この記事で取り上げる作品をまずリンクしてしまうことにする。





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アニメ『PSYCHO-PASS』を何周も観ている。
『PSYCHO-PASS』については、別途記事を立てる予定なので、そちらで詳しく語りたい。
なので『PSYCHO-PASS』をここで取り上げている理由だけ簡潔に言うが、登場人物の槙島聖護が
SF小説に関して話すセリフにこんなの(概要)がある。

「フィリップ・K・ディックを読むならまずは『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』からがオススメかな。
のちに映画化もされている(これが『ブレードランナー』のこと)。
映画と原作では、結末が少し異なる。あとで暇がある時に比べてみると良い……」

だから言われたとおりにしてみた。
つまり原作小説を読んでから、映画を観て結末がどんな風に異なるのか比べてみたのだ。
ちなみに、映画と小説両方に触れるというのは、そこそこやる。
例えば、ハリーポッターや12モンキーズ、チャーリーとチョコレート工場、
それにスティーブン・キングの作品のいくつかは、映画も見たし原作小説も読んだ。

今回の場合は、先に小説を読んでから映画を見るという順序にしてみた。
小説をKindleで読み、映画はYoutubeで。

尚、『ブレードランナー』自体は、割と昔からタイトルを知っている。
父が映画好きで、私が小5の頃にVHSのデッキが家に導入されてから、テレビの映画番組を、
3倍速録画でカセット500本分も撮って、「何番のビデオには何の映画」というリストを作っていたので
そこで『ブレードランナー』のタイトルを見かけたことがある。
父が面白いと言ってたのも聞いたような聞いていないような……。
でも、実家でそのVHSを観たことはついぞなかったので、この機に小説と比較しながら初視聴することにしたのだ。

ちなみに『ブレードランナー(1982年)』には3種類の編集版があり、
私は記事冒頭に貼ったファイナルカットを、Youtubeで400円払って鑑賞した。



比較した結論を言おう。



「槙島ァーー!!! ”結末が少し違う”どころの話じゃねえぞ、これ!?」


いまだかつて、ここまで改変されている映画を観たことがない私は果たして幸せなのか不幸なのか!?(錯乱)
いや、この改変自体は別に良いとも悪いとも思ってないし、批判する気も一切ない。
改変について批判できる人物がいるとすればそれは原作者だし、フィリップ・K・ディックは映画が完成する前に亡くなったので、
彼が、この映画を観て原作者としてどう思ったかはもはや知りようがない。
「観て、思う」よりも前に亡くなってしまったので。
私は、ただ改変の「度合い」がすごすぎて、ひたすらに驚いた。そして槙島にツッコミたくなった。
「これ、もはや別物だからタイトルとかキャラクター名とか変えて全くの別作品ってことにして
”アンドロイドは〜”を原作として掲げる必要もなくない!?」
くらい変わってる気がする!

槙島!!!!!
「結末が少し異なる」ってのは、『チャーリーとチョコレート工場』くらいのやつに言ってくれ!!!


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では、原作の『アンドロイドは〜』について語ってみる。
まず、この作品の魅力は、「SFを通して作者の人間観、思想、哲学が見えてくるところ」だと思う。

そもそもこの作品の世界において、
パッと見ただけでは、人間なのかアンドロイドなのかがわからない程度には
アンドロイド技術が発達している。
これは映画でも同じだ。

しかし小説の方では更に一歩踏み込んでいる。
「人間の方も、自分が人間かアンドロイドかわからなくなるときがある」世界なのだ。
「自分は人間である」という疑似記憶を埋め込まれたアンドロイドと人間では、
「自分で自分が何者だと思っているか」ということだけでは自分自身を定義しきれない。
そこまでアンドロイドは人間に「近づいて」いる。

ではどのように、「人間とアンドロイド」を区別するかというと、
「生き物に対する共感や憐憫の感情」があるかどうか、特定の設問に対するその反応の速度と度合いから判定するのだ。
だからこそ、人間は「共感」ということに拘り、自分が「共感出来る」ことを日々確かめ、動物を飼う。
それが「自分は人間だ…よな」という確信と安心をもたらす。

