ハリーポッターシリーズは、1〜3は映画館で見たし、この4作目までは小説でも追ってた。
でも、もう数年前だから、小説の内容もよく覚えていないし映画も完結までまとめて見るのもありだなあ、と思って
重い腰?を上げたような、対して重くもなかったような。
とにかく、これを皮切りに一気に完結まで見て行こうと思っているので、今日はまだまだそのスタート地点という感じでいる。
ハリーポッターシリーズてのは、子供向けのファンタジー小説というジャンルに収まりきらない部分があると私はおもうし、
そう指摘している評論家も少なくないような気がするけど、評論をそんなに読んでいないので気のせいかもしれないし、それはさておいておくか。
つまり、1作目からこれまでずっと私が思っているのは、ミステリー風の要素がとても面白いということ。
「潜り込んでるのはどこのどいつだ!?」
ってのがいつも事件の要になってる。
そのための伏線が、それぞれのシリーズ冒頭からずーーーっと張られまくっていって、最後に全部ズバーン!と回収される爽快さというのが面白み。
だから、1作目なんかは、小説で「なるほど確かにこりゃおもしれえ!!」ってなった後に、映画を見に行ったら
そのあたりの面白さがだいぶ端折られてしまっていて、映像化のほうに力を注ぐことにしたのかな〜なんて感想に至った。
正直言えば少し残念だったのだ。
元々1時間半だとか2時間という映画の尺の中に、あの膨大な情報量をすべて詰め込むのは無理があるから仕方ないとも思った。
しかし、そのあたりも映像の質も徐々に変わってきて、小説の読後感とは確かに違うけれど、それでもあの
伏線回収がズバーン!といく感じってのはかなり表現されるようになった気がする。(監督が変わったからなのか?一因であってすべてとは言えないが)
それでいて映像化して欲しい部分もしっかりしてくれている感じがして良い。
ハリーが今作の冒頭で「魔法ってすごいなあ!」って感嘆するところがあるのだけど、それもこのシリーズの魅力なのだから
私たちに非日常感を与えてくれる、そういう映像を見せてくれる映画シリーズとして期待している部分に応えてくれるのは嬉しい。
文章を読んだら、頭の中で想像を働かせることさえ出来れば「見たような気持ち」にはなれるけれど、
やはり実際に見せられると視覚的な刺激として得られるから想像とは違う。
ただ、余談なのだが、想像するということそれ自体の能力は、本を読んで自分で想像力を働かせるという訓練のようなものが必要だから
与えられた視覚情報だけをたよりにすることで、その能力が育まれないとしたらそれは悲しいので、子供たちには沢山本も読んで欲しい。
まず自分で本を読んで想像してみて、それから映像で見たときに必ず思っていたのと違う部分っていうのも出てくるし
勿論思っていた通りに映像になってるという部分もあるだろう。
先に文章を元に自分で想像するという工程がなければこのギャップすら感じないで、与えられたものを受け取るだけになる。
新しいものを「創造」するには、「想像力」も必要だと思うので、受け取るだけの人間にならないで欲しいと思う。
それで、この作品が子供たちに沢山「読まれる」ことはとても良いことだな、と考えている。
映画化「も」されたのであって、出来れば「小説シリーズ」としてその価値があることを知って、読んで欲しいな、と。
すでに沢山売れている本だから、私が想像している以上に多くの子達が読んでいるのだろうけどね。
売れている本には売れているなりの理由があるな、って、読んで本当に思ったからまだ読んでない人には是非読んで欲しいや。
私は、「不死鳥の騎士団」の序盤で止まっているんだ。映画を見る前に完読したいけど、実家に送ってしまったー!!Σ
それで、子供たちにも、これらのシリーズの本の厚さにむしろワクワクして欲しいなあ。
厚い本を見て「うわー読みたくない!」って引いてしまうのってもったいない。
