私は、夢に出てくる人というのは、自分の心に住んでいる人だと思ってる。
それが故人であれ、心に「生きて」いる人なのだ。


------------------------------------------


だから、夢に出てくる人は、私から見たその人の姿の一側面を表していたり、
こうであって欲しいとか、こうであって欲しくないとかの願望を描いていたりする。
私は、一晩に見た夢のうち1〜4個ほどを記憶して起きるので、
起きたあと、その夢をよく吟味する。
それは、自分の心の中に「生きて」いる人との対話なのだ。
それが現に生きている人なら、更に、その人本人とも直接対話をすることが出来るが、
相手が故人である場合、夢の中と、起きた後の夢の回想だけが、「対話」となる。
その人が、私の心に「生きて」いる以上、私は残されたものとして対話をしなくてはならない。


少し話が逸れるが、心霊現象、霊的体験というのは、体験者の心が生み出しているものも少なくないと思う。
勿論、これに対して反論もあるのは知っている。
しかし、金縛りのように、原理がわかればそれが心霊体験ではないということも理解でき、
結果的に金縛り自体への恐怖心が薄れることで、より、折り合いがつけやすくなるものがある。
こういう風に、思い込みや、脳が起こす誤謬がそういった体験の本質であるとすれば、
死とか、死者についての、自分の意識とよく向き合うことが、その体験を減らすか、さもなくば苦痛でなくなるか…
とにかく良いことしかない。


私の身近には、自殺者が3名いる。
いずれもが、時々夢に出てくる。

私は、その夢の中で、「この人はもう故人なので、これは夢である」と気づく場合があり、
その瞬間それは明晰夢となる。
だからあえて、私はそこで、落ち着いてその故人との対話を試みる。


私がいつも聞きたいことは、「この世に未練はないのか」「あるとすればそれは何か」ということなのだが、
大体毎回そこまで話が進まない。
他愛も無い話をしている内に、夢が終わってしまう。
昨日などは、地震で起こされて「ごめん、もういかなきゃ」って感じで終わってしまった。

だから起きてから、考えていたのだ。
あの人は、自分で命を絶って、この世に未練はないのかな、と。

私は夢の中では「未練はないよ」と言って欲しかった。
なぜなら、「未練ある魂は霊となってこの世を彷徨う」的な刷り込みがあるため、
「未練がない」と言ってもらうことによって、その人の魂が私の周りで、
(私の思い込みによる)心霊現象を起こすのを防ぎたい、という気持ちがあったからだと思う。
この人に未練があるという気持ちを私が持っている限り、
私は(現状起こっていないけれど)、心霊現象が起こるかもしれない気分で居続けることになると思ったからだ。


でも、ここでふと思ったのは……これは全くの逆説なのだけど、
「自殺者には未練しかない
のではないか、ということだ。

つまり、未練以外の、達成感や、希望や、目標や、そういう何かがあれば自殺しない道を選んだであろう。
未練しかない。未練に押しつぶされて失望するしかない。
だから、夢で私がその質問を口にしようとしたとき、相手は、複雑な笑顔を浮かべていたけれど、
「自殺してしまうのは、残念なことだ。しかし、せめて死ぬことで未練から解放されていて欲しい」
という残された者の願いは、なんと儚いことだ。
「未練はないの?」とは愚問である。
それは、取り返しがつかないからしょうがなく、その自殺を容認するという、
自分の心への救済でしかない。
勿論、取り返しがつかないのだから、生きている者に出来ることは限られていて、
これはそのうちのひとつなのだろうとも思う。

何か、今日を境に、向き合い方が変わるような気がした。


私の心には勿論、他にも「生きて」いる人が沢山いる。
その人たちの中にも私が「生きて」いるとは限らないが。

でも、人々は、お互いが現実に生きている間に、もっとよく話し合わないといけないんじゃないかと思う。
自分の心に「生きて」いる人と。