最終回です。
ナオが帰宅して寝ていると誰かが尋ねてきます。
そこには、クルミが。
そして家の外にはサンゴも。
クルミは病院を抜け出してきたのでしょうか?
どういうわけだかわかりませんが、3人で夜の散歩に出かけることになりました。
途中クルミが再び発作を起こすような仕草をしますが、どうやら冗談のよう。
巡る先は、再びの陽見七神。
この場面も、どの噂を解決しているかで変わるようです。
アイバさん、ナオに「こうすれば呪いが解けてクルミは死なないで済む」って言ったの全部嘘だったんですね。
本当はナオは、七神を全部巡ったところでその存在を認めていればクルミを救えたのかもしれない。
でも、最後に全てを否定してしまった。
それはクルミの世界の否定にも繋がってしまい、クルミをこの世界に繋ぎとめておく者が
ついにいなくなった瞬間だったのです。
クルミを慕っていたアイバさんすら、「お狐さまの噂」のとき「クルミちゃんがいなくなっちゃう!」と言い
自分がいなくなるというフェイクを以って、クルミをこの世界に繋ぐポジションを進んで放棄しました。
カスカちゃんが今いる七神のポストはおそらく近々空くことがわかっていて、その後釜にクルミを据えるため、
七神が皆で仕組んだのです。
クルミを神様の世界へ連れてこられるように。
カスカちゃんは、もう存在自体が微かなものだから、早く交代しなきゃいけなかったんでしょうね。
覚えてくれている人が、もう残り僅かだから。
七神がひとつでも欠けてしまったり、力が弱まったりすると、街全体に良くない影響があると思うし。
夜のお散歩が終わって、日常が戻ってくるのですが、クルミは本来その夜死んでいたはずでした。
じゃあナオとサンゴが見たものはなんだったのか。
それはもう、これまでこのゲームの中で見た、色々な神様や科学で説明できないもの。
つまり、想いが形あるように見せかけてくるような出来事。
クルミがそういう存在になった。そういう瞬間だったのでしょう。
生前クルミと一番時間を共にしていたのは、この二人なので、クルミの想いはそこへ到達し、
サンゴとナオの想いもクルミを呼ぶという風にして。
もはやクルミは想いそのものになったので、この「いるような気がする」というのが、
サンゴとナオの中では、言葉にしなくてもずっと続いていくのだと思います。
まぁ・・・サンゴはそんなことに構っていられるほど暇じゃないみたいですけどね、相変わらずw
なんというか、このゲームを通して、シナリオライターさんがもしかしたら「サンゴシンパ」なのかなあと思う場面は多かったです。
ライターの三島さんは、お話を空想するようなオタク少女時代を送って、背伸びして過ごした後に、
こういうお話を書いてサンゴに自分を重ね合わせたりしていたのかなぁ、という風に感じたりしました。
勿論根拠なんてないですがw
クルミは、人としてなくしてはいけないものをなんとなく知っていて、それをガード下から取り返したりもしてくれました。
その貴重さとかに、サンゴやナオもこれからイヤというほど気づかされていく人生を送ると思います。
それがなんなのか、言葉が存在しないような物だけれど、確かにそういうものがある、というのを
オトナになるにつれ知っていくと思います。
そして一度訪れた危機から救ってくれたのも、ヒントを与えてくれたのもクルミでした。
ナオとクルミが結ばれてハッピーエンド、とならないことに不満を感じるかたもいらっしゃるのかもしれません。わかりませんがw
でも、クルミは多分、生きていようが死んでしまおうが、「みんなに笑っていて欲しい」の一心、その願いのみであったと思うので、
誰かと恋をして、結婚をして・・・というのがクルミの幸せかというとそうではなかったのかもしれませんよ。
ナオ視点では、ナオとクルミが結ばれるのがハッピーエンドでしょうけれども。
また、一番自分と戦い続けていたのはサンゴなので、サンゴが幸せになれないとそれはそれでスッキリしない気もしますよね。