それに1巻が出て「ハリーポッターがすげえ!」って社会現象になったときによく聞いたエピソードでは
子供に読み聞かせている親のほうがストーリーに引きこまれて、子供を寝かしつけた後に
自分が徹夜で読破してしまった、なんてのも多かった。
それだけ、大人が読んでも読み応えがあるってことが実証されてるから、子供向けファンタジーの枠に収まりきらないんじゃないかって思う。
それだけ幅広い世代に楽しんでもらえるお話だよね。
とにかく今回も、「2回連続で見たくなる」ような作品でよかった。
それってつまり、「このトリックどこから始まってたの!?」みたいなことだから、すっかりハメられちゃったってことだね。
あぁ、この点はね、映画なんかだと一時停止して自分で考える時間なんかも作ったらいいかもしれないね。
小説は、自分のペースで読むから「今日はここまでにしよう」とか、「ちょっとまって考えるから」って読むのを中断できるけど
映画はストップしない限り映画のペースで話が進んでいくからね。
その「いつのまに!?」を探すっていうのも、この作品の楽しみ方の一つのような気がするな。
ただ伏線が張られていくのを「今の伏線だ!」って思うだけじゃなくて、ある程度話が進展したら
「で、結局誰が、どうやって仕組んだんだ?」って考えるタイミングを持つのが楽しいと思うんだ。
それにやっぱりそこでも、与えられたものに「ふーん」ってなるだけじゃなくて、自分で想像したり、仮定してシミュレーションしたり、
そういう思考力を育てると思うなあ。
「テレビばかり見ているとバカになる」とか「漫画やアニメが犯罪者を育てる」とかじゃないよね。
「テレビが言ってたんだから嘘なわけない」みたいなこと言う人ってテレビを見る前の段階でそういう状態に作り上げられてる可能性のほうが高くないか?
犯罪者が犯罪を犯すのは漫画やアニメ、ゲームに影響を受けたからじゃなくて、その影響で犯罪を犯すような
メンタリティに、もっと前の段階で作り上げられてたんじゃないのか?
本当に「想像力」っていうのは、「創造」して生きること以外にも必要不可欠だと思うよ。
人間同士で支え合って生きていくのが人間社会なんだから、他の人間のことを「想像」できないっていうのは支え合うための資質に欠く。
私は、流行を「流行っているから」という理由だけで単純に、「乗せられ」ちゃうのはとても嫌なんだけど、
真に流行っている理由があるならそれは知っておきたいから、ハリーポッターに関してはどうしてそこまで流行ったのか、
世界の人々に受け入れられたのかっていうのは、実際に触れてみることで知れて納得したからよかったよ。
(作られた流行だったら、流行るだけの理由を頑張って探しても空虚だったりするからね。所詮は作られてたんだってなる。)
色々な「大人」が出てきて、学校での生活と同時に、大人の社会に触れながら
ハリーが成長していくっていうのも大切なポイントになっているよね。
ファンタジーなだけじゃなくて、現実の世界の「社会の縮図」になっているから、学校と家庭と習い事くらいが世界の全てである子供たちにとっては
どのタイミングで「大人の社会」に触れるかは結構大切な気がするんだ。
社会科見学なんて授業の一環として行われるけど、本当にうわべしか見えない。(見せないのかも)
あれは「嘘も方便」ってことなのかもしれないけどね。
でも、いずれは必ずその中に飛び込んで「社会科見学で知ったことなんてうわべだった」と知る日が来るし。
それは早すぎてもいけないけれど、遅すぎても何かが手遅れになるんだよね。
ハリーポッターは、ハリーの年齢に合わせて読み手側も読んでいったらいいんじゃないかなあ。
もちろん、すでに大人であればその限りではないけど、子供はね、一緒に成長できる気もするんだなあ。
これからもハリーと同年代の子供たちが自分の年齢のハリーポッターを読み進めていったらいいなあと思う。
キリのいいところまで仕事を進めたら、続きのDVDを借りてこよう。
