待ちに待った実写映画化だ!
今までに、「寄生獣」の映画化の噂は、今回含めて3回ほどあり、うち2回は立ち消えだったと記憶しているので、(しかもハリウッドだったかなw)
実際に映画化に至ったことはまさに「3度目の正直」!!
うちのブログではハリウッド版の話は2005年の12月に記事にしてた。
その時点で「(2005年の)7月に発表されてたの今気づいた」みたいなことを書いているのだが、
この計画は結局流れて、海外で映画化されることはなかった。
なんにせよ、そのときも
「映画化されるのかー! 楽しみなような、がっかりさせられないか不安なようなー!」
という気持ちだったが、実際に映画化がされなかったので、期待も不安も行き場を失った。
今回は、本当に、映画になったのだ!!
もうそれだけで、私には喜ばしい!

ので、映画のレビューを書くよ!! まとまりそうにないけどな!!

ネタバレはあるよ!!
映画まだの人も、もちろん漫画まだの人も、あとで読んだほうがいいかもね!

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ワンパンマンの村田先生も、配信で(確かまだ録画が残っているはず)、
「これは絶対に読んでおくべき、という漫画はありますか?」
という視聴者の質問に、
「寄生獣は読んだほうがいいですね!」
と即答していた。
それ以外の機会にも、村田先生はよく配信で「寄生獣」を話題に出している。
(死体の書き方がすごい、生きてる者と死んでいる者が一目で区別できるよう書き分けするのはすごいこと、みたいなことを仰ってたのも聞いた。)

そして私も、人に、オススメの漫画を尋ねられたときには、「寄生獣」と即答する。
「泣ける漫画教えて」って言われても「寄生獣」と答える。相手のニーズとズレてそうで若干の迷いはあるがw
(でも私は古本屋で立ち読みしながら泣いたのはこれが初めてだったし、その場で買って帰ったから
「あの漫画には泣かされた」という思い出深さがあってな。)
漫画についての記事は一度ここに書いた。
しかし、「Bバージン」同様に、「寄生獣」は私にとって語りだすと止まらない特別な作品であるから、
記事を書こうとすれば、何回でも書けてしまうかもしれないw
でも、逆に、明日いきなり死んだとしたら、もう書こうにも書けないわけだから、
映画化を記念(?)して、二度と書かなくてもいいくらい寄生獣について書き尽くしてみるのもいいかもね!

といっても、「寄生獣」との出会いについては、上記リンク先の記事にすでに書いてあるのでそれは省略する。


■声に関して
それで、映画を見るのに際して、一番興味があったのはやはりミギーの声。
現在放映中のアニメ版では平野綾さんが担当しているよね。
別にそれはそれで「そういう表現」もアリだと思っているけど、
漫画を読んでいるときに脳内再生されていた声は、結構おじさんだったので、
「自分の想像とは違うな」
ってのはやっぱりアニメ版で最初に感じたのだよ。

ミギーって「かわいい」んだけど、それは「←結論☆」なのよね。
平野綾さんの声では初めからかわいいものとして提示されすぎる気もするんだよね。
寄生獣の面白いところはこのミギーの印象が、
最初は「冷徹で無機質で不気味」だったのが、最後には「一家に一台ミギーだよね」に変化してるところにもあると思うので、
最初からかわいいものとして提示されると、そこの
「最初怖かったけど徐々に愛しくなってくる」感 が味わえないのではないかな、と。
でもこれは、漫画を既に読んでいて且つミギーの声を「結構おじさん」としてイメージした私が、
アニメで初めて「寄生獣」に触れる視聴者に対して感じる心配(?)みたいなもので、
(あの魅力そのまま伝わるかな…みたいな)
さっきも書いたが、平野綾さんのミギーはそれはそれでいいと思う。
だって中には漫画自体、まさに平野綾さんが出しているような声で脳内再生させながら読んでいたという人もいるだろうし、
その場合には単にしっくり来るだけの話になるし、映画では男性が演じ、アニメでは女性が演じることで、
可能性を狭めないような配慮があるように感じたしね!
両方見れば、声優男性派も女性派も溜飲下がるよ!みたいなw

