実は、ここに至るまで全編通して読んだことがなかった本です。
すごく有名なタイトルなのだから、誰もがどこかのタイミングで読んでいそうなものだけれどね。
案外、そうでもないんだ。
もし、読んだことがないなら、これを聴いてみてほしいです。





(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


この動画は、「睡眠導入用動画」のリクエストがあったので作りました。
と言っても、実はこのリクエストは今までに色々なところから来ていて、初めてではありません。
ただ、私自身としては私の声というのは睡眠前に聴くべきタイプの声ではない、とずっと思っているのです。
良くも悪くも、「目覚ましい」。
つまり良く言えば「元気が出る」し、「目が覚める」けれど、悪く言えば「うるさい」し「耳障り」なんじゃないかって。
まぁ人によって感じ方は色々なので、そうでないという人もいるのかもしれません。

なんにせよ、私は前にもこのリクエストをもらって、最近もハバネロ炒飯さんから、
「寝付けないんだけどかにぱん。さんの寝かしつけ動画とかないの?w」
というリプをもらいました。
しかも、「笑いの要素は不要」らしいので、
ニコパイが羊を数えるやつじゃダメか(チッ」
と思いました。

でも、さっきから書いているように、「笑いの要素抜きの、癒やしの睡眠導入用音声」のリクエストは前にもあったために、
私はそういうコンセプトで朗読するため『星の王子さま』を、だいぶ前に買ってあったのです。



いや、これ……私買ったんだっけ……?(あやふや
もらったのか?

ともかく、だいぶ前から本棚にあって、「これいつか朗読するんだ」と思っていました。
そして、「笑いの要素のない睡眠導入動画」のリクエストが来たので、ついに朗読を録ることにしました。
どこまで広い需要があるかはわかりませんし、これが求められている「睡眠導入音声」となっているかも
自分ではわかりません……。
少なくとも、ハバネロ炒飯さんは聴いてくれるかなw


私にとって『星の王子さま』は、物心ついた頃から知っていたタイトルだったのに、
その全てを読んだ試しはない絵本でした。

その知識はどこから来たかというと、このアニメでした。


説明文に
「1978年度第3回文化庁こども向けテレビ用優秀映画賞受賞した良作です。」
とありますね。
私はリアルタイムでは見ていなかったことになりますが、このアニメのセル画を元にした絵本が家にあったのです。
(多分親戚からのお下がりです)
けれど、その絵本の第1巻しかなく、それはアニメの第1話を絵本化したものということになります。
それだけを繰り返し読み聞かせられて、私の『星の王子さま』のイメージと知識はここだけに集約されました。
だから、『星の王子さま』にはわがままなバラ(今風の言葉で言えば、高飛車で強烈な”ツンデレ”)が出て来る、
そして王子さまはバラの相手をするのに疲れて星を出ていってしまう、ということしか知りませんでした。
それから、30年もの間、「すごく有名な本だけどアニメ絵本で一部だけ知っているお話」の域を出ませんでした。

私は、今回朗読の前に一通り読んだわけですが、お話の冒頭があまりにもアニメと異なるし、
一人称文体で書かれている割にその「ぼく」が、王子さまその人ではないため、
あのアニメは、同タイトルだが全く無関係のものだったのだろうか、と不思議に思ったほどです。
いえ、もちろん、アニメはアニメなりの改変がされてそうなったのであって、
大元はやはりこのサン=テグジュペリの『星の王子さま』に違いないのですが。

余談ですが、この「星の王子さま」のアニメは制作が「ナック」で、
私はネットで見るまで「チャージマン研!」を知らなかったのに、
なぜか初めて見たものではないような既視感や懐かしさ、何かを思い出しそうな感じがしたのは、
多分「星の王子さま」の絵本のせいだったということに今この記事を書いていて気づきました。


そして私は録音前に本書を読み進めて、実際にあのわがままなバラのエピソードが出て来る段になって、
ものすごい衝撃を受けました。
あのバラ、本当に「わがままな女性」の隠喩で、王子さまはその女性を愛しているのに
愛し方がわからなかった男性の隠喩と、ストレートに捉えることができたのです。
そんなことは、保育園児の私には無理でした。
サン=テグジュペリがまえがきに、親友であるレオン=ウェルトにこの本を捧ぐ旨を記していますが、
そのレオン=ウェルトは「どうしてもなぐさめなければならない」相手だとも書いてあります。
もしレオン=ウェルトが、「寒くてひもじい」のみならず、女性のことで傷心でもあるがために「王子さま」が生まれて、
そして、サン=テグジュペリがいつもフランスにいる友人レオンのことを、遠いアメリカから思っているよ、
ということを伝えるためにこれを書いたのであれば、とても得心がいくのです。
勿論、仮に作品のバックグラウンドがそうでなかったとしたって、このお話は素晴らしいものでしたが!

