく、「美術」の部分は視覚伝達デザイン的に面白いので、マトリックスのときもパンフレットをジロジロ眺めるのが楽しかったのですが
ジュピターもそういう側面があるなぁと思います。


また、視覚的なことをもっと話すと、常に最新の技術を駆使してよりリアルな仮想空間を描きたいという感じも伝わってきました。
なにしろ、今回は「他の惑星」や宇宙空間を描くシーンがてんこ盛りです。
むしろ地球上のシーンの方が少ないレベルなので、その点はスターウォーズみたいな「宇宙映画」ですかねw
そう考えると、ほとんどのシーンは、「実在しない場所や物」の映像であり、それがこれだけリアルに映像化されるというのは
今の映像技術ってすごいなぁと思う反面、今よりかなり技術水準が低かった頃の映像だって負けてなかったりするから、
それはそれで工夫がすごかったんだろうなぁという風に改めて感心しますけどねw
プレステ・セガサターンなどのポリゴン以降のゲームやったあと、「レトロゲーもあれはあれでよかったな」って思うのに少し似ているw


あらすじは、大体以下のようなもの。

主人公である“ジュピター”は、母とその親戚と共に、アメリカで「貧乏暇なし」な生活を送るロシア人移民。
亡き父がそうであったように、天体観測に興味があるが貧しいため嗜好品を買う余裕はない。
「こんな生活イヤ」と、繰り返しばかりの退屈な日々を呪っていた。

ある日、同居の従兄弟から「卵子提供をすれば多額の謝礼が貰えるバイト」の紹介を受ける。
乗り気ではなかったが、望遠鏡を買いたいジュピターは渋々承諾。
しかし、それは「宇宙人」が仕掛けたジュピター暗殺のための罠だった。

この銀河には、地球上の人類以外にも知的生命体が存在し、むしろその知的生命体こそが、人類を地球上で「栽培」しているのであり
人類は自分たちがそうとは知らない家畜なのだ。
「収穫」された人類は、特殊な「資源」として宇宙で売買される。
そして、地球人の「収穫」の時期が迫り、その相続権をめぐってある王家では内紛が起きつつあった。
ジュピターは、地球の所有者であった生前の女王と全く同じ遺伝子配列を持つ、正当な王位継承者だったのだ。
そのため、より大きな富を得るべく、王家の長男はジュピターを暗殺し、自分が遺産相続を受けようと目論んだのであった。
次男のほうは傭兵を雇ってジュピターを救出させたが、それすらもジュピターや地球人を本当に救うための行動ではなかった。
ジュピターは、「地球の所有者」として、決断と戦いを迫られるのだった。



以上がおおまかな設定とあらすじ。

映画の感想としては、まず、王家の跡取り3人(長男・次男・長女)の相続争いに
ジュピターと傭兵のケインが巻き込まれていくっていうメインの展開を把握するまで、
人間関係の複雑さに対して理解が追いつかず、あらすじ以外の部分に気を取られてしまう感じでした。

初めに受ける印象では、王家の中が三つ巴だからややこしいんですよ。
いかにも三つ巴っぽいことを最初の方のシーンで見せてくるんです。
で、王家のどの人物にとっても、ジュピターとケインは「駒」でしかないっぽいって思って見てるんですけど、
長女だけは、長男と次男に比べれば富や権力に対する欲はあまりなく、自分がいつまでも若く美しく保たれればそれでいいという感じでした。
ジュピターに対しても、自分の母そのものに再会できたかのような対応をしたりします。
しかもその後は特に干渉してきません。
長女がまんま「敵」ではないことを把握するのに時間がかかったので、ずっと三つ巴状態と思っていたら、
終盤ろくに出てこないまま映画が終わって、「あの人どうしたんだろう?」ってなるレベルに実は影が薄かったですw
だから、あの長女の「役割」って、人間を収穫することで得られる「資源」とはどういうものなのかを、
観客とジュピターにわかりやすく説明することであって、それ以上でもそれ以下でもなかったんですね。
ちなみにその「資源」というのが、「いつまでも若く美しくいる」ために使われます。
その部分は、映画「TIME」にあった、上層の権力者が豊かで長い時間を過ごすために、
末端の者が一方的に搾取されるという構図と同じです。
やっと人間関係を把握できてきたかも!と思ったら映画が終わりで、注意していた人物には、それほど注意が要らなかったという。
ケインやスティンガーは結局何に所属しているの?っていうのも、コロコロ変わるように見えてわかりにくかったです。
最初は王家の護衛隊みたいなところにいたけど、ケインの不始末のせいでふたりとも除名になってて、
その罪滅ぼしと恩返しのためにケインは特命を受けることにした?
そして、ジュピターの働きもあって隊に復帰出来たってことかな? (まだわかってない)


それが、映画の一番の「印象」で、話のプロットについては、児童文学書と同じテーマを感じました。
というか、これは児童文学がそうでなければいけないということでもなければ、児童文学以外の分野がそういうプロットを使っても
全く差支えはないことなのですが、「多くの児童文学」は何を描こうとして書かれているかということ、
そしてその目的のためにどういうプロットが使われているかということです。