だから、この3人全員が平等に主人公であるなら(メロスすまん)、考えうるベストなエンディングではあったのかもしれません。
人が死んでるのにベストな形なんてあるのかってのも思いますが、ゲームの終わり方としてね。
最後に、プレイ結果が出ます。
これは噂のノートにどれだけの噂を「了」で記したかの総合得点となります。
上から順に「人面ガラスにまつわる噂(4件)」「陽見七神にまつわる噂(6件)」「心霊現象の噂(18件)」「都市伝説(16件)」です。
母数はこれで合計44件になりますが、「人面ガラスにまつわる噂」が2/4ですよね。
その内訳なんですが
『カラスの呪いの噂』 未解決
『浮遊霊の噂』 解決
『殺人ピエロの噂』 解決
『陽見七神の噂』 未解決
で、2/4という形みたいです。
「浮遊霊」がなぜ「人面ガラス」の噂に含まれているかというと、烏塚が以前置いてあった場所だからですね。
学校の裏の烏塚、その前に烏塚があった団地(浮遊霊)、殺人ピエロの井戸が本当の烏塚。
最終日の『陽見七神の噂』は「陽見七神にまつわる噂(6件)」に数えないし、解決もしないという。
まず、『カラスの呪いの噂』はゲームスタートと同時に入手するもので、プロローグで検証したっきり
ノートに表示されているものの、続きの検証は出来ず、未解決のままゲームを終わらざるを得ません。仕様です。
また、『陽見七神の噂』も検証後相談して「了」となったりしませんので、「入手したけれど解決しなかった」扱いになるので、「2/4」みたいですね。
このふたつはどうプレイしても解決はできないので、この「人面ガラスにまつわる噂 2/4」という状態でトゥルーエンドです。
つまり、44の噂のうち、2つはどうやっても解決できず、42(しに)ということです。
とはいえ、意味の深いDEAD ENDだと思いますけれどね。
▲プレイ総括▲
夕闇通り探検隊のテーマその1「オトナになるとは?」
私は「夕闇通り探検隊」は「オトナになるってどういうことだろう」というテーマのゲームだと思うので、
クルミの死の意味を
「オトナになるというのは、(自分の中の)コドモが死ぬ(42しに)ってことだよ」
というメッセージとして解釈することも可能だと思います。
夕闇という時間帯、田舎が都市化していく発展途上の地域、肉体的にも精神的にもオトナになっていく中学2年生という時期。
これらすべてが「オトナになる」ことのメタファーかと思います。
ところで、早速少し話が逸れますが、このゲームをやって「夕闇新聞」を書いてくる中で、
「このキャラはこういう人物だと思う」「こういうことを考えていると思う」
ということを沢山考えて、言葉にしてきましたよね、私。
これはあくまでゲームが相手なので、「非実在人物」についてだと割り切ってやってきましたが、
普通人間社会で暮らしていたら、仮に「あの人はどういう人だろう」「この人はこれをどう考えているんだろう」
ということをしょっちゅう考えたとして、ブログに書きませんね。
だって本当は、そういうことを考えすらしないで済むのが一番平和な気がしますし。
更に、思ったとしていちいち言ってもしょうがないことです。
本人とそれでコミュニケーションをするならまだしも。
でも、これを考えることから完全に逃げ切ることは不可能です。
オトナはある程度考えて、折り合いをつけないといけないですよね。
そこで「自分の中のコドモを殺す必要性」すらあります。
クルミはそれを拒否したし、サンゴはその方法を誤ったし、ナオはそのことに気付いてもいません。
日刊夕闇新聞の役割 〜何重にも俯瞰する〜
私がこのゲームのキャラクターについて「この人はこういう人だと思う」ということを書き記すたびに、
私自身がその記事を経て「かにぱん。はこういう風に考える人なんだな」ということを皆さんに
知られざるを得ない状況を構築して行っているのを、私は痛いほど感じながらそれでもやってみました。
ここで引き起こされるのは、私自身から自分の主観を客観視した、更にその客観視です。