それで、出て来る登場人物は、バラだけでなくみんなが隠喩のようになっていて、
私はこの本を、子供の頃に通して読んだとしても真意を、そして作者が描きたい友情というものを
見抜けなかっただろうと思います。
そして結局、30年の時を経て読み返して、その奥の深さに胸を震わせたと思います。
だから、「もっと早く読んでおけばよかった!」という感想は抱きませんでした。
どちらにしろ、本当の意味で感動するには、今読むことが必須だったように思うからです。
これは、逆を言えば、いつ読んだとしても遅すぎることはない、ということでもありますね。


このお話に胸が「震えない」人がいたとすれば、子供よりもこどもか、大人になりすぎたかのどちらかかもしれません。
その人は、「ともだち」がなんなのかを知らないけれどそれを特に疑問や不幸に思わないほど幼いか、
「ともだち」がなんなのかを知らないまま年を取った人かしら、と思うのです。
でも、そういう人たちがうっかり「王子さまのようになりたい」と思うのは危険なことだとも思うのです。
だって、作中にもありますが、王子さまはとても「こわれやすい」のです。
心の中に、誰かが「住んで」いると、心はガラスケースのような材質になって
ナイーブで繊細で傷つきやすく敏感になってしまうので、「鈍感力」を失うことになります。
「鈍感力」は、生き抜く上で必要な能力なのにです。
そして、人の心はなぜだか、鈍感なものが敏感になる点においては不可逆なのです。
一度失った鈍感力は取り戻すことはできません。
繊細なまま、「折り合いのつけかた」を学んで、その「ひきだし」を増やしていくことが出来るだけで、
心自体は、二度と鈍感だった頃には戻れないからです。
だから、王子さまのような感覚や感受性を身につけるというのは、とても弱くなるということでもあります。
踏み込んだことがなければ、そのままでいいのかもしれない、とも思うのです。
鈍感力とは何かということがわからないくらい鈍感力を持っている方が、生きやすい現実があります。
そもそも鈍感力のある人は、自分の鈍感力を認識できませんし、する必要もないのです。
鈍感力を失うと、マジックミラーに囲まれたような気持ちになってしまうので……。
王子さまがどこを旅して、誰に会っても「ひとりぼっち」だと感じていたのは、
このマジックミラーに囲まれていたせいだと思いますから……。


でも、マジックミラーの中に既に入っている人がいて、(例えば主人公やキツネがそうで)
その人達と出会って「ともだち」になれたりすれば、ガラスケースの心に住む人が増えて
心は「こわれやすく」なるのに、一方で幸せも感じられるということも事実です。
それについてはキツネが言っていることが全てです。
仲良くなったら悲しくなってしまうのに、仲良くなりたいと思うし、
何かを見る時に「心で見る」ことで、あぁあの人と仲良くなってよかった、幸せだ、と思うのです。
きっと、思い出を沢山持つ人ほど幸せだし、その一方でなぜかどうしようもなく哀しいのだろうと思います。

私は、朗読前の黙読でも泣いて、朗読をいざ始めてからも何度も泣いては鼻をかんで涙を拭いて録り直して、
出来上がった音声を編集しても泣いて、編集が終わったもののチェックをしても泣きました。
ただ、それが「悲しみ」の涙なのかどうかもわからないのです。
王子さまは、死んだように見えこそすれ、実際には死んでいないし自分の星に帰って花と暮らしていると思うことが自然だろうに
喪失感のようなものがあるし、でもただ喪失感があるだけというのとも違って、
「だってこれはある意味ハッピーエンドなんじゃないか?」
とも思うんです。
でも、やみくもに幸せで嬉しいものでもありません。
多分、もう私の心に、王子さまが「住んで」しまったということだと思います。
そうしたら、もう王子さまと二度と会えないかもしれないことは、十分に悲しいことだし、
でも王子さまがもし王子さまの愛する花と、幸せに暮らしているなら「ともだち」としてはとても幸せです。

私は、この本が、主人公の「ぼく」と王子さまが砂漠で見つけた井戸から水を汲み上げたように、
心の井戸から水を汲み上げられるような本だなぁ……と思いました。
文字通り何かが胸のあたりから湧き出してきて、結果的に涙になって体外にまで溢れてくるからです。
私は、万人がこのお話に泣くかどうかはわからないけれど、私と同じような気持ちになってくれる人も
いてくれればいいな、と思いました。