作品設定の側面から言っても、そもそも寄生獣には、寄生することでその宿主の体を乗っ取るという意味では「その宿主の性別になる」としかいえず、
寄生獣としての生殖能力を持たない、もはや、生物というより概念に近いような存在だからね。
ミギーはシンイチ、つまり男性に寄生したので、シンイチと同じような声で喋る、と想像して読んでいたので
私は男性の声で脳内再生させていたけど、頭を乗っ取ってない寄生獣の「声」は最初どのようなものになるのか
原作で明確な説明はないし。
頭を乗っ取った場合ですら、声帯を変形させて声色を完全に変えることはできるし、
寄生した先が右腕であろうと、声を自在に変化させることはできるな。
ミギーがシンイチの声を出すシーンあるし。(それが逆に、普段ミギーは「ミギーの声」を出しているという意味になってるな)
何にせよ、アニメでは女性が演じるミギー、映画では男性が演じるミギーを楽しめるというこの多様性は
喜んで享受したい楽しみだよね。


実写映画版は、事前のキャスト発表でミギーだけ最後までなかなか情報出てこなかったし、出た瞬間も
「阿部サダヲ…? 誰だろう」
というのが第一印象だったけどもw
私の、最近のテレビ・タレント・芸能界情報に関する疎さは目を見張るものがあるぜ。
元々疎かったが、テレビがないので拍車がかかった。
でも、アニメ版の第1話を見てあるので、
「平野綾さんの場合とどう違うか」
みたいな楽しみ方もできるし、なんだかんだで男性が演じるミギーは初めて見ることになるから、それもそれで楽しみだった。
自分の想像していたのよりは、高めの声だったけどねw
さっきも書いたけど、「結構おじさん」でイメージしていたからなーw 
玄田哲章さんとか、ふざけてない時の山寺宏一さんとか! ミギーは学者っぽいからだと思う。

まぁでも、その「声が想像してたのと違う」というのは、そんなに破滅的な事象ではないです!w
(まれにそれが致命的で見るのをやめるアニメとかも過去にあったけど…)
それより、CGのミギーが動いてるので、
「おー動いている」
という喜びが上回る感じで。
声に関しては、事前の「どうなるんだろう?」という気持ちが強かっただけで、そこまで何か強烈な違和感とかは抱かなかったな。
なんか、安心したw



■映像に関して
元が漫画なので、それって静止画のメディアなわけでしょ。
すると、そこにはなくて映画でついてくるのが「音声」と「動き」。
だから、その点では、「動き」っていうのが、音声に関する感想を上回ったよ的な。

だって、やっぱり、寄生獣同士のアクションシーン、ずっと「映像」で見たかったからなー。
(といっても速すぎて見えないんだが)
漫画を読んでいる時も、アクションシーンって、コマとコマの間のフレームは脳内で補完して、その脳内映像を見るじゃない?
もちろん、そういうところが、本や漫画を読む楽しみでもあるけどね。
それに、それがちゃんと出来る漫画が漫画として優れているかどうかの1つのポイントじゃない?

でも、寄生獣の場合、そもそも寄生獣が「人智を超えた動き」するわけでしょ。
想像の域をはみ出しているわけでしょ。物質としての強度とか、速度とかが尋常じゃない。
それはやっぱり、今のCGやVFXなんかの技術で、映像として表現されたものをひと目見てみたいと思うものだよ!
それをついに見ることができたっていうのは嬉しかったなあ。
それに、後編(完結編)の方でも、三木や後藤さん出てくるからアクション楽しみだよね。

具体的には、今回の映画(「前編」)では、シンイチとミギーで島田秀夫と「A」を倒し、
誰か(おそらく倉森)にシンイチとミギーの写真を撮られるっていうところまでが描かれているんだけど、
Aとは計2回戦う(近接戦)よね。
それから、ここは改変の部分だけど、一番最初にミギーが見つける「同種」は原作では犬なんだけど、
映画では中華料理屋の店主になってて、これも接近戦。
島田秀夫は、遠距離攻撃で一撃だけどw
この、接近戦がやっぱりアクションとしては見どころだし、特に「A」との戦いは、1回目はまだシンイチが、なんというか「新一」で、
2回目は「シンイチ」なわけで、しかもミギーは昏睡状態だから一人で戦う。
Aも言うけど「人間の動きではな」くなってるんだよね。
そもそも1回目は、動きまくってるのはミギーとAだけだから、そこは全部CGで、
2回目の方はシンイチ本体のアクションが混ざってCG+実写どちらもよく動く感じで面白い。
それに、シンイチの変化も強く感じられるところだしね。



■改変に関して
映画化・アニメ化などで、議論になったりするのは、やっぱり「原作改変」についてが一番多いかなと思う。
で、「寄生獣」の映画にもいくつか大きな改変があったので、まず箇条書きしてみると

