今日は、思ったことをつらつら書きます。
「ナレーター」として仕事を請け始めて、なんと6年目に突入。
今日は、「声に対するこだわり」がどこから来てるのかまとめることにしました。

(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


結論から言うと……という感じで、冒頭に結論を持ってきて、そのあとに過程なんかを説明したいところですが、
結論がひとことでまとめられません。( ˘ω˘)ウーム

でも、要点をまとめると、
・周囲が私の声に言及する機会が多かったから(環境要因)
・声を出すこと、文章を読み上げることが気持ち良いから(主観的な理由)
・親に反論したいから(???)
の3点になると思います。


1,周囲が私の声に言及する機会が多かったから

自分の声を録音して聴いたことのある人はわかると思いますが、自分の声は、自分で聞いているのと、
人が聞いているのとでは、結構聞こえ方が違います。
そのため、大抵の人は、録音した自分の声を聞いた時に、自分が知っている自分の声とのギャップに驚き、恥ずかしくなったりします。
「みんなはこの声を聞いているの!?」と。

けれど、私は、物心付く前から、親によって声をカセットに録音されていたために、
物心ついてからすぐにそれを聞いて、
「これが、他の人が聞いている自分の声なんだ」
と認識したため、「ギャップに驚き恥ずかしくなる」フェーズを通過しませんでした。
恥ずかしい、と思うほど知能が発達していないくらい幼い時期から、
「録音した自分の声」を聞き続けているということです。
自分に聞こえる自分の声と、他人に聞こえる自分の声は違うという事実はそのまま受け止めただけでした。
なぜそうなるのか不思議には思ったけれど。

その後の人生で、
「声がよく通るから」「ハキハキ喋るから」
という理由で、学校の行事でアナウンスや代表あいさつなどを担当させられることが多かったり、
友人グループの間でも
「はぐれたら喋って(声で見つけるから)」
と度々言われたりしました。

カセットに録った自分の声を聴くのは、「客観的に」自分の声を聴く行為になるわけですが、
そのうえで「私は特徴的な声だな」と自分で思うことはありませんでした。
けれど、人にはよく声について何か言われるので、周りは特徴的だと思ってるんだな…というのは
少しわかってきました。
それに、「声を聞くと安心する」「元気が出る」というようなこともよく言われるようになったので、
声を録って公開するだけで誰かが喜ぶならそれもまたよし、という考えになりました。

そして、私の声ひとつとっても、いくつかのニーズがあり、
私のこういう声が好きな人もいれば、それとは別のあーいう声が好きな人もいるというのは、
「色々な声の出し方」を研究していく原動力、こだわりの動機になりました。
今までの人生において周りの人々がしょっちゅう、
「(V)・∀・(V)の声は〜」
と話してくれたおかげですw



2,声を出すこと、文章を読み上げることが気持ち良いから

はじめは、親が、私の1〜3歳の頃に「ことばを理解し始めた幼児(私)」の記録にと録り始めたカセットでしたが、
小学校に上がって、こくごの時間に教科書の音読をさせられるようになると、
私は家で教科書を音読して自分でカセットに録音するようになりました。
こうすると、練習になるからです。
こくごの時間は「お話を読んでくる」が宿題だったりもしましたから、宿題がてら教科書朗読を録音していたのです。
それに、「朗読カセット」という付録が「学研の学習」についてくることもあったので、
よく聴いていたし、「空のカセット」に声を吹き込むと自分の朗読カセットが出来るとわかって
小1で作るようになりました。

「書いてある文章を読み上げる」のは、それだけで言語野が刺激されて気持ち良いことです。
知らなかったことを知ったときに脳が得る快感に近いものがあるかもしれません。
脳は、わからないと思っていたことがわかったとき、アドレナリンが出るように出来ています。
そうすることで人は知識を求め、それが種としての生存戦略に活かされるため、このように造られているのでしょう。
それに似て、目から入った文字情報を、精確に口から出す、それだけでなぜか気持ちが良いのです。
おそらく言葉を発することも、人類という種の生存戦略に関わる行為なのでしょう。
私は小学生時代、教科書や絵本やらをたびたび朗読してはひたすらカセットに吹き込みました。


