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ついに、シリーズ完結です。


◆ニコカラ動画


◆音源
ルカ歌入り
カラオケ

◆イラスト



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今回の「オリジナルVOCAROCKアルバム」企画、月ごとの誕生花になぞらえて楽曲制作をすることが決まり、
一気に12曲作る結果になりましたが、毎週末の定期更新も今回で完了です。
長いようで短い12週でした。
公開を始めるにあたって、SHINDEHAIに「毎週、週末の夜に1曲ずつ公開していくのはどうだろう?」と提案した際、
彼は、「そのペースだと視聴者にとって遅すぎないか?」と不安そうでした。
こればっかりは、各ユーザーがどの程度の頻度でネットを利用したり、動画を見たり、サイト巡回しているかによるので、
一概に頻度が高いとも低いとも言えません。
忙しい社会人にとっては、毎日更新があるのは頻度が高すぎて追いつけず、
夏休みの学生にとっては毎日の暇つぶしにうってつけでしょう。
ですから、どのような更新頻度にするかは視聴者の層にもよりますよね。
私とSHINDEHAIの制作ペースなら、毎日更新も可能でしたが、この企画に関しては週1公開とし、
余力がありあまってしょうがないなら、間に他のことをすることだって出来るし、
毎週1曲というのも、音楽制作のペースにしては十分早い方なのでこれでいこうという風に言いましたw
SHINDEHAIは「12週は長い!」と言っていました。
でも、私はやっぱり、終わってみたら「あ、もう終わりか」っていう感じがしました。
始める前は12週ってずいぶん先のように感じますけれどね。

そのラストを飾る今作は、12月の誕生花「シクラメン」の花言葉「内気」「はにかみ」(Shyness)がテーマです。
まず、歌詞を掲載します。


不器用な僕の真実 歌詞 作詞:(V)・∀・(V)

街は冷たく輝いて
息は綿毛のように白く

途切れた会話の間を埋める
空の彼方 冬の星座

もつれた糸を手繰り寄せ
ほぐすように言葉探す

ありったけの語彙を集め
とびっきりの花を添えて
最愛の君にキモチ贈りたいけど
言葉では表せない
花束も手渡せない
置き去りの僕のキモチ凍えて眠る


「愛」は鎖のように重く
「恋」は羽根のように軽く

コトバの森では
迷ったココロが出口を見つけて
這い出すときには
イビツに捩れてる

時には涙に濡れて
生き疲れた心洗う
それでも癒えない傷は
思い出と縫い合わせて

時にはぬくもりに会い
凍えきった心包む
それでも言えない言葉
たった一言「あいしてる」

ありったけの語彙を集め
とびっきりの花を添えて
最愛の君にキモチ贈りたいけど
言葉では表せない
花束も手渡せない
置き去りの僕のキモチ凍えて眠る

忘れないよ君の涙
聴きたいよ君の声が
生きたいよ君とキズナ結べるのなら
言葉では言えないけど
形にも出来ないけど
開けるよ僕のココロ
覗きたいなら


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照れ屋さん、口下手な人などをイメージしました。
ただ、「歌詞」というのは、完全に「ことばの世界」ですから、語り手自体を口下手な人の設定にすると
逆に饒舌になりすぎるのが難しいところです。
ですので、これは「口下手な人の内側で起こっている事柄」をイメージし、代弁するようなつもりで書きました。
つまり、「これだけ言いたいことは沢山あるのに、実際に口から出ることばはそれではない」のが
口下手な人、寡黙な人だと思うのですね。
言いたいことがないわけじゃないんです。
あるのですが、伝え方がわからなかったり、そのまま言えば良いことも、言うのを躊躇ってしまったり。
照れやプライドなどが邪魔するのかもしれませんね。
ことばの定義にこだわるあまり、結局適切なことばを選びきれないで黙る場合もあるでしょう。
特に、肝心なことほどそうなるのは、口下手でない人にだって起こることですよね。
私だって、「イメージした上で代弁した」らこういう歌詞になっただけで、
伝えたいことを伝えたい通りに伝えられないことなんて山ほどあります。
この歌詞自体、先ほども書いたように、「口下手な人にしては言葉数多すぎ」ですしw
表現って難しいです。