・シンイチの父親は他界済みで母子家庭設定になっている
・ジョーと宇田さんは出てこない(あの世界に存在しているのかもしれないが知り合わない)
・上記の結果、母親に寄生している「A」はシンイチが倒す

などなど。
この3点が大きな改変であって、小さいものならさっき書いた通り、

・最初にミギーが発見する「同種(犬)」が出てこない(その後の「シンイチ、つめたい」というセリフもない)
とか
・加奈さんも一切出てこない
・Aに寄生された母の体に「母の意識」が残存しているかのような演出が追加された

などもあるわけで。

これらはすべて、映画2本という尺の中で、漫画10巻に渡る内容全体を出来るだけ詰め込むための
「苦肉の策」だったのではないかと思う。
多くのシーンをカットする前提で作らなければ、3部作にしても収まりきるかわからない。
(ハリーポッターなんかも、原作内には、これでもかこれでもか! と細かい描写が積み重ねられていて、全部が必要なものだけど
映画では仕方なしに削られまくっているわけで)

細かい描写の積み重ねによって、そのあとの展開の意味合いがより深まったり、
受け取り手の中で思い入れが強まったりするのが物語コンテンツだから、
まず映画というのは、その点で最初から制限の中にある。
2〜3時間の間に、可能な範囲でそれをやっていかなければいけないから。
尺が短い反面、やりたいことが多い場合、今回のように「どこをどうカットするか」とか
その代わりといってはなんだが、どの演出を残すことで、一番効果的に物語を見せられるか
というのがすごく課題になるのだろうなーと思う。

「A」との戦いは、原作では宇田さんとジョーが最後のトドメを刺す形になっていて、
それがない分、宇田さんの主張である
「やはり人間として、それ(親殺し)はやっちゃいけないことだと思う」
という部分はすっぽり抜けてしまう。
これはこれで、作品の核と密接な主張であるとも思う。
けれど、尺の関係でやむにやまれずカットなのであろう。
浦上はさすがに出てくるっぽいが。
ジョーと宇田さんは、見たかったといえば見たかったが仕方がないと言ったところかなあ。
父親不在の設定にしたのは、シンイチと母の関係を際立たせるためかな。


あ、それから、島田秀夫を、近くのビルの屋上から遠距離攻撃で倒すところ。
あれは、漫画だとそこらへんの石をぼひゅ!って投げるんだけど、映画だと
ミギーが弓になって、そこらへんにあった鉄の細いパイプを矢にして射るのよ……。
ミギー(右手)が弓だから、左手で矢を引くんだよ!!
利き手は右なんだけど、そっちが弓になっちゃうのよ!!!!
あー! そっちが気になっちゃったなー!
弓化したミギーのデザインがどうとかじゃなくて、
「利き腕じゃない方で矢を引くのかー!」
というw



■役者さんや演技に関して

橋本愛、「寄生獣」2部作で得た手ごたえ&染谷将太へ注ぐ熱き眼差し
阿部サダヲ、「寄生獣」でミギーを演じ切り山崎貴監督にどうしても伝えたいこと
山崎貴監督&染谷将太「寄生獣」で積み上げた揺らぐことなき信頼関係


このインタビュー面白かった。
タミヤリョウコの深津絵里さんのインタビューもあったら読みたかったけどここにはないな。
探せば他のサイトがやってるかな?
それか、「完結編」のときに深津絵里・北村一輝・浅野忠信とかの連載になるかな。


私は本でもテレビ番組でも、ドキュメンタリーとかインタビューっていうのは、全般的に興味がなかったのだけど、
パソコンで色々作って、今みたいに発信するようになってから、クリエイターに対するインタビューを読むのがすごく楽しくなった。
どういう風に作ったのか、何を考えて演じたのか、何を意識してそうしたのか、とかを読むと
それだけで勉強になることが沢山書いてあるし。
私もインタビュー自体は何回か受けたことがあるけれど、それってしょっちゅうはないことなので、
インタビューを受けなくても、つまり誰からも訊かれていなくても、何かを作ったらいちいちこのブログで、制作秘話を書いてしまう。
それを読んで楽しんでいる人は沢山はいないだろうけど、私はインタビューや制作秘話を読み聞きするのが楽しくなってきたので、
同時に自分のブログにも熱がこもるようになった感じがある。
あとで自分で読んだ時は少なくとも楽しいしねw


というのは結構余談だったw

まず、
2005年に米ニューライン・シネマが原作権を獲得したため、日本では“手が出せない”企画として知られてきた「寄生獣」。
13年に入って契約期間が終了したため、日本では数十社による争奪戦が繰り広げられ、東宝が映画化権を取得。

