このブログでは時々、「大好きなもの」というコラム(?)シリーズを掲載している。
現在までに7つの記事を書いた。
そして、下書きがパート11まである。それらも追々は公開されるであろう。
ところで、こういった、「私の琴線に触れる人や物」にどういう共通項があるのか考えてみたところ、
「寡作とは真逆」なクリエイターが多いことに気づいた。
例えば、好きなアーティストだと、B'z や米米CLUBについては既に記事に書いたのだが、
いずれもとにかく曲数が異常に多い!!!
一般大衆にウケている楽曲もあれば、中には個性が強くて一般大衆には知られていないが
ファンとしてはなんだか妙に惹きつけられるというものまで、とにかく数が多く、幅も広い。
ゲームの世界では、MOTHERが大好きなのだけど、これを作った糸井重里氏は、ゲームを沢山作る人ではないが
「ほぼ日刊イトイ新聞」というウェブサイトを、ほぼどころか、マジで日刊で更新している。
ただごとではない。
漫画だと、手塚治虫とかは、やっぱりその膨大な原稿量で知られている。
身近なところにも、そんな「異常なクリエイター」はいる。
せらさんは、1年に1000人の似顔絵を描く。
SHINDEHAIは、週に最低2〜3曲のオリジナル曲を仕上げる。
ハイパー生産性クラスタの皆さんだ。
友人だけど「こいつはただもんじゃねえなー」と一目置いている。
私も、数は割と異常だと思う。
でも、この道でまだ大成はしてない。私の場合は、上記に書いた例でいうと「個性が強くて一般大衆には知られていない」ものが
大多数を占めてしまっているせいもあるかもしれない。
「普遍的な良さ」を自分の中から上手く吐き出せていない。
いずれにしても、とにかく膨大な数のものを世に輩出しつづけて、成功を収めている先人がいる。
そしてそういう人の何かがよく琴線に触れるのであれば、私は、今のペースを保つことが
自分にとってベストなのではないか、と改めて考えるに至った。
この道の先に、成功している人がいるのだ。
あの人たちも膨大な数のものを作っているんだ。今も。
ちょっとでも立ち止まったらすぐに距離を離されてしまう。追いかけなければ。
また、こういう先人に限って、「戦略として」数を多く打ち出しているというよりも、単に好きで、
それをやりたいからやっていた結果として多くのものを輩出したというパターンに当てはまるのかもしれない…。
理由なき大量生産。
生産しようとしたからではなく、結果として生産されていた。
そして、数が多く幅が広いのは、
「気に入るかどうかは受け手が決めるのだから、とりあえず出来たら出しとけ」
ということの結果なのでは……。
やっぱりどう考えても、「自分が良いと思うもの」を片っ端から作って、人前に提示してみるしかない。
絶対に「万人受け」はありえない。
万人受けを目指したら、逆に詰む。それは不可能なことだからだ。
誰かは気に入るだろうし、誰かは気に食わないだろう。
それが当たり前だ。同じことなら、出してみるしかない。
割としょっちゅう、
「私はこれを良いと思うんだけど、気に入る人が他にいるんだろうか。
いないとしたら発表する意味はないんじゃないか」
などと考えてしまうこともあるけど、そのたびに思い直すのだ。
「意味を外に求めてはいけない」
と。
沢山の人が、私の作品とすれ違って、出会い、別れる。
長く立ち止まってくれる人はなかなかいない。
勿論、そうしてくれる人が多い方が嬉しいけれど、どうしたらそうなるかばかり考えてもしょうがない。
それを無関係にしても作りたいものがあるのだから、それを作ることに没頭していればいいんじゃないだろうか。
毎日のように、この自問自答を繰り返して、時々辛いときもあるけど、作りたいものと向き合っている。
しばらく缶詰になろう。
現在までに7つの記事を書いた。
そして、下書きがパート11まである。それらも追々は公開されるであろう。
ところで、こういった、「私の琴線に触れる人や物」にどういう共通項があるのか考えてみたところ、
「寡作とは真逆」なクリエイターが多いことに気づいた。
例えば、好きなアーティストだと、B'z や米米CLUBについては既に記事に書いたのだが、
いずれもとにかく曲数が異常に多い!!!