ゲームを俯瞰している私(ここまでは主観を、もう一人の私が一旦俯瞰して、
その上でそれを記事にするという作業の繰り返しだったのです。
そしてそれをまた別の人が見て、本当の客観視が生まれる。
ですから、私は、作業としてはキャラクターのことを主観から文章に起こしているのですが、
同時にえぐられているのは私の心だったわけです。
だってこのキャラクターたちは存在しないのですよ。
私は存在する人間として、「私はこの人はこういうことを思っていると思う」ということを言わなければいけなかった。
そうしなければいけない状況に自分を追い込んだとも言います。
誰が何をどのように考えていると思うかなんて、文章にして人に読んでもらうのは、
相手が実在の人物だった場合、いくらでもトラブルに発展するのを、ネットをご利用の皆さんは
既にご存知だと思います。
でも、皆さんが記事を読むとき、相手があくまで「ゲーム」という虚構世界であるので、
私がするキャラクター解釈を経て
「かにぱん。はこのキャラがこういう風に考えていると思っていると思っている」という
二重括弧解読みたいな状況になるわけですよ。
皆さんに自覚があまりなくとも、日刊夕闇新聞をちゃんと読んでしまった人は、
ある程度私の思考パターンを、知りつつあるはずです・・・。
それを解っていてこういう記事を書くのは結構苦しいものでした。
私はキャラクターの話をしているのに、見透かされるのは私なのです。私はそれを知っているのにやるのです。
本当は誰がどういう風に考えているかなんて、いちいち真剣に考察したり、文章に書き記したりするというのは
とても疲れるし、やらない方がいいことだと思います。精神衛生上w
相手がゲームだからやっただけで、それでも疲れましたしね!w
サンゴの言葉を借りれば、人のことをあーだーこーだ言ってるほど余裕はないというか、
そういうことをするのはくだらないというような頭がある。
そんな風に思いを巡らすこと自体、ゲームの中でも言われているような、
「いいことも、悪いことも現象として引き起こす」想いを生んだり、
「黒いの」に取り憑かれたりすること、そのものだと思うからです。
(けれどあとで真逆のことを言うので、ちょっとこのことは頭に留めて置いてください。)
言葉を紡ぐほど、オトナになるということ
それに、言葉を沢山紡げば紡ぐほど、直観からは遠ざかるというのも知っています。
直観は、幼児性とも関連します。
言葉には定義がついてまわるので、物事や概念にはっきりした枠組みを付加することになります。
それは枠の外を切り捨ててしまうことにもなります。
だから、人のことをどうのこうの言うというのは、その人にレッテルを貼ること以外の何物でもないと思います。
言葉を覚え、使えば使うほど、自分の中のコドモを殺していくことになります。
では何故、「これはこれで苦しいな」とわかっていながらそんな記事を最後まで書き続けたのか!!
その方が、このゲームが持つテーマのうち、言葉に出来ない部分を浮き彫りにするからです。
そのために、ゲームじゃなければこんなことはしないに越したことはない!ということを、逆にしっかりやってみました。
私が言葉を紡げば紡ぐほど、言葉に出来ていないところが見え隠れしてきて、そちらにフォーカスがあたるような
そういう現象を何度か、雰囲気だけでも感じた人はいると思います。
このゲームの真髄はそちらにあると思うのですよ。
そして、言葉を紡ぐことで直観から遠ざかるのもまた、「オトナ化」のひとつなのです。
私は、少なくとも自分は、比較的左脳の方が働いている人間だと思っているので、
クルミのような右脳・直観型の人のことは、自分の経験に即して理解することは出来ない立場です。
でも、世の中に色々な人がいて、相性の良し悪しや、そもそも一生出会わないで終わるタイプの人まで
人間性には幅があって、一人ずつが1種族といっていいほど個体差があると感じています。
