2017年のTGSで最も衝撃を受けた発表はこれだった。



いってらっしゃい、またあとで Project one-room(仮)

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このブログには「ルーマニア#203」という記事カテゴリがある。
しかし、もうこの先、このカテゴリにそうそう記事が追加されることはないだろう、と思っていた。

生放送での実況もしたし、その後更に動画でも実況したし、
このゲームのどこがどうすごくて、私がどれだけ好きか散々語ったし。


「ルーマニア#203」そして続編の「ニュールーマニア」は、あまねく「表現者」が
創作意欲を掻き立てられ、焚き付けられるであろう”玄人向け”のハイセンスゲームだ。
ゲームプレイヤー万人にウケる作品ではないと思う。
しかし、限られた条件下で、ゲーム史上最高に「平凡な」主人公を中心に据えて、
どれだけのドラマを描けるか、そして”リアルな”世界をそこに表現できるかという点でこのゲームを考える時、
「これを作った人は天才としか言えない……(平伏)」
という気持ちにしかならないのだ。

尚、これがその天才たちである。



何度も言っているが、ゲームハードが優秀なエンジンを搭載するたびに、表現できる映像や音声の幅は広がっていくし、
それに合わせてより精密で緻密で、”リアル”な映像と音で世界を表現するのは、別に悪いことじゃない。
けれど、ファミコンからゲームをやっていると、あの「表現手法に制限がある中で描かれた」、
「プレイヤーの想像力で補完することで出来上がる世界」というのも味があって堪らない。
PS2はファミコンよりは映像も音も進歩してはいるものの、まだまだ無制限というほどではない。

ルーマニア#203の場合は、とにかく部屋の中しか見られない。
広大なマップや町の名前を教えてくれるNPCなんかは登場しない。
ひとつの部屋にひとりの住民。そして家具や家電。
基本的にこれらのみを使い、これだけを見せながら、その人物が実際どういう人間か、
どういう人生を送るかを表現しているし、PS2で出来る範囲での
「本当にそういう世界があるような気がする」「そういう人がいる気がする」という
”リアルさ”の表現を追究しきっている。
PS2で出来る最大限の美麗なムービーやテクスチャを用いる視覚への訴えではなく、
架空の「ありそうなメーカーのありそうな商品のありそうなCM」を作りまくる、みたいな方法で成し遂げているのだ。
だから、ムービーが綺麗ならそれだけで、より「リアル」に寄ったように感じるという人には、
ウケないという意味で玄人向けだと私は思うのだ。

たとえば――
ニコニコで時々、特定の素材を用いた音MADのブームが起こったりするが、
あれは、与えられた制限とテーマにどういうアプローチをするかを問われている気がするので、
多くの表現者が「自分ならこうする」と提示したくなるために起こるムーブメントだ。

表現者というのはおそらく「何を使って何をやってもいいよ」と言われるより、
「これとこれだけを使って何かしてみろ」と言われるほうが燃えちゃうのだろうし、
それで「大喜利」したくて堪らない人種なんだろう。
だからそういう人ならば、「ルーマニア#203」がやっている
「自分で制限を設けて、その中で最大限の表現をする」というのは、眩しくてしょうがないはずだ。
あんな、部屋の中しか見えないゲームなのに、あんなに”リアル”で、面白いなんてズルすぎる。
私の人生におけるThe Very Best of Gamesはルーマニア・ニュールーマニアだ。


だからこそ、今回のように、「チルドレン」が発起人というような形での新作企画が持ち上がったのだろう。
「これはなんてすごいものなんだ」という衝撃を受けた表現者の中から、
この感動を更に多くの人に届けるため、作品をリブートしたいという人が立ち上がる。
こうしてProject one-room(仮)は始まったように見受けられる。

つい数ヶ月前、ゆめにっきの「リ・イマジン」作品「YUMENIKKI -DREAM DIARY-」に、
「”リメイクじゃない”って言えばどんな風に表現してもファンは許してくれると思ったのかよ……」
という思いをさせられた身としては、Project one-roomにも、
どのくらいの期待値で向き合っていけばいいのかは考えてしまうところだ。
リメイクでもないし、続編でもない、けれど、ルーマニアへの最大限のリスペクトから生まれた企画で、
ゲームシステムはそのままだし、セラニポージも出てくるのだという。
でも、ネジの影が見えないしSEGAから出るわけではないから、
「楽しみにしてたし、これはこれで面白かったけど、待ってたルーマニアじゃなかった」
っていう感想になってしまうかもしれないと思うと……怖い。

だからTGSでこのニュースを聞いたときも、ブログに特に何も書かなかったし、
諸手を挙げて喜んだわけではなかった。
ゲームが出てみて、やってみなければ正直喜ぶべきかなどわからない。
でも、少なくとも予約して買うとは思う。
少なく見積もっても予約するだけの期待値はあるということになる……。
怖いけど、ルーマニアのファンブックを作ろうとしてたほどの人が作るっていう
「そもそも万人にウケたわけでもないゲーム」の新作なんだから、
逆によほどこだわりがなきゃ作ってないはずで、
「このタイトルで出せば売れるからネームバリュー借りよう」みたいなのではないというのだけは言えると思うw
ファンですら「知る人ぞ知るゲーム」として紹介する作品に”ネームバリュー”というのは
残念ながらないと思うのでw
(そして、このゲームはそれで良いのだ! と思っている)

発表から半年――。
もうそろそろ、続報が出てくる頃かもしれない。


公式サイトにある「いってらっしゃい、またあとで」というのは、
キャッチコピーのようなもの、または正式タイトルなんじゃないかと思われるが、
サイトのラジオ?をクリックした時に流れる
「箱の中の女の子」という曲が、ゲーム内のキャラクター視点でプレイヤーへの思いを歌ったようなものらしいので、
部屋に住む神様としてのプレイヤーは、ネジや今作の主人公のような”住民”に対して
「いってらっしゃい、またあとで」
と、その後姿を見送るしかないのと同様、もしゲームキャラクターにもこちらの世界を認識出来るとすれば
プレイヤーがゲームの電源を落とすとき、今度はキャラクターが
「いってらっしゃい、またあとで」
と言うしかない立場になる、ということなんだろう。

セガの開発者インタビューのページでササキトモコさんが、

でも、最終的にはネジというキャラクターは、こういう人間なんだと感じてもらって、
ネジと自分との距離感を楽しんでもらいたいという想いがあるんです!


と仰ってるので、この部分を今作でも引き継ぐとすれば、やはりルーマニアの醍醐味ともいえる
「プレイヤーはキャラクターを”操作”は出来ないが、”介入”ができる」
という絶妙な距離感を
「いってらっしゃい、またあとで」
という言葉に込めたのでは、と推測することができる。
アドベンチャーとシミュレーションの中間を行く、絶妙な距離感である。


セガはセガで『スペースチャンネル5』のVR新作も発表済みなので、私としては個人的に
「最近、好きが高じて実況したゲームが色々動き出してるなぁ……ワクワク」
という感じではある。

それぞれ、発売が決まったら破竹の勢いで予約しようと思う!
(PSVRは持ってないけどな!!)

開発、頑張ってほしい!!!!!