2003.11.30

私は運転免許は持っているが、自分の車は持っていない。

それから車に関してはあまり詳しくない。
車名とかパーツとか、言われてもあまりピンと来ないほうだ。

今回は「車」というものに対しての意識を書くことになる。

というのは、
もうだいぶ前の話(2003/02/09)になるが、知り合いの車が廃車になった。
この車にはだいぶお世話になったこともあるが、持ち主がとりわけ
その車に愛着を抱いていたこともあり、私もその影響を受けて
愛着を湧かせていた。

その車はうちの弟と同じ年に出た型のTOYOTA VISTAで、
15年近くなるもので、「びす太ちゃん」と呼んで親しんだ。

それだけ古いものだから、アクセルなんか踏んだって
思ったように加速しないのは当然だし、ブレーキの遊びが多すぎて
運転に不安を感じるような車だ。
ハンドルなんか日に焼けすぎて皮がはがれて、ちょっと運転した後は
膝の上にボロボロと皮の破片が散らばっていて、苦笑いしてしまう。

オーディオもカセットしか聴けないし、後ろの窓についている
曇り止めなんかだいぶ前から使い物にならなくなっていたようだし、
高速道路で走ると車体がふわふわしてとても腰が落ち着かない上に
ときどき気が向くと「キコン」と速度警告の音を出してみたりする。

そういう不具合があるから不便なことは不便だったりするけど
その「頑張って走っている感」にまた愛着が深まったりする。

ちょっと無理して速度を出したり、急な坂を登ったりしたときは
「無理させてごめん」とどこか車内の適当なところを撫でたくなるような
感じがしてしまう。

そして、それまで車に対して特にこれといった「感情」はなかった私だが
「車はパートナー」だ、と感じるようになった。

車はその持ち主のパートナーであり、足であり、一緒に旅をするお供であったりする。

それまでは単なる「道具」の一つとしか思っていなかった車に
「人格」さえ感じるようになってきた。

今日は調子が悪いとか、ご機嫌斜めとか、
そういうことを車を擬人化して考えるのが普通になってきた。

車を前から見ると、顔に見える。
それは小さい頃から思っていたけど、その顔にその車ごとの人格が
見えるような気さえしてくる。
この車は気が強そうだとか、弱そうだとか、眠そうだとか…
到底車とは関係ないような「感情論」が飛び出してくるのが不思議だが、
いったんそうなってしまうと、もう車をただの「道具」としては
見られなくなっている

だから、その廃車には意外なまでにショックを受けた。

初めて「愛着」というものを感じた車が、もう二度と、
道路を走ることはなく、どこかの工場でスクラップにされると思うと
涙が出た。
そして、きっとそうなったであろう今も、思い出すと涙が出るのだ。
どこもかしこもボロボロで、パワーもなくて、
それでも頑張って走ってくれたことを知っているからなんだかすごく悲しかった。

うちは実家の職業柄、毛が舞うような動物はペットとして飼ったことがなかった。
飼った事があるのは水棲生物と小鳥だけだ。
人格を感じさせる動物であるほど別れは悲しいものだと思うが、
そういう動物を飼ったことがないのである。
しかし、車が廃車になったときに、この悲しみは、犬とか猫とかのペットを
失った悲しみに似ているような気がした。
車は生き物ではないのに…

びす太ちゃんが廃車になったのは最初にも書いたが、もう随分前のことだ。
そのときから、このコラムを書こうと思っていたが、
「車が廃車になった。悲しい」しか書けない気がして、放置していた。
最近また知り合いの車が一台廃車になって、悲しくなって
それと同時に「車」に対する自分の気持ちみたいなものがわかって
こうしてやっと書いてみた。

こんな風にいつ思い出しても涙がにじむのだが、自分の車があったら、
もし何かの理由で突然廃車にするなんて、なんて悲しいことだろうと思う。

また別の知り合いの車がオーバーヒートで突如廃車になったときは
持ち主が「乗れなくても置いておきたい」と言っていた気持ちがわかる気がする。

車を持つのにはお金がかかるけれど、ペットと同じで、
いつかはその車と別れる時が来ると思うとなんだか悲しくなるのは私だけだろうか。
そりゃ、精一杯大事にしてかわいがって、役に立ってもらって
それでもうだめです〜って廃車になるなら車も本望のような気もするけど…
いや、車に本望とかないんだけど…

そんな結構複雑な心境で車のことを考えています


というわけで…ってわけじゃないんですが
東京モーターショーの写真をうpします。