それはシーマンの実況のときにもお話しました。
そして、そのことは、誰でもいつでも感じられることだし、右脳型とか左脳型とかに関係なく、
本能的にわかることなんじゃないかと思っています。
しかも、辛いことに人間社会でオトナになる際、絶対にそことなんとか折り合いをつけなければいけなくなります。
このゲームが「これを持ってオトナになれ」と言っているもの
このゲームは「オトナになるってどういうことだろう」というテーマを持つことに加えて「察しのゲーム」だと思うのです。
つまり、「誰が何をどういう風に考える人物か、どういった背景を背負っているか」などを
想像して「こういうことなのかもなあ」と思うゲームです。
この新聞ではひらすらそれを積み重ねてきました。
例えば、ニシ君が自分から「オヤジに殴られる」話をする前から、
「オヤジさんに殴られるような家庭環境にいそう」
という可能性を想定できるか、ということです。
で、こうやって記事にすると、それは「言葉」になるので、一種のレッテルとなります。
「イヤなオトナ」化ですw
でも、言葉にするしないを抜きにして、人は「察する力」を持って、日々働かせています。
いや、明確に、その力が未熟であれば出来るだけ今より研ぎ澄まし、働かせるべきです。
レッテルを貼るのは、そうすべきとは思いませんが、「察する力」はどうも、右脳にも左脳にも関係がない、
いわば「心の力」のようなものだと思うのです。
ガード下で盗られてしまうのって、こういうものだと思うのです。
道徳学的な用語にするなら「思いやり」とかもそうです。
ですから「察する力」がなかったり、その能力を育てるつもりがない人にはつまらないゲームなのかなと思いました。
でも、本来そういう人にこそやって欲しいと思うわけです。「察する力」が育つゲームですからね。
まして、これから、人間の画一化という時代でもないのですから、色々な人がいることを踏まえ
常に「察していく」ことが、社会にとってどれだけ必要であろう、ということも考えます。
「あぁ、察してもらえてないな」ということを察してしまうことの方が多いですしね。
自分がというか、自分以外のAさんとBさんというような、他者同士の関係を見ていても思うわけです。
さて、そんなことに考えを巡らすこと自体が、「いいこと・悪いことなどの現象を引き起こす」力ある想いを作り上げたり
「黒いの」に取り憑かれたりすると書きましたが、それって「察すること」とどう違うのという話になります。
ここまでの全体の結論としては、「察すること」「容易に言葉に置き換えないこと」の両方が、
オトナになっていく上で必要なことなのではないかと思います。
「必要なこと」というと語弊があるかもしれません。
うまくオトナ社会で折り合いをつけていくためのヒントと言う方が適切でしょうかね。
ゲームの中でも、「噂」が広まってそれを検証する形で様々な体験をしましたし、現象に触れました。
「噂」というのは言葉です。
言霊という言葉があります。
つまり、言葉に影響力のある想いが乗ってしまっているのが、言霊や、このゲームにおける「噂」の位置づけです。
良い働きをする(七神のように街を守る言い伝えになる)場合もあれば、その逆もありましたよね。
わかりやすい諺で「口は災いの元」というのがあるのを、ネット社会を見ていても身に沁みて思い出すものです。
「察すること」をせず、何も「言葉にしない」なら、生み出すものもないので無害かもしれません。
「察すること」を誤ったり、安易に「言葉にする」なら、それは「噂」や「災い」となるのでしょう。
このゲームの中でいくつもが事例に思い当たることです。
頭でなく心を使う。
そういうことを意識できるオトナになりなさいよ、と言われている感じがしました。
参考:
夕闇通りの歩き方
「夕闇通りの歩き方」夕闇通り探検隊ロケ地ガイド
そこには、クルミが。
そして家の外にはサンゴも。
クルミは病院を抜け出してきたのでしょうか?