とあり、「なるほどそういう流れだったのか」と。

ヒロイン里美を演じる橋本愛さんに関して監督が
「典型的な要求をしても、少しズレてくる。そこは素材力なんでしょうね。
思いもよらないものが出てくるんですから、いろんな監督やプロデューサーが彼女とお仕事をしたがるのが理解できます」
と述べているが、私はちょっと意外だった。
万事が万事こうではないだろうけれど、私は
「要求されたものをそのとおりにやることができたらようやく認められる。次になんらかの提案ができる」
のだと思っていて、つまり、要求されたことを毎回ずらして返したら、そもそも「一緒にやりましょう」というチャンスを逃すものだと思っている。
まず言われた通りのことを表現できないと。自分の味は二の次で。
「思いもよらないもの」を提示して、それがたまたま相手にウケるというのは、ゼロではないだろうが、リスクが大きすぎるから
少なくとも狙っては出来ない。演技のお仕事にそんな冒険心は働かせられないw
でも、橋本愛さんは、監督からも、共演である主役の染谷さんからも
「意外性が面白い」
という評価を得ているので、そういうパターンもあるんだなというのが新鮮だった。
私は、言われてないことは、「言われたことをやった上で」追加でやることもある、という程度だなぁ。
もちろん仕事の中には、相手が具体的な指示をしていない場合(まずやってみて?みたいなの)があるので、
その場合はこっちが色々提案をしていって、その中から相手が「これが一番イメージに近い」ってのを選んだり、
そこから掘り下げたりするんだけど、指示がある場合は冒険はしないな。
逆にそれができるのは、すでに相手との間に信頼関係が築けている場合だけじゃないかな、と思ったり。

だから、橋本さんは、山崎監督とお仕事をするのは初めてだったらしいけど、橋本さんの言う
「監督を信頼してやるしかない」
っていうのは伝わってる上で、意外性もウケたということなのかなあ。
染谷さんのほうは
「役者って主観的になりがち。主観的なことって比較的、映画のためになっていないことが多いんですが、監督はそれをちゃんと正してくださる。」
と話してる。

主演の染谷さんは、初めて見る役者さん。
むしろ阿部サダヲさんの方は、写真見たら「あ、見たことある人だった…」ってなったしw

シンイチって、演じようとすると難しいと思う。
前編の中で既に、スイッチが切り替わる部分みたいなのがあるし、
元々は極普通の、なんとなく生きてる男子高校生なんだけど、非日常に突如投げ込まれることで
成長していく物語でもあるから、それを映画の中で演じるのが難しいんじゃないかと。
これまた短時間だから。
連続ドラマとかだと、撮り続けていくうちに役者自体も時間の経過で変わるところがあって
それが重なって完成みたいな部分があるかもしれないけど、映画は数日間で一気に全部撮っちゃうでしょ。
しかも、撮影シーンが前後したりもするんじゃないかな。

染谷さん本人によれば、
「こんなに長い期間、撮影をしたことも同じ役と向き合ったこともなかった。それって自分の中ではより虚構感が増すわけじゃないですか。」
と話していて、この撮影や役作りは長期に及んだらしいことが窺えるけれど、同時に難易度が高かったとも語っていて
ひとごとながら「そうだよなー」と唸ってしまった。
でも、
「なんとなく生きてる男子高校生」が、覚醒したバーサーカーになるようなもんだから、
そこの気迫を表現してるのがやっぱりすごかったなあ。

あと、橋本さん本人も言ってるように、漫画に描かれているのは90年代前半その当時の女子高校生像だから
今そのまま再現しただけでは、現代劇としては違和感になってしまうというのは、私も思っていて
かといって、里美っていう「人物」をねじ曲げては作品に齟齬が出てしまう…。
「女子高生像」と「人物像」は別の話だ。
新一と里美の「ふわっとした両思いのような空気」とか、事件が始まってお互い非日常へ投げ込まれた後の絶妙な関係性とかは、
時代で大きく変わるところではないから、そこは大事にされているんだろうな、と感じられた。
まぁ前編では、里美はまだ意識を取り戻してないんだがw
だから島田事件が終わった後の二人の関係は「完結編」で描かれることになる。
いずれにせよ、この主人公とヒロインは、「素朴さ」がすごく大事なキャラたちだと思うから、いいキャスティングだったと思う。