一般大衆にウケている楽曲もあれば、中には個性が強くて一般大衆には知られていないが
ファンとしてはなんだか妙に惹きつけられるというものまで、とにかく数が多く、幅も広い。
ゲームの世界では、MOTHERが大好きなのだけど、これを作った糸井重里氏は、ゲームを沢山作る人ではないが
「ほぼ日刊イトイ新聞」というウェブサイトを、ほぼどころか、マジで日刊で更新している。
ただごとではない。
漫画だと、手塚治虫とかは、やっぱりその膨大な原稿量で知られている。
身近なところにも、そんな「異常なクリエイター」はいる。
せらさんは、1年に1000人の似顔絵を描く。
SHINDEHAIは、週に最低2〜3曲のオリジナル曲を仕上げる。
ハイパー生産性クラスタの皆さんだ。
友人だけど「こいつはただもんじゃねえなー」と一目置いている。
私も、数は割と異常だと思う。
でも、この道でまだ大成はしてない。私の場合は、上記に書いた例でいうと「個性が強くて一般大衆には知られていない」ものが
大多数を占めてしまっているせいもあるかもしれない。
「普遍的な良さ」を自分の中から上手く吐き出せていない。
いずれにしても、とにかく膨大な数のものを世に輩出しつづけて、成功を収めている先人がいる。
そしてそういう人の何かがよく琴線に触れるのであれば、私は、今のペースを保つことが
自分にとってベストなのではないか、と改めて考えるに至った。
この道の先に、成功している人がいるのだ。
あの人たちも膨大な数のものを作っているんだ。今も。
ちょっとでも立ち止まったらすぐに距離を離されてしまう。追いかけなければ。
また、こういう先人に限って、「戦略として」数を多く打ち出しているというよりも、単に好きで、
それをやりたいからやっていた結果として多くのものを輩出したというパターンに当てはまるのかもしれない…。
理由なき大量生産。
生産しようとしたからではなく、結果として生産されていた。
そして、数が多く幅が広いのは、
「気に入るかどうかは受け手が決めるのだから、とりあえず出来たら出しとけ」
ということの結果なのでは……。
やっぱりどう考えても、「自分が良いと思うもの」を片っ端から作って、人前に提示してみるしかない。
絶対に「万人受け」はありえない。
万人受けを目指したら、逆に詰む。それは不可能なことだからだ。
誰かは気に入るだろうし、誰かは気に食わないだろう。
それが当たり前だ。同じことなら、出してみるしかない。
割としょっちゅう、
「私はこれを良いと思うんだけど、気に入る人が他にいるんだろうか。
いないとしたら発表する意味はないんじゃないか」
などと考えてしまうこともあるけど、そのたびに思い直すのだ。
「意味を外に求めてはいけない」
と。
沢山の人が、私の作品とすれ違って、出会い、別れる。
長く立ち止まってくれる人はなかなかいない。
勿論、そうしてくれる人が多い方が嬉しいけれど、どうしたらそうなるかばかり考えてもしょうがない。
それを無関係にしても作りたいものがあるのだから、それを作ることに没頭していればいいんじゃないだろうか。
毎日のように、この自問自答を繰り返して、時々辛いときもあるけど、作りたいものと向き合っている。
しばらく缶詰になろう。
コメント
コメント一覧 (8)
私は、かにぱん。さんを知ってから何年か経ちますが全ての作品に触れることは出来ていません。追い掛けている途中の作品もあります。夕闇とか。忘れられなくて何回も聴く歌もあります。
私が、かにぱん。さんに惹かれるのは声は勿論ですが、そのバイタリティです。私は小説家になる夢を目指し、創作をしていますが、創作という面で見た時、かにぱん。さんのハイパー生産性は本当にすごいと思います。
私は、げんきがある時もげんきがない時も、かにぱん。さんの歌や生放送、この日記に励まされて来ました。ありがとうございます。
かにぱん。さんは、きっと作り続けるのだろうなと思います。私も、そう在りたいです。
これからも、かにぱん。さんという人間を応援しています。あと、時々、体調が心配になるので、どうぞ、ご自愛ください。
もーまだまだ全然たりねっすよー!!!!!!
バイタリティも生産性も足りてないっすよーーーー!!!!!!!!
うおおおお!!!もっと作らねば!!!!!!!!!!!!
そして応援ありがとう!!!!!!!!!!!