どういうわけだかわかりませんが、3人で夜の散歩に出かけることになりました。
途中クルミが再び発作を起こすような仕草をしますが、どうやら冗談のよう。
巡る先は、再びの陽見七神。
この場面も、どの噂を解決しているかで変わるようです。
アイバさん、ナオに「こうすれば呪いが解けてクルミは死なないで済む」って言ったの全部嘘だったんですね。
本当はナオは、七神を全部巡ったところでその存在を認めていればクルミを救えたのかもしれない。
でも、最後に全てを否定してしまった。
それはクルミの世界の否定にも繋がってしまい、クルミをこの世界に繋ぎとめておく者が
ついにいなくなった瞬間だったのです。
クルミを慕っていたアイバさんすら、「お狐さまの噂」のとき「クルミちゃんがいなくなっちゃう!」と言い
自分がいなくなるというフェイクを以って、クルミをこの世界に繋ぐポジションを進んで放棄しました。
カスカちゃんが今いる七神のポストはおそらく近々空くことがわかっていて、その後釜にクルミを据えるため、
七神が皆で仕組んだのです。
クルミを神様の世界へ連れてこられるように。
カスカちゃんは、もう存在自体が微かなものだから、早く交代しなきゃいけなかったんでしょうね。
覚えてくれている人が、もう残り僅かだから。
七神がひとつでも欠けてしまったり、力が弱まったりすると、街全体に良くない影響があると思うし。
夜のお散歩が終わって、日常が戻ってくるのですが、クルミは本来その夜死んでいたはずでした。
じゃあナオとサンゴが見たものはなんだったのか。
それはもう、これまでこのゲームの中で見た、色々な神様や科学で説明できないもの。
つまり、想いが形あるように見せかけてくるような出来事。
クルミがそういう存在になった。そういう瞬間だったのでしょう。
生前クルミと一番時間を共にしていたのは、この二人なので、クルミの想いはそこへ到達し、
サンゴとナオの想いもクルミを呼ぶという風にして。
もはやクルミは想いそのものになったので、この「いるような気がする」というのが、
サンゴとナオの中では、言葉にしなくてもずっと続いていくのだと思います。
まぁ・・・サンゴはそんなことに構っていられるほど暇じゃないみたいですけどね、相変わらずw
なんというか、このゲームを通して、シナリオライターさんがもしかしたら「サンゴシンパ」なのかなあと思う場面は多かったです。
ライターの三島さんは、お話を空想するようなオタク少女時代を送って、背伸びして過ごした後に、
こういうお話を書いてサンゴに自分を重ね合わせたりしていたのかなぁ、という風に感じたりしました。
勿論根拠なんてないですがw
クルミは、人としてなくしてはいけないものをなんとなく知っていて、それをガード下から取り返したりもしてくれました。
その貴重さとかに、サンゴやナオもこれからイヤというほど気づかされていく人生を送ると思います。
それがなんなのか、言葉が存在しないような物だけれど、確かにそういうものがある、というのを
オトナになるにつれ知っていくと思います。
そして一度訪れた危機から救ってくれたのも、ヒントを与えてくれたのもクルミでした。
ナオとクルミが結ばれてハッピーエンド、とならないことに不満を感じるかたもいらっしゃるのかもしれません。わかりませんがw
でも、クルミは多分、生きていようが死んでしまおうが、「みんなに笑っていて欲しい」の一心、その願いのみであったと思うので、
誰かと恋をして、結婚をして・・・というのがクルミの幸せかというとそうではなかったのかもしれませんよ。
ナオ視点では、ナオとクルミが結ばれるのがハッピーエンドでしょうけれども。
また、一番自分と戦い続けていたのはサンゴなので、サンゴが幸せになれないとそれはそれでスッキリしない気もしますよね。
だから、この3人全員が平等に主人公であるなら(メロスすまん)、考えうるベストなエンディングではあったのかもしれません。
人が死んでるのにベストな形なんてあるのかってのも思いますが、ゲームの終わり方としてね。
最後に、プレイ結果が出ます。
これは噂のノートにどれだけの噂を「了」で記したかの総合得点となります。
上から順に「人面ガラスにまつわる噂(4件)」「陽見七神にまつわる噂(6件)」「心霊現象の噂(18件)」「都市伝説(16件)」です。
母数はこれで合計44件になりますが、「人面ガラスにまつわる噂」が2/4ですよね。