そのため、小説には
・共感(エンパシー)ボックス
・ムードオルガン
・電気羊
などの未来アイテムが出てくるわけだ。
これらは、人間が自分の共感力を高めたり確かめたりするためにあるし、それを演出するために考案された物であろう。

共感ボックスを使えば、世界中の人と「意識」を融合し、共感しあえる。
そしてそれが人々の救いになるとする「マーサー教」という宗教が存在する。
マーサー教信者は多い。
当然だが、アンドロイドはマーサー教を信じない。

ムードオルガンは、複数のボタンをダイヤルすることで、使用した人間の「気分」が変わる。
例えば「風呂に入って寝たい気分になる」番号とかがある。
「風呂に入って寝なければいけないのに、そういう気分ではない」ときに、
ムードオルガンでその番号をダイヤルすると、自分の気分を「そういう気分」に出来る。
これは、まるで「アンドロイドにプログラムを遂行させる」のに似た気持ち悪さがある。
ムードオルガンで「気分を容易に左右されてしまう」ような生活に「人として」憧れるか? と
問われているような感じがした。

世界は放射性物質で汚染されているので、火星にテラホーミングした人もいるし、
ざっくばらんにいうと知能指数が低くテラホーミングを許可されない”マル特”と呼ばれる被差別層もある。
そして放射性物質のせいで多くの動物は絶滅したので、今や動物を飼育したかったら
「電気仕掛けであることを秘密にしながら」電気ペットを飼うか、超大金を払ってリアル動物を買うしかない。
動物を飼うこと自体がひとつのステータスだし、おそらくそれが「アンドロイドではない」ことの証明も兼ねるし、
「飼っているのが電気ペットだ」というのは、世間体としてはバレると恥ずかしいことなので、
電気ペットが故障しかけたら動物病院を装った電気ペット修理屋に預けたりしないといけない……。

これが『アンドロイドは〜』の世界観なのだが、『ブレードランナー』には
共感ボックスもムードオルガンも電気羊も出てこないw
かろうじて「電気梟」が出てくるところでは、「数少ない原作どおりシーン!」と思ったが、
「電気仕掛けの動物と社会的ステータス」という要素はまるごとオミットされていたw

いずれにしても、「人間自身も自分が人間であるという確固たる自信を持てなくなることがある社会」で、
では「何が人間を人間たらしめるのか」ということを描いているのが、この小説の重要なポイントだと思う。
そして、「(アンドロイドを除く)他者や動物への共感」が、
その問いへのひとつの答えとして提示されているように感じる。

主人公リックは「アンドロイドに同情の念を懐き始めている自分の精神状態を疑う」描写がある。
その上で、レイチェルとセックスする。
レイチェルと全く同じ型のアンドロイドを抹殺する直前にあえて、取引としてだ。
またレイチェルの方はレイチェルの方でアンドロイドなので、ただの「美人局」の任務を遂行しているのみである。
つまりリックがレイチェルとセックスするのは、レイチェル側からすると予定調和でしかない。
「計 画 通 り」
こうすることで、「アンドロイドに情が湧いたバウンティハンターは足を洗うしかなくなる」からなのだが
リックはそこで辞職せず任務を完遂するので、レイチェルからの報復(?)として、
報酬金30万をすべて頭金としてつぎ込んだ生の黒山羊を、買った翌日に殺されるオチが待っている……。
そして「あの時実際はレイチェル殺しておくべきだった……」と後悔して終わるのだ。