中学生時代、ラジオの電話リクエスト生放送番組にはよく、
「曲のリクエストと一緒に今日のテーマに則したエピソードを電話してきてね」
というのがあり、私は何度かそういうものにも電話で出たりしました。
エピソードとリクエストを電話受付係の人に話すと、しばらくして番組から折り返し電話がかかってきて、
「CMのあとパーソナリティとさっきの話してください」
と言われ、出演するあれです。
テーマに沿った面白エピソードを話すと、番組を盛り上げるのに一役買ったようで嬉しいですし、
ラジオの電話リクエスト番組で、自分の好きな曲を番組で流してもらうのは「布教」と考えていましたから、
面白い話をして、しかも直後に自分のリクエストの曲を流してもらい「布教」ができるわけです。
すると、ここで「ラジオ番組カセットテープ」を自作するのが趣味になっていきました。
台本を書いて、テープに向かってトークをして、その後に曲を「ダビング」することで
自分の好きな曲の紹介番組を構成するのです。
それを友達のグループ内で「回覧」することで、好きなアーティストの「布教」をしました。
「書いてある文章を読み上げる」だけでなく、自分の好きなことについて話すとき、
すごくテンションが上がりました。
そういえば、時々、電話受付の女性とアーティストの話で盛り上がって、
番組出演以上に長く熱く話し込んでしまったこともありました。
それで、「自分の好きなものを紹介するために台本を書いて、それを声に出す」というのは、
それだけで私にとってすごく楽しいものであると気付いたのです。

また、声を出すということそれ自体が気持ち良いので、カラオケというのは「ストレス発散法」なのだなと思いました。
中学生になってカラオケに行くようになると、今度は歌も録るようになりました。
それまでカラオケは、「演歌や歌謡曲、民謡などを50歳以上の人たちが唄うという趣味」であり、
自分には関係ないと思っていました。(1980年代中盤まではそういう時代だった)
そもそもカラオケがしたかったら、おばあちゃんの家にあった「カラオケの機械(カセットテープとも違う専用デッキの)」を使うか、
「カラオケパブ」のようなところに行くしかないし、収録楽曲が演歌・歌謡曲・軍歌などなので、
中学生が唄いたいものとは異なりますし……。
今のような「カラオケボックス」もまだあまり数がなく、「悪い人(不良やチンピラ)がたむろすから行ってはいけない」空気でした。
ゲーセンのように、薄暗く、カツアゲが横行する場所というイメージ。
小6のとき、結構近所に、明るく開放的なイメージのカラオケボックスが新たに出来たこと、
様々なジャンルの楽曲を配信する複数の通信カラオケ機種の登場で、
「純粋に、好きな歌を唄うことを目的に」カラオケボックスに行ける空気に変わりました。
小学生時代、いつも家で「歌って点太くん」で遊んでいた私は、カラオケボックスでもっと沢山の曲を、
もっと大声で歌えることになって、すごく嬉しかったです。




3,親に反論したいから

これが一番解説が必要な気がします。

私(と弟)は、
「顔が悪いのだから中身を磨け」
と母親から言われ続けて育ってきました。
今も言われていますね!
でも、母の言う「中身」は、主に学歴のことしか言ってませんね。
(だから未だになぜか「勉強しろ」と言われるし、性格の話はしない)
つまり母は
「顔が悪いのだから、せめて学歴を装備しろ」
と言っています。
あと、親である自分のことを棚に上げているのではなく、
「親である自分に似て外見がイケてないのだから」「自分は学歴がないせいで苦労したから」
ということを言い続けているわけです。
自分の子供を可愛がりすぎるのも問題かもしれませんが、卑屈すぎるのも、子供の自尊心や自己肯定感を損なうので
難がありますね。
物事はなんでも程々でないと……。

まぁそれで、親がそこまで
「遺伝のせいで外見が悪いのだから」
というならば、甘んじてそれを肯定した上で、(だってそれを否定する材料はないし)
「遺伝から来る外見以外の要素」
で何かやりたいと思うようになりました。
それが「声」です。