その内訳なんですが
『カラスの呪いの噂』 未解決
『浮遊霊の噂』 解決
『殺人ピエロの噂』 解決
『陽見七神の噂』 未解決
で、2/4という形みたいです。
「浮遊霊」がなぜ「人面ガラス」の噂に含まれているかというと、烏塚が以前置いてあった場所だからですね。
学校の裏の烏塚、その前に烏塚があった団地(浮遊霊)、殺人ピエロの井戸が本当の烏塚。
最終日の『陽見七神の噂』は「陽見七神にまつわる噂(6件)」に数えないし、解決もしないという。
まず、『カラスの呪いの噂』はゲームスタートと同時に入手するもので、プロローグで検証したっきり
ノートに表示されているものの、続きの検証は出来ず、未解決のままゲームを終わらざるを得ません。仕様です。
また、『陽見七神の噂』も検証後相談して「了」となったりしませんので、「入手したけれど解決しなかった」扱いになるので、「2/4」みたいですね。
このふたつはどうプレイしても解決はできないので、この「人面ガラスにまつわる噂 2/4」という状態でトゥルーエンドです。
つまり、44の噂のうち、2つはどうやっても解決できず、42(しに)ということです。
とはいえ、意味の深いDEAD ENDだと思いますけれどね。
▲プレイ総括▲
夕闇通り探検隊のテーマその1「オトナになるとは?」
私は「夕闇通り探検隊」は「オトナになるってどういうことだろう」というテーマのゲームだと思うので、
クルミの死の意味を
「オトナになるというのは、(自分の中の)コドモが死ぬ(42しに)ってことだよ」
というメッセージとして解釈することも可能だと思います。
夕闇という時間帯、田舎が都市化していく発展途上の地域、肉体的にも精神的にもオトナになっていく中学2年生という時期。
これらすべてが「オトナになる」ことのメタファーかと思います。
ところで、早速少し話が逸れますが、このゲームをやって「夕闇新聞」を書いてくる中で、
「このキャラはこういう人物だと思う」「こういうことを考えていると思う」
ということを沢山考えて、言葉にしてきましたよね、私。
これはあくまでゲームが相手なので、「非実在人物」についてだと割り切ってやってきましたが、
普通人間社会で暮らしていたら、仮に「あの人はどういう人だろう」「この人はこれをどう考えているんだろう」
ということをしょっちゅう考えたとして、ブログに書きませんね。
だって本当は、そういうことを考えすらしないで済むのが一番平和な気がしますし。
更に、思ったとしていちいち言ってもしょうがないことです。
本人とそれでコミュニケーションをするならまだしも。
でも、これを考えることから完全に逃げ切ることは不可能です。
オトナはある程度考えて、折り合いをつけないといけないですよね。
そこで「自分の中のコドモを殺す必要性」すらあります。
クルミはそれを拒否したし、サンゴはその方法を誤ったし、ナオはそのことに気付いてもいません。
日刊夕闇新聞の役割 〜何重にも俯瞰する〜
私がこのゲームのキャラクターについて「この人はこういう人だと思う」ということを書き記すたびに、
私自身がその記事を経て「かにぱん。はこういう風に考える人なんだな」ということを皆さんに
知られざるを得ない状況を構築して行っているのを、私は痛いほど感じながらそれでもやってみました。
ここで引き起こされるのは、私自身から自分の主観を客観視した、更にその客観視です。
ゲームを俯瞰している私(ここまでは主観を、もう一人の私が一旦俯瞰して、
その上でそれを記事にするという作業の繰り返しだったのです。
そしてそれをまた別の人が見て、本当の客観視が生まれる。
ですから、私は、作業としてはキャラクターのことを主観から文章に起こしているのですが、
同時にえぐられているのは私の心だったわけです。
だってこのキャラクターたちは存在しないのですよ。
私は存在する人間として、「私はこの人はこういうことを思っていると思う」ということを言わなければいけなかった。
そうしなければいけない状況に自分を追い込んだとも言います。
誰が何をどのように考えていると思うかなんて、文章にして人に読んでもらうのは、
相手が実在の人物だった場合、いくらでもトラブルに発展するのを、ネットをご利用の皆さんは
既にご存知だと思います。
でも、皆さんが記事を読むとき、相手があくまで「ゲーム」という虚構世界であるので、
私がするキャラクター解釈を経て
