映画『寄生獣』 オフィシャルサイト

前編のレビュー

前編を見たのだから、完結編も見ないとね。
まぁアニメを「1話で切る」人がいるみたいに、前後編ある映画だって、前編が満足の行く出来じゃなかったら
完結編は見ないという人もいるかもしれないけど、寄生獣という作品自体が私にとっては別格の存在なので、
出来がどうだろうと見に行くことに意義がある。
作品にお金を払わないといけない。作品に対する敬意。


(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)・∀・(V)


さて、寄生獣のネタバレが含まれるというより、映画でどこが改変されたかっていうネタバレが含まれるので
そこに注意しつつ、以下のレビューを読まれるかやめるか判断してください。
それに皆さんが漫画は既に読んであるという前提で書いちゃいますので、漫画未読の方も気をつけて欲しいというか、
話が掴めないかも。
なお、私は見に行く前に、ある一点についてツイッターのRTで見てしまったので、
「あーそこそういう改変されてるんだ」
って知った上で観てきましたが、改変自体はその一点ではなかったのでそれらに触れた上で、感想を述べてみようと思います。
あ、あと私は、「改変はすべて害悪」ということは言いません。
どういう狙いがあるかを考えて、果たしてその狙いに対して表現が的確かどうか、ということは考えたいですが。


まず、前編のレビューのほうで、
例えばミギーについた声や、映像表現、役者さんの演技などに関しては一度書いてあるわけなので
そこらは一旦すっ飛ばして、さっそく改変部分について話したい。

今回のポイントは、
・美津代さんが出てこない
 →よって、美津代さんの家にいるはずの部分には、里美と初めて性交渉に及ぶシーンが入る
・引き続き宇田さんとジョーは存在しないことになっている
・倉森さんの奥さんはすでに他界したことになっている
・田宮良子が自分の顔をシンイチの母親の顔に変形させて話を聞いてもらうという手段をとらない
・産業廃棄物に含まれた猛毒で後藤が爆発四散する部分は、放射能物質が原因ということに変更された
・夢を通じてミギーとシンイチが何度か意思疎通をする描写がすべてなくなっているので、
 ミギーが長い眠りにつく前の会話は現実世界で行われる

などなど。
細かいものも上げていけばそりゃキリがないわけだが、私の印象に残ったのは上記のような部分という感じ。
個人的に、一番最後の改変ポイントに関連して、ミギーが夢でシンイチに
「シンイチから見た私を見せてみろ」
といって、その”像”をシンイチが出力すると、ミギーがそれを見てただ
「へぇ」
とつまらない反応をするシーンはすごく気に入っているので、あれがないのはちょっと残念。
すごく細かいシーンだけどねw
こういう細かさの積み重ねが作品の一番盛り上がるシーン(いわゆるクライマックス)を、
より印象的で感動的なものにしてくれるというのがあるので、前にも書いたと思うけれど、
映画は、尺という制限によってそれをすごく阻害されがちだなぁと感じる。
単行本10巻を、2つの映画で表現し直すのは難しいというのを、こういうところから改めて思った。
その、「へぇ」とミギーがつまらない反応をするというシーン、細かいシーンだけど、そういう細かいシーンの連なりと積み重ねが
どれだけあの漫画に密度を与えてくれているかってことなんだ。
それが省かれることで、映画がどれだけ薄味に感じてしまうかっていうことでもあるし。
この映画が失敗しているというより、それは映画に必ずついてまわる課題なんだって思う。
ハリーポッターなんかも、原作の密度がすごいから、その分映画と比較した時、
映画ではあれもこれもカットされすぎじゃない!? という感想になってしまうかもしれない。
でも大体尺のせいなので、映画製作をする側は、いかに上手な「引き算」をするかを常に試されていると思う。

