予告編
その他、公式関連動画
久々に映画館で映画を見てきました。懸賞でおとうぱん。が鑑賞券を当てて送ってくれたのでw
私は大抵のものは、なんらかの視点から見て楽しんでしまうので、私が「面白かった!」と言ったからといって
万人ウケするものだと思われると困ってしまいますがw
今作についても、私的視点から面白かったところなんかを書いていきます。
その他、公式関連動画
久々に映画館で映画を見てきました。懸賞でおとうぱん。が鑑賞券を当てて送ってくれたのでw
私は大抵のものは、なんらかの視点から見て楽しんでしまうので、私が「面白かった!」と言ったからといって
万人ウケするものだと思われると困ってしまいますがw
今作についても、私的視点から面白かったところなんかを書いていきます。
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まず、ノアの方舟伝説のWikipedia記事など申し訳程度に貼っておいてだな。
「ノアの方舟」伝説については、創世記の記述が一番有名だと思うし、この映画も創世記における記述を基盤にしたのかな、
と思うけれど、Wikiの創世記における記述にない描写もいくつかあったので、その部分に関しては
ネタバレになることをあらかじめ書いておく。
この映画は、「大スペクタクル巨編」といわれるものの一種なのだが、これはつまり、
得体の知れない敵を超能力でやっつけるアクションとか、メタルヒーローやロボットが巨悪を断罪するようなSFなどが見たい人が
期待して見に行く類のものではない。
そもそも「ノアの方舟」伝説が、創世記の記述として一番有名である以上、宗教的な要素も少なからず絡んでくるし。
そういうのを踏まえた上で、「大画面で楽しむ」映画というエンターテイメントにはなっていたと思うし、
物語の筋や、テーマなんかは、むしろ前述の「Wikiにない描写」のおかげもあってか、わかりやすく面白く出来ていたと感じた。
だから、日本で、この映画に興味がない人も多かったかもしれないけど、そういう人が見ても、
何かしら感じるものはあるんじゃないかな、と思う。あってほしい。
では詳細に触れていこうかな。
<ノアってどんな人>
まず主人公のノアは、アダムとイブの間に生まれた3人の息子のうち、「最も神の意志に寄り添って生きた」家系にあり
わかりやすく言えば、一種の神通力のようなものも持っている。
「神の声」を聞く力だ。
そのため、地に蔓延る我ら罪人の群れを見るに見かねた神からの
「穢れを知らぬ物(動植物)以外、つまり人類を、地上から一旦すべて消し去るため、大洪水を起こすよ」
というお告げを受ける。
そして、動物たちを、新たな世界へ無事運ぶための方舟を作るよう啓示を受けて、その「使命」をまっとうするべく動く主人公。
神の意志である使命を全うするために、時々非情にすらなる。
神は絶対だからね。
<いろんな人がいる>
世の中色んな人がいる。
「ノアの方舟」伝説をあらすじをざっと見ると、ノアが動物と家族を舟に乗せて助かりました、で終わりなのだけど、
この洪水は、「悪しき人間」を絶滅させるためのものなので、その「悪しき人間」としてカインの末裔が出てくる。
この設定によって、善悪の対比がよく描かれている。
しかし、ノアは、「人間はすべて悪を持っている」と知っているので、動物たちを舟で救った後は、
自分たち家族も最後の人類として死に絶えるべきと考えている。
カインが特別悪いのではなく、人類が人類である以上、悪であることからは逃れられないのだ。
原罪があるからね。
「悪しき人間」の代表とも言うべきカインの末裔は、カリスマ性はあるが、「傲慢」な人物だ。
神から授かった知恵を、戦いや無意味な殺生に使う。
そしてそれは、人間に与えられた「選択の自由」であると主張する。
このカインの末裔は、最後までしつこくノアの命を狙い、自分が「新世界の神」になろうとする。
また、神の啓示の真意を探るため、ノアは祖父に会いに行くが、その道程で救った少女イラを、「家族」に迎え入れる。
さらに、方舟の建造を手伝う、シェムハザを始めとする以上に堕ちた堕天使陣がいる。
映像表現として面白かった。
彼らは元々「光」であったが、罪を犯したため岩で固められ、石でできた巨人のような存在となった。