でも、だからこそ、ことばは伝達の手段・道具であるはずなのに、
使えば使うほど真実から遠ざかる感覚は身を以って知っています。
事実として起こった出来事を置き換えるのには適した道具です。
しかし、「思ったこと」というのは、「思った」という事実があるのに、「思い」には形がないんです。
だから、それをことばに置き換えるとき、ある意味で「ここにないもの」のことを言わなくてはならず、
ないものえおあるものと仮定して、自分が感じた通りにことばで表現するなんて、
元々不可能なことをやってるんじゃないでしょうかね。
例えば、そこにカーテンがあって、それが風で揺れたら、
「カーテンが風で揺れた」
といえば、皆、カーテンが風で揺れているところを想像しますよ。
カーテンは物体だし、カーテンを見たことがあれば、どんな模様のカーテンを想像するかの違いだけで済みます。
むしろ模様なんかも、
「黄緑のチェック模様のカーテンが」
と、修飾語を増やせば、より明確に「そこにあるもの」の如く想像できます。

しかし、「思い」は誰も見たことがない。
感覚として、見たり触れたりしているもので、それぞれの経験則に沿ってしか「そこにあるもの」として想像できず
実際に存在する物体を想像するのに比べて、やたらふわふわしています。
勿論、極論を言えば、カーテンも、その模様も、各人の経験則に沿っているもので、
私が見ている黄緑と、あなたの見ている黄緑が違う色であるなんて可能性もありますが。
でも、少なくとも自分の「外側に存在するもの」として見て、「これがカーテンである」という共通認識を持っているから
それを一言で表して、伝えられるわけですもんね。
なんというか、気持ちはそうじゃない。
好きとか嫌いとか、怖いとか美しいとか。
その対象物も、感じ方も、人それぞれすぎて、ことばに置き換えると大きな齟齬が生まれる感じがあるんです。

だから、逆に、思いをことばに置き換えることを躊躇う人は、自分が伝えたい思いを、
人一倍大事に思っているのではないでしょうか。
ことばに置き換えた瞬間、それが台無しになる可能性だって大いにあるからです。
私は、ことばや言語それ自体、大好きでもあるんですけどね!
それに、ことばで伝えられそうなことなら、頑張って伝えたいですよ!
でも、それとこれはまた別の問題だな〜と思うわけです。
やっぱりことばに置き換えることで、本質から逸れる「思い」っていうのがあるし、ことばは万能ではないと思います。

言いたいことを表現するために、わざと遠まわしな言い方、すなわち「隠喩」にこだわるようになった
ニーチェの気持ちも、ちょっとわかるんですよね。
歌詞って、隠喩になりがちで、日本語の歌の場合音節数の制限によって使える単語数が自ずと減るから余計というのもあります。
でも、「愛してる」を「月が綺麗ですね」と言い換えるかのごとく、あえてことばの定義からは逸れた表現を使って、
この「ことばで言い尽くせないもやもや」もそこに包括するスタイル。
これが「歌」でもあるように思うのです。
「会いたくて震える」って、立派な「好き」の遠まわし表現だと思いませんか?w
つまり、「好きじゃなかったら会いたくて震えることなんかない」ってことです。

それに「あいしてる」を言えない理由の大半は、「あいしてると言うのが正解かどうかわからないから」なんじゃないかなと思います。
これって永遠に答えは出ないと思いますよ。
ケーススタディとして「その場面は”あいしてる”って言っておけばベター」みたいなことはあるかもしれません。
でも、「思い」を形にして自分の外側に出して、それを指差して「これがあいしてるだよ」って出来る人間はいません。
それが出来ない以上、私たちは、常に自分の気持ちに対して、「これに”あいしてる”という名前をつけて合ってるのか?」
という疑問と向き合い続けないといけないのですから。

その結果として、人間は今までもこれからも、「歌」を媒体にして、そのふわふわした訳のわからない
「思い」というやつをなんとか頑張ってことばに置き換えたり、伝えようとしたりするんでしょうね。
どうして音楽はなくならないのか、ずっと考えていましたが、私たちが唯一、「思い」を
ちょっとだけ形あるものに近づけることのできる手段だからかな、と思います。