美津代さんや宇田さん、シンイチのお父さんなどのキャラクターそのものが、元からいなかった設定になっているのも「引き算」の結果。
美津代さんを引いた分、映画では、シンイチと里美が心の絆を深めるシーンを残してそこに代入した。
場面自体は原作にあるものなので、新たなシーンが足されたというのとはちょっと違う。
倉森さんの奥さんを引いた狙いは、おそらく、「親子」の関係をよりフィーチャーするためなのではないかと思う。
倉森さんが田宮に復讐する動機は、田宮の都合でいいように使われた上家族を寄生獣たちに奪われたからだが、
その後の復讐の形は、田宮の「子供」を殺す(フリをする)というものだ。
シンイチも母子家庭だった。田宮もそうであるし、倉森は父子家庭。
親1:子1という関係に統一して、そこを際立たせるためかもしれない。


田宮良子は、シンイチに子供を預ける際、シンイチの心を開かせるため、自分の顔をシンイチの母親の顔に変形させて呼び止める(原作)が、
映画ではその手段を取らない。
映像技術が追い付いていないから…ということはないだろうけれど、原作の方ではこれの布石として、
シンイチが
「あなたの胸に穴を開けた人物にもう一度会いなさい」
というアドバイスを受けるシーンがあり、それと一緒に省かれたのだろうか。
仮に布石がなくなっても、田宮が一時的にシンイチの母の顔になって呼び止めるというのは印象深いシーンとなりうると思うが。
田宮の最期のシーンでもあるし、田宮が「人の心を掴むため」に最大限考えた結果の行動だから。
普通寄生獣はそんな、「自分たちにとって無意味なこと」はしない。捕食前提でもあるまいに。


そして後藤との最後の対決は、「放射性物質を多く含むガレキ」が運び込まれるゴミ処理施設のようなところで行われる。
最終決戦の場として、原作に忠実に森の中で行われるよりは、あくまで「絵として」迫力が増す。
いかにも最終決戦っぽさのある絵にはなる。
まるでターミネーター2だ。
しかし!!
どうして反原発映画にしてしまったのか。

もうこのシーンが、「放射能ガレキで最強の寄生獣すら爆発」ってなってしまったことで
この「作品」のテーマが元々反原発だったかのような誤解を招いても不思議ではない。
一応言っておくが、原作の漫画は反原発など別に訴えていない。

元々は、産業廃棄物の不法投棄が問題になっている、自然の多い田舎で最終決戦が行われ
シンイチがいちかばちかでゴミの山から引き抜いて後藤の「プロテクターの隙間」に差し込んだ鉄の棒に
猛毒物質が付着しており、それによって後藤は統率を保てなくなる。
そして、一度は、必死に復活しようとする後藤を見逃してやろうとするシンイチだが、
「人のエゴ」とわかった上で、トドメを刺すわけだ。
産業廃棄物が自然を汚しているのも「人のエゴ」によるものだし、それによってたまたまシンイチは九死に一生を得るが、
だからといってその「人のエゴ」が正義ということは言えない。
人間は自分勝手に自然を汚す。
だから、寄生獣というものが生まれ、人の「間引き」を始めたのでは?という思考実験的な作品。
「人のエゴ」が時に人を救いもし、また殺しもする、そしてそれがどうしようもなく、人というものなんだという話。
だから多分、時事的な話題や、最先端科学技術に寄り添った形にしようとした結果、(つまり現代に阿った結果)
現代の「人のエゴ」の代表格は原発という形で描く選択をしたのだと思う。