ノアとその家族が、世界中の動物を乗せるような方舟を一体どうやって短時間で作れるというのか不思議だったけど、
シェムハザたちがでかくて力持ちなので、それで説明をつけたという感じかな。
カインが率いる人々の群れをなぎ払いながら、光となって神の元へ帰る。
<選ぶということ>
人は何かを選ぶことができる。
私はキリスト教徒ではないけれど、人の意思を超えた何か強大な意志が、人間の選択すらも包括した
「選択」を行って世界が動いているというのは、間違っていないような気がしている。
例えば「自然淘汰」などがそれだ。
ノアは、「悪から目をそらさない」が、同時に「善を見る」ことが出来るため、神に「選ばれ」
使命を託されたという。
私は、人が何かを選ぶとき、確かに「善悪」などの判断がしっかり出来ないのであれば
取捨選択を任せられないものと思う。
だから、神が、ノアを適任と考えたのは合理的だ。
カインの方は、現に、与えられた「選択権」を傲慢にふりかざし、越権行為にすら及ぼうという構えだ。
つまり、私たちは、選び選ばれることがあるが、その権利を強欲にふりかざしてはいけない。
例えば「選民思想」というのはその一種であり、しかもそこに「神が選んでくれた」という理屈までついてるという
かなり厄介な思想なのではないだろうか。
神(というのが早いので、そう表現するが)が、何か「使命」を果たすべき人物を選ぶとして、
選ばれし者としての優越にのまれたり、能力・運を、的確に運用できないものを選ぶだろうか、いや、ない。
選民思想は、時として、神の名を騙った暴力や迫害であり、このことが逆説的に、
彼らが選ばれていないことを証明してしまっている。
本当に選ばれた者がするべきことは「それ」ではないからだ。
しかし、ノアも、「人の情」にほだされて、神から与えられた「使命」に背いてしまう。
彼は、人類は自分たちを最後に滅びるべきだとわかっていたため、イラの生んだ双子の姉妹を殺すことを一度は決心するが、それを果たせない。
彼は初めて、神の意志に背いた。
ノアも、自分個人の選択を、優先させてしまった。
しかし、その動機は、単純に「愛」であり、最終的に神はその選択を祝福する。
<何のために生まれてきたのか>
大抵の人間は、自分が何をなすために生まれてきたのかを知らないまま生きて死ぬ。
別にそのことで大して困ってもいない。
じゃあ、何をなすために生まれてきたかわかっている人は、神に祝福されているかというと
別にそれを証明するような証拠も無い。
神の啓示を受けたからわかった、という人は少ないだろうしね。
でも、私たちは、生まれてきた以上、その「意味」を求めるのが人情ってもんだし、
できればそれが壮大であって欲しいもんだ。
しかし大抵は「壮大な意味」は見つからない。
実際に、ないからかもしれない。
だから大多数は、平凡な意味を見つけて、それに納得して生きる。
それが、ある意味においては、私たちの手に負えない強大な力によって「選ばされた」ものであり
同時に自分が「選んだ」ものであることをよく考えなければいけない。
おそらく、人間の「選択」とは、常にこの両方の意味を持っている。
誰かに「選ばされた」「選ばれた」から、その責任を転嫁して良いというものではない。
「選ぶ」ことが出来るからと言って、横暴になってもいけない。
ノアが、「選ぶ権利」を得られたのは、選ぶことで横暴になることのない人物だからだ。
悪から目を背けず、善いことを「善い」という理由において行う。
それが正しき選択を導く。
カントが大体こんなことを言ってた気がする。
しかし、こんなことを、改めて説明しなければいけないくらい、世の中には、誤った選択が多い。
これは、おそらく、「人が誰しも持っている悪」が導くのだ。
やってはいけないのは、それに簡単に屈することではないだろうか。
誰しも、間違いは起こすだろう。過ちを犯すだろう。人間である以上。
しかし、そのことと向き合って、「悪から目を背けず」より正しいと思われる選択を、明確な自分の意志で行うべきだ。
でなければ、選択を行う資格を失うのだから。
私が思うに、これが出来るような人は、「何のために生まれてきたのか」も、見つけることができる。
「善悪から目を背けないこと」と、一個人が何のために生まれたかというのは、一見全く無関係に思うかもしれないが。
きっと意味はある。
それが出来る人にこそ、能力と運が与えられるからだ。