「かにぱん。はこのキャラがこういう風に考えていると思っていると思っている」という
二重括弧解読みたいな状況になるわけですよ。
皆さんに自覚があまりなくとも、日刊夕闇新聞をちゃんと読んでしまった人は、
ある程度私の思考パターンを、知りつつあるはずです・・・。
それを解っていてこういう記事を書くのは結構苦しいものでした。
私はキャラクターの話をしているのに、見透かされるのは私なのです。私はそれを知っているのにやるのです。
本当は誰がどういう風に考えているかなんて、いちいち真剣に考察したり、文章に書き記したりするというのは
とても疲れるし、やらない方がいいことだと思います。精神衛生上w
相手がゲームだからやっただけで、それでも疲れましたしね!w
サンゴの言葉を借りれば、人のことをあーだーこーだ言ってるほど余裕はないというか、
そういうことをするのはくだらないというような頭がある。
そんな風に思いを巡らすこと自体、ゲームの中でも言われているような、
「いいことも、悪いことも現象として引き起こす」想いを生んだり、
「黒いの」に取り憑かれたりすること、そのものだと思うからです。
(けれどあとで真逆のことを言うので、ちょっとこのことは頭に留めて置いてください。)
言葉を紡ぐほど、オトナになるということ
それに、言葉を沢山紡げば紡ぐほど、直観からは遠ざかるというのも知っています。
直観は、幼児性とも関連します。
言葉には定義がついてまわるので、物事や概念にはっきりした枠組みを付加することになります。
それは枠の外を切り捨ててしまうことにもなります。
だから、人のことをどうのこうの言うというのは、その人にレッテルを貼ること以外の何物でもないと思います。
言葉を覚え、使えば使うほど、自分の中のコドモを殺していくことになります。
では何故、「これはこれで苦しいな」とわかっていながらそんな記事を最後まで書き続けたのか!!
その方が、このゲームが持つテーマのうち、言葉に出来ない部分を浮き彫りにするからです。
そのために、ゲームじゃなければこんなことはしないに越したことはない!ということを、逆にしっかりやってみました。
私が言葉を紡げば紡ぐほど、言葉に出来ていないところが見え隠れしてきて、そちらにフォーカスがあたるような
そういう現象を何度か、雰囲気だけでも感じた人はいると思います。
このゲームの真髄はそちらにあると思うのですよ。
そして、言葉を紡ぐことで直観から遠ざかるのもまた、「オトナ化」のひとつなのです。
私は、少なくとも自分は、比較的左脳の方が働いている人間だと思っているので、
クルミのような右脳・直観型の人のことは、自分の経験に即して理解することは出来ない立場です。
でも、世の中に色々な人がいて、相性の良し悪しや、そもそも一生出会わないで終わるタイプの人まで
人間性には幅があって、一人ずつが1種族といっていいほど個体差があると感じています。
それはシーマンの実況のときにもお話しました。
そして、そのことは、誰でもいつでも感じられることだし、右脳型とか左脳型とかに関係なく、
本能的にわかることなんじゃないかと思っています。
しかも、辛いことに人間社会でオトナになる際、絶対にそことなんとか折り合いをつけなければいけなくなります。
このゲームが「これを持ってオトナになれ」と言っているもの
このゲームは「オトナになるってどういうことだろう」というテーマを持つことに加えて「察しのゲーム」だと思うのです。
つまり、「誰が何をどういう風に考える人物か、どういった背景を背負っているか」などを
想像して「こういうことなのかもなあ」と思うゲームです。
この新聞ではひらすらそれを積み重ねてきました。
例えば、ニシ君が自分から「オヤジに殴られる」話をする前から、
「オヤジさんに殴られるような家庭環境にいそう」
という可能性を想定できるか、ということです。
で、こうやって記事にすると、それは「言葉」になるので、一種のレッテルとなります。
「イヤなオトナ」化ですw
でも、言葉にするしないを抜きにして、人は「察する力」を持って、日々働かせています。
いや、明確に、その力が未熟であれば出来るだけ今より研ぎ澄まし、働かせるべきです。
レッテルを貼るのは、そうすべきとは思いませんが、「察する力」はどうも、右脳にも左脳にも関係がない、
いわば「心の力」のようなものだと思うのです。