あと、深津絵里さんと東出昌大さん、ね。
予告で見た時は、「タミヤリョウコのイメージと深津絵里さん、重ならないけど大丈夫か!?」と思ったんだけど、すごく良かった!!
あの死んだ目!!!!ww (ただし知的好奇心が刺激されると爛々とする)
東出昌大さんは、また全然事前には知識を持ち合わせていない役者さんだったんだけど、
あの「ぎこちない笑顔」の演技すごいな! 貼り付けたような!ww
表情筋が機械制御なの?って感じで、寄生獣っぽかった。
でも同時に、
「こういう表情と口調の人いるなー。そういう人に感じる違和感って、まさにこれだよなー」
ってのも思った。
そういう人ってもしかして寄生獣なのかな……。あ、このブログ公開した後、私食われて死ぬかもな!!
でもそしたら、それが寄生獣が実在する裏付けになるな!w

なんにせよ、寄生獣に寄生された人間の言うことを「冷酷」だと感じるのは、実は人間のエゴがそうさせているよね。
なぜかというと、
「人間を特別な生き物だと思っているのは他でもない人間だけ」
だからさ。
「寄生獣って冷酷なやつらだ!」
って思うのは、
「こいつ、私を特別だと思ってない! すべての生き物が人間を特別視するべきなのに!」
くらいの意識が根っこにあるってことさ。
「寄生獣」はその「気付き」をくれる作品だよね。

寄生獣というのは、言葉で意思疎通が出来る「人間以外の生き物」だから、
人間のことを別に他と比べて特別だとは思ってないし、それを言葉で伝えてくる。
「特に食べるべきもの」だとは野性で感じているだろうけどw
そういう「会話ができるが話し合いができない相手」っていうのが、寄生獣役の役者さんたちの演技から伝わってきて良かった……!
それに、言葉を操るということが、意思の疎通を可能にし、結果「個体差」を生み出していくのかもしれない。
寄生獣が、寄生してただ人間を貪り食い、言葉を理解せず、一切の会話も不可能な生き物だったら
タミヤリョウコのような個体は生まれないし、広川は政治家にならないだろう。
あ、でも広川は人間か。
人間と寄生獣の間に相互理解が生まれることは、言葉を使っても困難なことであるが、
言葉がなかったら、困難どころか完全なる不可能だろう。
タミヤリョウコは、人間とは違うベクトルではあるが、人間を特別視している。
これも、言葉を理解できたからじゃなかろうか。
逆説的に……言葉が理解できるのに理解し合えない「人間同士」の間にある溝は、何が原因かという話になる。
少なくとも言葉以外が問題だ。
そういうことをザクザク突き刺してくるのがこの作品で、寄生獣たちの演技から改めてそれを思い出した…。


もっと突き詰めて書こう。

人間が、人間だけを「特別」だと思うという部分まで戻る。
これは「なぜ」か。
現に人間が特別だから……ではない。
これだって言葉と関係がある。

名前だ。
寄生獣は「名前などどうだっていい」という。
しかし、人間は、個人に名前をつける。ペットにだって物にだって名前をつける。
それはその「個」を重んじるということだ。

「個」は「個」であるがゆえに、根源的に、「特別」だ。

だから人間は、人間を特別だと思う。
まず、人間は、一人の人間を「個」として認識し、次に、人間という「種」を「個の集合」とみなしている。
合唱曲の「名づけられた葉」に同じテーマが流れている。

故に、人間は人間という「種」も特別視している。
寄生獣にはその「歴史」がないので、名前などどうだっていいし、人間を「個の集合」とはみなしていないし、
人間が人間を特別視する理由が理解できない。

また、ミギーは、その名の通り「シンイチの右腕」となっていくのだ。



■完結編は4月
今気になっているのは、やっぱり後藤さんかな!!
「前編」では、
「”この「種」を食い殺せ”だ!」
と言うだけ言って終わってしまったからなあ。
後藤さん役は浅野忠信さんだけど、浅野忠信さんって例えるなら「武将」っぽいよね?
でも、後藤さんって「スプリンター」なイメージなんだよね。
時速60kmで走るシーンのせいかもしれないけどww
あとまぁ、全体的にギザギザ尖っているイメージ。
浅野さんはそのままだと尖ってないんだけど、シンイチとの決戦時には、「変形」するのかなw
どういう風に浅野さんという素材を活かして、後藤さんにするのかすごく気になる!

あとは、広川、三木、浦上が完結編ではよく出てくるのかな。
美津代さんは出るのかなw

なんにしても、楽しみだな。