「声」というものも間違いなく、遺伝で貰ったものでしょう。
それに、顔は整形する以外には表情やメイクで見せ方を変えるしかない(そしてそれには限界もあろう)けれど、
声や体は「鍛えよう」がありますし、逆に声は「整形」でよくできないし、声については母親は別にダメ出ししてこなかったし、
私が学校で、人前に立たされて何かするときに「声が通るから」「ハキハキ喋るから」という理由だと聞くと、
それについても好意的であったように思います。
「外見を褒める人がいたら、絶対そんなのは本心じゃないから下心を疑ってかかれ」
と言われてきたけれど、声が褒められる場合はそうではないっぽいので、そこは伸ばしていってもいいようだな…と。
(外見を根本から貶すだけでなく整形に否定的なので、そっちは八方塞がり。改善のしようもない)
まして、人が、私の声を「特徴的」だと言うならば、私の声だからこそ出来ることも、世の中にはあるかもしれない。

それ以外にも、とにかく母は、あらゆる話を
「お母さんからの遺伝でお前はこれこれこういうところが劣っているのだからどーたら」
という論理展開で進めていこうとするので、
「遺伝の要素のある、声というもの」で、何か「人に求められること」を成せば、それに事実を以て反論ができ、
結果私たちはもっと自分の親子関係を肯定できるのではないでしょうか……。
「あなたから遺伝したもの何もかもが、人より劣っているわけではないと証明したぞ」と。
そもそも「優劣」の話じゃないのは私はわかっていますが、本人が優劣で語っている以上、ここで
「そもそも優劣の話じゃない」
という論理展開は通用しない相手なので、相手の目線になるべく合わせて話を持っていくなら
「人より劣っているわけではない」
という表現が妥協点な気がします。
これより強い言い方をするのは、誰かにとって失礼に当たるだろうと思いますので。

「親からもらうもの」って、別に体だけではないのだから、親本人から「遺伝ガー遺伝ガー」とだけ言われても困りますが、
そもそも、その「遺伝ガー」で子供を貶める育て方をされたら
「あなたが育ててくれた時間で私はこういうことを学んだ。
それは遺伝したものではなく”環境”だけれど、あなたが私を育てた証であり感謝している」
ということすらも言いにくくなります。
だって、
「貶めてくれたおかげで今の私がある」
というのは奴隷根性すぎやしないだろうかw
別に、「おかげで打たれ強く育った」とも感じていないしw

ナレーターや声優は、声だけで「表現」が出来れば、外見を晒さなくてもいい。
もし外見を晒したら、一番貶してくるのは肉親という状況なのだし、それでも
「あなたから遺伝したものが社会で必要とされています」
と言えるのは、声で仕事をしたときじゃないか? と思ったりした次第なのです。
あらゆるものについて、人より劣る点は自分から遺伝し、優れた点は父から遺伝している、というのが母の主張ですが。
つくづく、こじらせすぎだろう……。
(あと、母はそれを「劣性遺伝」という言葉で表現するが、その言葉は「劣った性質が遺伝する」という意味じゃねえw)
ああ……この調子では、声で何かを成し遂げても、
「喉はお父さんから遺伝したんだよ、良かったね。お母さんはダミ声だから(卑屈」
みたいなことを言われそうですけどね!!w
いや、絶対言うね!!!w



声の仕事を請け始めた当初は、当たり前のことですが、案件が少なかったです。
けれど、来た案件を全て地道にこなして、相手の求めているであろうものを、なるべく迅速に用意し、
実績と信頼を積み上げるしか出来ることはないので、とにかく今もそうしています。
そして、始めた頃に比べれば、かなり案件数が増えてきて、やはりそれを地道にこなしています。
「売れっ子」ではないと思いますが、繰り返し発注してくださるクライアントさんがいるので、
「ご指名ありがとうございます!!」
の気持ちで毎回せっせと収録しています。
「生涯現役」を貫くには、同時に「生涯下積み、全ては次に繋げるための修練」と思うことや謙虚さも必要な気がします。

そして私は、それが「解説ナレーション」であれ、「キャラクターボイス(演技)」であれ、とても楽しく読み上げています。
声優というと、ゲームやアニメのキャラクターボイスの仕事だけをイメージする人も多いかもしれません。
でも、私はそういうコンテンツにおける架空のキャラクターに声を吹き込む仕事だけがしたい!というこだわりは
逆に持っていないので、「指定された文章を、求められたニュアンスで読む」仕事をとても楽しんでいますし、
「声優」と言えなくもないのかな、と思います。
また、その結果として「次もこの人にお願いしたい」と思ってくれる人がいるということも、とても嬉しく思います。

今は、仕事の話をしても、親はいまいちピンと来てないようなのですが、
そのうちもっと実績によって「説得力」が出せるといいな、と思います。