すなわち、主人公はまずマンネリな日々にあって、そこから唐突に「非日常」へ冒険をし、
「成長」して帰ってくる(それもあくまで元あった日常に)、というものです。
「パラダイム・シフト」です。
児童文学以外がそのプロットを使っても全く差し支えないし実際にありうるというのは、私は「ルーマニア#203」で強く感じました。
しかし、多くの児童文学書においては、「成長」を描くために、主人公を非日常への冒険に突き放す、ということをします、という話です。
非日常へ飛び込むことで主人公の「視点」が変わり、平凡だったものすら別のものに見えてくるという心の動きが描け、
それはそのまま読者の視野を広げることにもなります。
「ザ・ギバー」などでは、作品内の「日常」すらも、読者にとってはかなり異常なものであり(ディストピアとも言う)
やはり作品内の「非日常」が、主人公にその異変への気づきを与えるように出来ていますから、
ジュピターもそれに近いところがあります。
通常「パラダイム・シフト」が起こっている間も、日常そのものは変化しないものなのですが、
ギバーやジュピターの場合、自分が思っていた日常は、実態そのものが異なるということに気付かされるのです。
ジュピターの場合、地球人が知らなかっただけで、星がまるごと他の惑星の権利者の支配下にあって、
いつ平凡な日常が大破壊されるかわからないということを、主人公だけが知ってしまうのですから。

最終的にジュピターは平凡な日常への回帰を選びます。
(「ザ・ギバー」はその点終わり方が児童書にしては斬新であったと感じます。
パラダイム・シフトを起こした上で日常に帰るという結末ではないからです)
しかし、もはやジュピターは「こんな生活イヤ」とは言いません。
ここで、映画の主題として、日常を変化させるには、相手(日常そのもの)を変えていこうとするのではなく、
自分自身や意識が変われば良いんだよ、と伝えようとしている感じです。
ですから、このあたりに私は児童文学書を感じました。
そして、ギバーでもジュピターでも言えることですが、
実際に日常自体もそこに埋没している人物にはわからないような形で、
世界そのものを変化させるという働きもしている点が、非日常への冒険にふたつの役割を担わせていますね。
元あった日常にまったく変化がなくとも、主人公ノパラダイム・シフトによって
「それもまた尊いものだ」
と思わせることは可能です。
しかし、前述のとおり、ギバーやジュピターにおいては、そもそも思っていた「日常」は異常なものだったと気づく工程があるので、
それ自体を変革するというのも、主人公とその冒険が成す功績です。
ですからメッセージは、「自分自身や意識が変われば良いんだよ」だけでなく、
「キッカケを掴めば相手に変化をもたらすことも可能かもしれない」ということも言っていることになります。
映画の中にあるのと同等のチャンスはそこらへんに転がっているものではありませんが、
自分を変えることができるように、世界を変えることももしかしたら可能、というところまでテーマに含まれている感じですね。

だからこそ!!!!!
このプロットが、児童文学的であるからこそ!!!!!

映画の第一印象が「人間関係が複雑でわかりにくい」というのがすごくもったいなく思えてくるんです。
これは子供向けじゃないと言ったらそれまでなんですが、もしもっとそのへんがスッキリしていたら、
大人も子供も楽しめる作品になるんじゃないかという気がしてですね。
というか、大人向けなのに大人にも難解だったら、それはもっともったいな話ですし。

でも、同じ設定のままわかりやすくしようとしたら、確実に尺が長くなるんですよ。
とりあえず1話で完結させたいと思ったら、この詰め込み方は仕方がないと納得もするんですよね。
だから、こう、映画って難しいですね〜。
それにこれだけ映像技術駆使して作るのは、かなり予算も要るはずなので、
(というか映画という作品自体、基本的にすごくお金がかかる創作物ですよね。CG多用だと尚更、という)
売れるかもわからないのに最初から3部構成とかは出来ないわけですよ。
売れたら第2部を作る、というのが普通の作り方で、そうするとどうしても第1話にあたるものが、情報過多になりがちなんですよね。
料理がうまいひとは、足し算じゃなくて引き算ができるっていう喩えに通じるところがあります。


それで、良かったところを書いて終わりにしたいのですが、映像の迫力がすごくて、
11チャンネルのスピーカーと大画面で見たため、これはどうせ観るならDVDじゃなくて劇場だなぁと思いました。
まぁ大体SFアクション見ると同じ感想なんですけどw
映画館でお金を払って映画を観るのは、あの設備にお金を払っている側面はかなりあると思うんですよ。
だって自宅にあのサイズのスクリーンや、スピーカー置けないでしょう。
どうやっても同じ迫力を味わうのは難しいですよ…。
まぁもしかしたら近いうちに、ウェアラブルシアターとかで近いものを体験できるようになるのかもしれないけど…。
だって頭の周りに装着できるようにすれば映像も音も臨場感増し増しにできるとは思うし
その方が機材のサイズとかの面でも部屋に色々設置するより場所取らないし。
まぁそれはともかくそれがない以上、「映像の迫力」が売りの作品は、家でDVD観ても
楽しさは半減か、数十%減してもおかしくないですよ。
ましてや映像の迫力が作品の魅力のうちかなりの部分を占めていて、話の筋はありきたりみたいな作品だったら
映像の迫力が感じられないところで観ても、その時点で「なんかありきたりな話だったな」以上の感想を抱かなくても不自然ではないです。
ジュピターがそうだということではなく。
「少なくとも映像がすごかったから、それだけでも映画館で見た価値がある」
と思うのは、同時に
「映画館で観なかったら映像のすごさは伝わりにくいよ、残念だね!」
ってことになるという話です。
今作に関しては、上に長々書いたように、人間関係を把握するのに手間取った以外、
テーマとか話の展開、演出とかも結構面白く観られたし、その上で映像もすごかったと思うので、
久々に映画館でSFアクションを観て良かった、と思いました。
アメリカの、巨大ビル群の中で行われる空中戦とか、最後の木星の基地破壊のところは
画面から熱が伝わってきそうな臨場感でしたよ。
そういうのって、家でDVD観てもなかなか味わえないですよ。


と言いつつ、家でDVD観てきます。
(スターウォーズの復習)