それは与えられるものでもあり、当人が勝ち取るものでもある。
映画のレビューから話が逸れているように見えるかもしれないが、
私はこの映画から、こういうテーマを受け取った。
一番最近、「この人、神の啓示でも受けてこの仕事してるのかな」と思った人、Kevin Richardsonのドキュメンタリーをひとつ貼っておく。
まず、ノアの方舟伝説のWikipedia記事など申し訳程度に貼っておいてだな。
「ノアの方舟」伝説については、創世記の記述が一番有名だと思うし、この映画も創世記における記述を基盤にしたのかな、
と思うけれど、Wikiの創世記における記述にない描写もいくつかあったので、その部分に関しては
ネタバレになることをあらかじめ書いておく。
この映画は、「大スペクタクル巨編」といわれるものの一種なのだが、これはつまり、
得体の知れない敵を超能力でやっつけるアクションとか、メタルヒーローやロボットが巨悪を断罪するようなSFなどが見たい人が
期待して見に行く類のものではない。
そもそも「ノアの方舟」伝説が、創世記の記述として一番有名である以上、宗教的な要素も少なからず絡んでくるし。
そういうのを踏まえた上で、「大画面で楽しむ」映画というエンターテイメントにはなっていたと思うし、
物語の筋や、テーマなんかは、むしろ前述の「Wikiにない描写」のおかげもあってか、わかりやすく面白く出来ていたと感じた。
だから、日本で、この映画に興味がない人も多かったかもしれないけど、そういう人が見ても、
何かしら感じるものはあるんじゃないかな、と思う。あってほしい。
では詳細に触れていこうかな。
<ノアってどんな人>
まず主人公のノアは、アダムとイブの間に生まれた3人の息子のうち、「最も神の意志に寄り添って生きた」家系にあり
わかりやすく言えば、一種の神通力のようなものも持っている。
「神の声」を聞く力だ。
そのため、地に蔓延る我ら罪人の群れを見るに見かねた神からの
「穢れを知らぬ物(動植物)以外、つまり人類を、地上から一旦すべて消し去るため、大洪水を起こすよ」
というお告げを受ける。
そして、動物たちを、新たな世界へ無事運ぶための方舟を作るよう啓示を受けて、その「使命」をまっとうするべく動く主人公。
神の意志である使命を全うするために、時々非情にすらなる。
神は絶対だからね。
<いろんな人がいる>
世の中色んな人がいる。
「ノアの方舟」伝説をあらすじをざっと見ると、ノアが動物と家族を舟に乗せて助かりました、で終わりなのだけど、
この洪水は、「悪しき人間」を絶滅させるためのものなので、その「悪しき人間」としてカインの末裔が出てくる。
この設定によって、善悪の対比がよく描かれている。
しかし、ノアは、「人間はすべて悪を持っている」と知っているので、動物たちを舟で救った後は、
自分たち家族も最後の人類として死に絶えるべきと考えている。
カインが特別悪いのではなく、人類が人類である以上、悪であることからは逃れられないのだ。
原罪があるからね。
「悪しき人間」の代表とも言うべきカインの末裔は、カリスマ性はあるが、「傲慢」な人物だ。
神から授かった知恵を、戦いや無意味な殺生に使う。
そしてそれは、人間に与えられた「選択の自由」であると主張する。
このカインの末裔は、最後までしつこくノアの命を狙い、自分が「新世界の神」になろうとする。
また、神の啓示の真意を探るため、ノアは祖父に会いに行くが、その道程で救った少女イラを、「家族」に迎え入れる。
さらに、方舟の建造を手伝う、シェムハザを始めとする以上に堕ちた堕天使陣がいる。
映像表現として面白かった。
彼らは元々「光」であったが、罪を犯したため岩で固められ、石でできた巨人のような存在となった。
ノアとその家族が、世界中の動物を乗せるような方舟を一体どうやって短時間で作れるというのか不思議だったけど、
シェムハザたちがでかくて力持ちなので、それで説明をつけたという感じかな。
カインが率いる人々の群れをなぎ払いながら、光となって神の元へ帰る。
<選ぶということ>
人は何かを選ぶことができる。
私はキリスト教徒ではないけれど、人の意思を超えた何か強大な意志が、人間の選択すらも包括した
「選択」を行って世界が動いているというのは、間違っていないような気がしている。