確かに原発(ひいては核を用いたあらゆる技術)というのは、地球上に人類が誕生して、文明を築いて、科学を進歩させなければ
生まれることのなかったものだと思う。

けれど、別にこの映画のあのシーンは、原作通り、「産業廃棄物由来の猛毒」でなんら差支えはなかったのではないだろうか。
映画の中で、その「放射能ガレキ」が何由来なのかは全く説明はなかったが、
今のこの時に、「放射能ガレキ」と聞いたら東北大震災、福島第一原発関連を誰だって想起する。
それを想起することを見越してこういう改変をしているはず。
「いいえ、福島第一原発のことは映画の中で触れていません。放射能ガレキというのは他の理由でも発生しうるでしょう。
まぁ想起するのは自由ですけどね」
というレトリックは通用しないレベルに。
むしろ見ている側としては
「今の時代だったらやっぱりここは原発とか放射能だよねー!」
っていうノリで改変しちゃった風に見えて、早い話が、作品のテーマがこれによって完全に曇った形。
反原発派のイデオロギーのため利用されたのかな? と思うほど。
上記の通り「人のエゴ」(を描きながらも人の良い点に着目する)がテーマである作品だから、
現代の時事に合わせて、この映画内での「人のエゴ」の象徴を原発にした、ということなのだろうけど……。
はたしてそれは最善の選択だろうか。「表現」として。


鉄棒を刺された後藤が、即座に爆発するほどの放射性物質が付着していたら、
その鉄棒を持ったシンイチもただでは済まないと思う、というツッコミもしたくなるし、
そういうツッコミをしたくなってしまった時点でもう表現として失敗したと言っていいかもしれない。
観客は、物語から放り出されてしまうから。
下手に時事を扱ったせいで、観客に強いメタの視線を持たせてしまった。
どんなに「絵として」、あのゴミ処理施設内の戦いが、派手で、映画に華を持たせてくれても、
その選択すら一緒に台無しにしていると思う。
だから、それならばいっそ原作通り、いかに「絵として」地味になろうと、森のなかで戦って、
産業廃棄物に含まれる猛毒で爆発したほうが良かったんじゃないかと思ってしまった。
(「映像としての華やかさ」を優先して改変されたのかと思われる部分として、前編には、
島田を倒すときミギーが弓化するというのがあった。
あれも、原作通りに石を投げたところで物語に支障は出ないが、弓になったら「絵として」かっこいいというのが
勝ったのかな、と思った。)


加えて、このシーンに関しては、最強の寄生獣である後藤の「プロテクターの隙間」を、
シンイチが見抜いて、そこに全てを賭けるという描写も全てカットされていたのも残念な点だ。
後藤には、正攻法で一切勝ち目がない。
特に、「考える右手」であるミギーを失った後のシンイチでは、ミギーと一緒に戦っても勝てなかった後藤に勝てる要素などないに等しい。
しかし漫画の方で、彼は市役所での作戦のあと、後藤の脇に血が付着していたのを見ていた。
それが、他者の返り血に過ぎなければ、そこが後藤のプロテクターの隙間であるという確率はゼロに近い。
それでも、たまたま後藤が別の場所に意識を向けているというタイミング、そしてそこがプロテクターの隙間かもしれないという可能性に
全てを賭けて、その賭けに勝つシーンなのだ。

映画では、市役所での作戦のときに後藤の脇に血が…という描写(伏線にあたる)がない。
だから、後藤が目をそらしている隙に、シンイチが考えを巡らせて、いちかばちかの覚悟を決めるという場面もない。
このシーンの重要な点は、ミギーと一緒に生活する前のシンイチには、到底そんな判断はつかなかっただろう、という点だ。
シンイチが変わったことを表現している。
戦って、勝つことに対して、積極的に、冷静に思考を巡らせる人物になっているのだ。
どう考えても、シンイチは最初からそういう人間ではなかった。漫画10巻かけて変わったのだ。
だからこのシーンがないと、シンイチの成長「結果」を描くシーンがごっそり削られる結果になる。
よって、一度は死んだと思われたミギーが後藤の体からシンイチの元に戻っても、なんだかいまいち感動が薄い。
確かに、映画の中でも、シンイチはシンイチの判断で戦っているのだが…
私は、あの、「ミギーだったらどういう作戦を立てるだろう…!」と必死に、しかし冷静に考えようとするシンイチのモノローグは
すごく重要に思っている。
モノローグなしにただ進んでいくアクションシーンから、主人公の「成長」を嗅ぎ取れと言われても、
普通見る人は「身体能力」にばかり着目してしまう。
だから、モノローグというのがあって、「思考能力」を表現する。
そもそもあの後藤との対決は、身体能力の点で一切合切不利なのだから、やはり
「どうしてそんな細い鉄棒にすべてを託したのか」
の説明が必要なはずだ。
映画だけを見たら、シンイチがどうしてそうしようと思ったのか何もわからないと思った。
実に惜しい。
成長「結果」がわからないと、成長前と比較しても成長したことそれ自体が感じられないではないか。