一方、”マル特”であるイジドアという人物も、逃亡中のアンドロイド「プリス」を好意で匿ってあげるのだが
プリスはイジドアが折角見つけたリアル蜘蛛の脚を、興味本位で4本も切り落とす。
「脚8本も要らなくない? 半分でよくない?w」
みたいなこと言いながら脚をハサミでちょん切っていくシーンは、この小説で最もえぐい場面と思う。
マル特というのは、マル特でない人に比べると
「アンドロイドに情が湧きやすい質」を指しているのかもしれない。
そういう人が、アンドロイドが奴隷として使役されている火星に来ると、巡り巡って厄介だから……。
そしてマーサー教信者であるイジドアもこの経験が元で、「マーサーとの融合の神秘体験をする」
というような描写がある。
こういったシーンで、私の中には
「こういう観想的なシーンをどのように映画に取り入れるのだろう???」
という興味が湧いた。
結果から言うと、「全てオミットされていた」がw
プリスはいるがイジドアは存在しないし、マーサー教もない。
誰もが知っている「バスター・フレンドリーとフレンドリー・フレンズ」なるバラエティ番組も一切出てこない。
この番組も、小説の中においては結構な存在感を放っているのだが……。


そういったわけで、小説を読んでから映画を見てみると、
「同じところを数え上げるほうが早い」レベルに違うところだらけだったわけでもうそれはそれは驚いた。

小説にはいない人物が出るし、小説に出る人物が出ない。
例えばリックは小説では妻帯者だし、彼なりに家庭を大事にしているのに映画では独身?のようで
奥さんは出てこない。
イジドアが出てこない代わりに、アンドロイド開発に携わったというJF・セバスチャンという人物が出てくる。
レイチェルは小説ではあまり同情の余地のないアンドロイド(ハニトラ)だが、映画ではヒロインポジションだ。
「感情が芽生え始めているのに、寿命が迫っている切ない存在」として描かれながら終わってびっくりした。
「は!? あの美人局が!?」

また映画には、小説にないグロシーンも多い。
アンドロイド開発会社の社長がロイに頭や目を素手で潰されて死んだり、リックが指を2本折られたり
ロイが右手に楔を打ち込んだり。
小説で一番グロいのは、例の蜘蛛の脚をハサミで切るところではないだろうか。

映画に出てくるセクサロイド?だか、ストリップショーみたいなのをやっていてリックに追われるアンドロイド、
おそらく原作でいうところの”オペラ歌手”だと思う。
原作では、オペラの「魔笛」を上演し、
「あんなに素晴らしい歌声を持つアンドロイドが、存在を否定される意味は?」
とリックが、自分の仕事に自信を持てなくなるキッカケになる女性アンドロイドがいる。
それに取って代わる存在として、映画にはストリップ女優アンドロイドが出てくる。
よって魔笛の要素もオミットされたw


こうして見ると、映画は「短時間で描ききる、映像エンタメコンテンツ」の方へ舵を振り切るために、
このような改変(「あるひとりの男性が反乱を起こしたアンドロイドを追跡する」という要素以外大幅にオミット)を
したのだろうということが推察されるし、読んでいる最中や読後に
「いや〜これどうやって映画にするんだろう?」
と湧いた疑問は大体「そこは描かない」という回答が提示されたことになる。

となると、原作で源流に流れているテーマ
「人間は、人間以外と何が異なるのか」「人間とは何か」という作者の哲学は、
この作者と、小説という媒体だから描かれたもので、この設定のまま映画にするのは
案外難しいということなのかな……と考えたりした。
もしも、小説の話の筋をそっくりそのまま映像化したとして、それが『ブレードランナー』ほど
映画としてウケたかはわからない。
見終わった人は「は? これで終わり!?」と思うかもしれないし、「荒唐無稽」と評されたかもしれない。
でも、これが「荒唐無稽」で一蹴されないで済むのが、小説という媒体の強みなのではないだろうか。
小説と映画、どちらのほうが媒体として「優れている/劣っている」というような優劣の次元の話ではなくて、
持っている性質そのものが「そう」という感じがした。
『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は小説でなくてはいけなかったし、
『ブレードランナー』もあの展開にしないと映画として成立しなかったのかもしれない。


久々に強烈な体験だったので、映画鑑賞済みで原作未読の方には原作を読んでビビって欲しい。