でも、もう数年前だから、小説の内容もよく覚えていないし映画も完結までまとめて見るのもありだなあ、と思って
重い腰?を上げたような、対して重くもなかったような。
とにかく、これを皮切りに一気に完結まで見て行こうと思っているので、今日はまだまだそのスタート地点という感じでいる。
ハリーポッターシリーズてのは、子供向けのファンタジー小説というジャンルに収まりきらない部分があると私はおもうし、
そう指摘している評論家も少なくないような気がするけど、評論をそんなに読んでいないので気のせいかもしれないし、それはさておいておくか。
つまり、1作目からこれまでずっと私が思っているのは、ミステリー風の要素がとても面白いということ。
「潜り込んでるのはどこのどいつだ!?」
ってのがいつも事件の要になってる。
そのための伏線が、それぞれのシリーズ冒頭からずーーーっと張られまくっていって、最後に全部ズバーン!と回収される爽快さというのが面白み。
だから、1作目なんかは、小説で「なるほど確かにこりゃおもしれえ!!」ってなった後に、映画を見に行ったら
そのあたりの面白さがだいぶ端折られてしまっていて、映像化のほうに力を注ぐことにしたのかな〜なんて感想に至った。
正直言えば少し残念だったのだ。
元々1時間半だとか2時間という映画の尺の中に、あの膨大な情報量をすべて詰め込むのは無理があるから仕方ないとも思った。
しかし、そのあたりも映像の質も徐々に変わってきて、小説の読後感とは確かに違うけれど、それでもあの
伏線回収がズバーン!といく感じってのはかなり表現されるようになった気がする。(監督が変わったからなのか?一因であってすべてとは言えないが)
それでいて映像化して欲しい部分もしっかりしてくれている感じがして良い。
ハリーが今作の冒頭で「魔法ってすごいなあ!」って感嘆するところがあるのだけど、それもこのシリーズの魅力なのだから
私たちに非日常感を与えてくれる、そういう映像を見せてくれる映画シリーズとして期待している部分に応えてくれるのは嬉しい。
文章を読んだら、頭の中で想像を働かせることさえ出来れば「見たような気持ち」にはなれるけれど、
やはり実際に見せられると視覚的な刺激として得られるから想像とは違う。
ただ、余談なのだが、想像するということそれ自体の能力は、本を読んで自分で想像力を働かせるという訓練のようなものが必要だから
与えられた視覚情報だけをたよりにすることで、その能力が育まれないとしたらそれは悲しいので、子供たちには沢山本も読んで欲しい。
まず自分で本を読んで想像してみて、それから映像で見たときに必ず思っていたのと違う部分っていうのも出てくるし
勿論思っていた通りに映像になってるという部分もあるだろう。
先に文章を元に自分で想像するという工程がなければこのギャップすら感じないで、与えられたものを受け取るだけになる。
新しいものを「創造」するには、「想像力」も必要だと思うので、受け取るだけの人間にならないで欲しいと思う。
それで、この作品が子供たちに沢山「読まれる」ことはとても良いことだな、と考えている。
映画化「も」されたのであって、出来れば「小説シリーズ」としてその価値があることを知って、読んで欲しいな、と。
すでに沢山売れている本だから、私が想像している以上に多くの子達が読んでいるのだろうけどね。
売れている本には売れているなりの理由があるな、って、読んで本当に思ったからまだ読んでない人には是非読んで欲しいや。
私は、「不死鳥の騎士団」の序盤で止まっているんだ。映画を見る前に完読したいけど、実家に送ってしまったー!!Σ
それで、子供たちにも、これらのシリーズの本の厚さにむしろワクワクして欲しいなあ。
厚い本を見て「うわー読みたくない!」って引いてしまうのってもったいない。
それに1巻が出て「ハリーポッターがすげえ!」って社会現象になったときによく聞いたエピソードでは