去年、たまたま見つけたレールガンの歌ってみた以降、ちょくちょく拝聴しております。好きなことをここまで量産できて、ラジオ形式で好きなことを語れるというところは私自身も同じことができたら・・・思うほどです。
私は素人ながら落語をやっている人間です。大学時代に落語研究会に所属し、卒業した今も依頼があれば披露する。機会があれば高座(=舞台)にあがるということをやっております。
ただ、最近は自分の声に悩んでいます。私もともと地声が大きいのです。
「落語をやる分にはいいが、日常生活ではありえない」と最近言われています。
地声でしゃべっていても、相手が怖がってしまうことがありますし、押さえていてもやかましいといわれるほど。
もちろん落語の高座ではこれがさらにエスカレートします。
マイク要らず・・・というか熱演してマイクが壊れたことがあります。
仲間内では「声がええ」とか「通る声や」とか言われてきて自分もそれをよしとしてきたため、今まであまり気にしていなかったのですが、社会人になってから指摘される機会が増えてきて練習時間以外はずっと声を押し殺している状態が続いています。
声量を押さえると自分の感情や表情も同時に抑えてしまうので、これが最近結構体にこたえてきているのです。
覚えるには何度も口につくまで繰り返す必要があるので、自宅はもちろん通勤途中に歩きながら練習したりすることもあります。
話にのめりこむと時たま声が大きくなるので、哀しいかなこの頃近所迷惑だとか頭がおかしいといわれてしまっています。
私の場合は声量のせいもありますが・・・。もちろんそういわれれば悪いのはこちらですし、自制するのが常識というものでしょう。
どうしてもどこかで本格的に声を出したり、細かく仕種をチェックしたりする場所も必要になのでカラオケボックスなども利用したりと今はなんとか折り合いをつけています。
抑えればとか、そこまでやらなくても・・・というのではなく、こうしないと自分なりの表現にできないのだ・・・というそういうのが正直なところです。
この頃自信喪失気味なのです。
自分が今までやってきた落語ですら、ただやかましいだけだったのではないかとすら。
「私はこれを良いと思うんだけど、気に入る人が他にいるんだろうか。いないとしたら発表する意味はないんじゃないか。」
という一文を見て頭を抱えています。自分の場合はどっちだ?
「理解者がいないせいなのか」「理解してもらえる形にしないのが悪いのか」と。むしろ表現自体が害悪なのではないかと。
自分の声に悩んだことはありますか?もしあるとすればどのようにして昇華してこられましたか?
長々失礼いたしました。
なるほど。
確かに、「自分はこうするのが自分流の表現だ」と思うところがあればそれは、表現の中では大事にしないといけないですね。
でも、もう一方で、表現以外の場所では、「それはそれ」となるのも事実ですもんねw
この場合「落語をしているとき以外はそれなりの声量に抑えて喋る必要がある」という常識が片方に存在しているわけで。
あと、学生時代〜未婚成人の間は趣味を共有する仲間がそれなりにいるんですけども、
そこを過ぎて、社会人、既婚、出産などのステージに進む人が増えると、
そっちに行かないで表現を追求している人は、同好の者を探すのは確かに難しくなりますが、
ゼロではないですね。
八楽さんは落語で、私は落語じゃない、という違いはあっても、表現を追求しているものという点では
似たような道を進んでいるといえるかもしれません。
私の場合は、これで生計を立てる、が最終目標なので、そのための方法を模索中ですが。
で、やっぱり趣味であっても、「やる意味」とか「もしかしてやらないほうがマシなの?」みたいな疑問は尽きないと思うんですよ。
特に人前で何か披露するタイプのはそうですよね。
一人でプラモ作って、自宅に飾って鑑賞するというような、「他人と一切関係がない趣味」は
そういう点を疑問に思う機会はないし、必要もないんですが。
なので、人前で何かするものの場合は、表現の「普遍的な良さ」というのも同時にテーマではあると最近は考えています。
でも、それ「だけ」ではやっぱりダメで、「特異性」もちょっとはないといけない。
ですから今、八楽さんが考えるといいテーマは、その両者のバランスですよね。
実際に「意味があるのかないのか」「害悪なのかどうか」は、上記を考えることで折り合いをつけて
最後の最後には自分の中の意味を結論として持ってこられるようにしないといけないと思うんですよ。
自分の人生なので。
「やる意味」は自分の中にあって、でも外と折り合いをつけることは、それはそれとしてやる。
という。
私の場合は、自分の声に「悩む」という経験は今までになかったと思います。
でも、私は自分の面白いと思うものや表現したいものが、「普遍的な良さ」からかけ離れているために、
多くの賛同は得がたいということを自分でよく知っていることによる葛藤があります。
これは、具体的内容が違うだけで八楽さんの悩みと同質ですよ。
それでも私は、自分の中の「それ」と向き合い続けて生きる方の道を、既に選んでしまいました。
今も、「私は良いと思うものを、大半の人は理解しない」というギャップを感じながら、何かやっていますw
で、それすらも表現の一部に組み込むという昇華方法について考えているところですね。
八楽さんがもし、生活の中に、表現の時間とそれ以外を個別に持っているなら、
スイッチングの方法を先に見つけると良いですし、
それが出来そうにないなら、大胆に、人生の道を一本に絞る決断をしたり
いくつか、気持ちが楽になれる選択肢があるかもしれません。