それから、ラストのラスト、浦上がシンイチと里美をつけてきて屋上で話すシーンだけど、
映画では、浦上とシンイチはこれが初対面ということになるよね。
別にどっちでもいいのかもしれないけど…。
というのは映画の中で浦上に関する描写も結構カットされたから。
映画のラストをしめくくるシーンに浦上が出てくる意味を別に重要視していないのだと思うし。
原作では、警察の捜査の一環で、浦上とシンイチは一度会ってるんだけど、映画だとどうやら
マジックミラー越しでシンイチから浦上は見えていないようだった。
でも、あれだと、初対面の変質者をボコって、そいつが倒れてる横で寝転がってハッピーエンドです!
って感じだなw
本当はもっと「因縁」の再開なのだが。


改変についてはこんな具合。


あと、私が、前編を見た後に楽しみにしていた部分がいくつかある。
第一に、前編ではまだ出てこなかった「三木」がどんな感じか。
それから、深津絵里さんの田宮良子の演技が引き続き気になっていた。

いずれの役者さんの演技も、私が個人的に思う「まさにこれこそが」という寄生獣の登場人物とはいえないけれど、
むしろそんなのはいつだって机上の空論というか、漫画を実写にするだけで違和感を皆無にすることは不可能。
でも、前編で、寄生獣役の役者さんたちの、「異様な雰囲気」の演技は良いと思った。
後藤よりも、広川の方がよっぽど寄生獣の雰囲気を出しているところとかも、観客を叙述レトリックにハメるために重要だ。
三木は、原作だと「チャラい」印象だったけれど、映画の「ピエール三木」はあまりチャラさはなかった。
唐突に笑い出したりして挙動不審な人、という感じ。
その時点で、寄生獣としてはだいぶエキセントリックなんだけどw

深津絵里さんの田宮良子は、私が漫画の田宮良子から受ける印象に比べてかなり「柔らかい」けれど、
それでもやはり田宮良子らしい「鋭さ」が感じられる。
どちらも刃物だけど、深津絵里さんはナイフやメスのようで、漫画の方はノコギリのようなイメージ。
これだと刃物としては、ノコギリの方が柔らかい、って話になっちゃうけれど、
なんというか切り口がギザギザになるイメージが漫画のほうにはあって、
深津さんの田宮は、いざ切ると切られたことに一瞬気づかないくらいスパっと切れる刃物で、
しかも普段は大事にしまってあるような感じなのだ。
漫画の田宮はもっと野性を併せ持ってる雰囲気がある。
田宮が、シンイチに子供を渡すシーンは、涙が出た。


色々書いたけれど、前回も言ったように、映画化されたことそれ自体は、今でも祝福している!!
これで、また新装版が出た漫画の単行本の方も売れればいいと思うし、
それを読めば、映画から寄生獣を知った人もきっと
「確かにこれはすごい作品だ!」
と思うのではないだろうか。
それだけでも、意義はあると思う。
それだけしか意義がなかったら寂しいことかもしれないけど。

余談だけど、私は実写化して欲しい漫画として「Bバージン」をあげることもあるけれど、あれも今とはちょっと時代背景が異なるので、
「して欲しいけどして欲しくない」というのが正しいかな。
今の時代を生きる人が見て違和感を感じないための改変っていうのがそこらじゅうにちりばめられて
結果別物になると思うから…。