子供に読み聞かせている親のほうがストーリーに引きこまれて、子供を寝かしつけた後に
自分が徹夜で読破してしまった、なんてのも多かった。
それだけ、大人が読んでも読み応えがあるってことが実証されてるから、子供向けファンタジーの枠に収まりきらないんじゃないかって思う。
それだけ幅広い世代に楽しんでもらえるお話だよね。
とにかく今回も、「2回連続で見たくなる」ような作品でよかった。
それってつまり、「このトリックどこから始まってたの!?」みたいなことだから、すっかりハメられちゃったってことだね。
あぁ、この点はね、映画なんかだと一時停止して自分で考える時間なんかも作ったらいいかもしれないね。
小説は、自分のペースで読むから「今日はここまでにしよう」とか、「ちょっとまって考えるから」って読むのを中断できるけど
映画はストップしない限り映画のペースで話が進んでいくからね。
その「いつのまに!?」を探すっていうのも、この作品の楽しみ方の一つのような気がするな。
ただ伏線が張られていくのを「今の伏線だ!」って思うだけじゃなくて、ある程度話が進展したら
「で、結局誰が、どうやって仕組んだんだ?」って考えるタイミングを持つのが楽しいと思うんだ。
それにやっぱりそこでも、与えられたものに「ふーん」ってなるだけじゃなくて、自分で想像したり、仮定してシミュレーションしたり、
そういう思考力を育てると思うなあ。
「テレビばかり見ているとバカになる」とか「漫画やアニメが犯罪者を育てる」とかじゃないよね。
「テレビが言ってたんだから嘘なわけない」みたいなこと言う人ってテレビを見る前の段階でそういう状態に作り上げられてる可能性のほうが高くないか?
犯罪者が犯罪を犯すのは漫画やアニメ、ゲームに影響を受けたからじゃなくて、その影響で犯罪を犯すような
メンタリティに、もっと前の段階で作り上げられてたんじゃないのか?
本当に「想像力」っていうのは、「創造」して生きること以外にも必要不可欠だと思うよ。
人間同士で支え合って生きていくのが人間社会なんだから、他の人間のことを「想像」できないっていうのは支え合うための資質に欠く。
私は、流行を「流行っているから」という理由だけで単純に、「乗せられ」ちゃうのはとても嫌なんだけど、
真に流行っている理由があるならそれは知っておきたいから、ハリーポッターに関してはどうしてそこまで流行ったのか、
世界の人々に受け入れられたのかっていうのは、実際に触れてみることで知れて納得したからよかったよ。
(作られた流行だったら、流行るだけの理由を頑張って探しても空虚だったりするからね。所詮は作られてたんだってなる。)
色々な「大人」が出てきて、学校での生活と同時に、大人の社会に触れながら
ハリーが成長していくっていうのも大切なポイントになっているよね。
ファンタジーなだけじゃなくて、現実の世界の「社会の縮図」になっているから、学校と家庭と習い事くらいが世界の全てである子供たちにとっては
どのタイミングで「大人の社会」に触れるかは結構大切な気がするんだ。
社会科見学なんて授業の一環として行われるけど、本当にうわべしか見えない。(見せないのかも)
あれは「嘘も方便」ってことなのかもしれないけどね。
でも、いずれは必ずその中に飛び込んで「社会科見学で知ったことなんてうわべだった」と知る日が来るし。
それは早すぎてもいけないけれど、遅すぎても何かが手遅れになるんだよね。
ハリーポッターは、ハリーの年齢に合わせて読み手側も読んでいったらいいんじゃないかなあ。
もちろん、すでに大人であればその限りではないけど、子供はね、一緒に成長できる気もするんだなあ。
これからもハリーと同年代の子供たちが自分の年齢のハリーポッターを読み進めていったらいいなあと思う。
キリのいいところまで仕事を進めたら、続きのDVDを借りてこよう。
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