例えば「自然淘汰」などがそれだ。
ノアは、「悪から目をそらさない」が、同時に「善を見る」ことが出来るため、神に「選ばれ」
使命を託されたという。
私は、人が何かを選ぶとき、確かに「善悪」などの判断がしっかり出来ないのであれば
取捨選択を任せられないものと思う。
だから、神が、ノアを適任と考えたのは合理的だ。
カインの方は、現に、与えられた「選択権」を傲慢にふりかざし、越権行為にすら及ぼうという構えだ。
つまり、私たちは、選び選ばれることがあるが、その権利を強欲にふりかざしてはいけない。
例えば「選民思想」というのはその一種であり、しかもそこに「神が選んでくれた」という理屈までついてるという
かなり厄介な思想なのではないだろうか。
神(というのが早いので、そう表現するが)が、何か「使命」を果たすべき人物を選ぶとして、
選ばれし者としての優越にのまれたり、能力・運を、的確に運用できないものを選ぶだろうか、いや、ない。
選民思想は、時として、神の名を騙った暴力や迫害であり、このことが逆説的に、
彼らが選ばれていないことを証明してしまっている。
本当に選ばれた者がするべきことは「それ」ではないからだ。
しかし、ノアも、「人の情」にほだされて、神から与えられた「使命」に背いてしまう。
彼は、人類は自分たちを最後に滅びるべきだとわかっていたため、イラの生んだ双子の姉妹を殺すことを一度は決心するが、それを果たせない。
彼は初めて、神の意志に背いた。
ノアも、自分個人の選択を、優先させてしまった。
しかし、その動機は、単純に「愛」であり、最終的に神はその選択を祝福する。
<何のために生まれてきたのか>
大抵の人間は、自分が何をなすために生まれてきたのかを知らないまま生きて死ぬ。
別にそのことで大して困ってもいない。
じゃあ、何をなすために生まれてきたかわかっている人は、神に祝福されているかというと
別にそれを証明するような証拠も無い。
神の啓示を受けたからわかった、という人は少ないだろうしね。
でも、私たちは、生まれてきた以上、その「意味」を求めるのが人情ってもんだし、
できればそれが壮大であって欲しいもんだ。
しかし大抵は「壮大な意味」は見つからない。
実際に、ないからかもしれない。
だから大多数は、平凡な意味を見つけて、それに納得して生きる。
それが、ある意味においては、私たちの手に負えない強大な力によって「選ばされた」ものであり
同時に自分が「選んだ」ものであることをよく考えなければいけない。
おそらく、人間の「選択」とは、常にこの両方の意味を持っている。
誰かに「選ばされた」「選ばれた」から、その責任を転嫁して良いというものではない。
「選ぶ」ことが出来るからと言って、横暴になってもいけない。
ノアが、「選ぶ権利」を得られたのは、選ぶことで横暴になることのない人物だからだ。
悪から目を背けず、善いことを「善い」という理由において行う。
それが正しき選択を導く。
カントが大体こんなことを言ってた気がする。
しかし、こんなことを、改めて説明しなければいけないくらい、世の中には、誤った選択が多い。
これは、おそらく、「人が誰しも持っている悪」が導くのだ。
やってはいけないのは、それに簡単に屈することではないだろうか。
誰しも、間違いは起こすだろう。過ちを犯すだろう。人間である以上。
しかし、そのことと向き合って、「悪から目を背けず」より正しいと思われる選択を、明確な自分の意志で行うべきだ。
でなければ、選択を行う資格を失うのだから。
私が思うに、これが出来るような人は、「何のために生まれてきたのか」も、見つけることができる。
「善悪から目を背けないこと」と、一個人が何のために生まれたかというのは、一見全く無関係に思うかもしれないが。
きっと意味はある。
それが出来る人にこそ、能力と運が与えられるからだ。
それは与えられるものでもあり、当人が勝ち取るものでもある。
映画のレビューから話が逸れているように見えるかもしれないが、
私はこの映画から、こういうテーマを受け取った。
一番最近、「この人、神の啓示でも受けてこの仕事してるのかな」と思った人、Kevin Richardsonのドキュメンタリーをひとつ貼っておく。
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