ガード下で盗られてしまうのって、こういうものだと思うのです。
道徳学的な用語にするなら「思いやり」とかもそうです。
ですから「察する力」がなかったり、その能力を育てるつもりがない人にはつまらないゲームなのかなと思いました。
でも、本来そういう人にこそやって欲しいと思うわけです。「察する力」が育つゲームですからね。
まして、これから、人間の画一化という時代でもないのですから、色々な人がいることを踏まえ
常に「察していく」ことが、社会にとってどれだけ必要であろう、ということも考えます。
「あぁ、察してもらえてないな」ということを察してしまうことの方が多いですしね。
自分がというか、自分以外のAさんとBさんというような、他者同士の関係を見ていても思うわけです。
さて、そんなことに考えを巡らすこと自体が、「いいこと・悪いことなどの現象を引き起こす」力ある想いを作り上げたり
「黒いの」に取り憑かれたりすると書きましたが、それって「察すること」とどう違うのという話になります。
ここまでの全体の結論としては、「察すること」「容易に言葉に置き換えないこと」の両方が、
オトナになっていく上で必要なことなのではないかと思います。
「必要なこと」というと語弊があるかもしれません。
うまくオトナ社会で折り合いをつけていくためのヒントと言う方が適切でしょうかね。
ゲームの中でも、「噂」が広まってそれを検証する形で様々な体験をしましたし、現象に触れました。
「噂」というのは言葉です。
言霊という言葉があります。
つまり、言葉に影響力のある想いが乗ってしまっているのが、言霊や、このゲームにおける「噂」の位置づけです。
良い働きをする(七神のように街を守る言い伝えになる)場合もあれば、その逆もありましたよね。
わかりやすい諺で「口は災いの元」というのがあるのを、ネット社会を見ていても身に沁みて思い出すものです。
「察すること」をせず、何も「言葉にしない」なら、生み出すものもないので無害かもしれません。
「察すること」を誤ったり、安易に「言葉にする」なら、それは「噂」や「災い」となるのでしょう。
このゲームの中でいくつもが事例に思い当たることです。
頭でなく心を使う。
そういうことを意識できるオトナになりなさいよ、と言われている感じがしました。
参考:
夕闇通りの歩き方
「夕闇通りの歩き方」夕闇通り探検隊ロケ地ガイド
コメント
コメント一覧 (2)
全く知らない作品でしたが一話目から引き込まれ 毎日の楽しみとなり、かにぱんさんにはすごく感謝しています。
ありがとうございました!
130話以降の結末は購入して自分で確かめようと思いましたが・・・スゴイ価格になっておりPSアーカイブで配信されるのを祈っております。
ですが我慢できず、ニコニコ動画で残り4話を拝見させていただきました。
当ブログで書かれてある記事にとても感銘をうけました。
私は右脳のみで生きているような者なので(笑)
クルミのような扱いをされてる感覚はありますが
ゲーム中はアイバさんに一番感情移入していたみたいです。
この作品で感じたことは誰か一人でもいいので互いに思いあえる人ができれば
その人たちは救われるのだと思いました。
でもそれを否定される 別れ がのが何よりも怖いので 声をかける勇気も持てなくなってしまう。
ナオくんは大人へと向かう体験をすることになりましたが
このゲームのプレイヤーによってはナオやサンゴと共に歩んでいくのか
クルミやアイバさんと共に歩んでいくのか、別れていくような感じがしました。
私は大人へと進めず不思議な空間に生きている感覚があります(笑)
絵描きや漫画家やゲームクリエイターなど、幼き気持ちが必要とされる職業もありますので
大人にならない道への理解をクルミを通じて考えさせてくれた作品でした。
私も実はこの作品に近いテーマの漫画を描き進めていますので
この作品に出合えたこと、かにぱんのトークや記事が(しーマンとのやりとりも)すごく勉強になりました。
また別の作品楽しみに拝見させていただきます。
はじめまして!
わざわざコメント頂き恐縮です。今、中古でプレミア価格になっていてとても即決で買える値段ではないんですよね…。
移植やVC配信で、より多くの方がプレイできるようになると嬉しいですね!
実況動画、次は8月くらいに新しいのを連載できると思います。現在鋭意編集中でして。
また遊びに来て下さい^^