「ニュールーマニア ポロリ青春」のプレイレポ日記 ネジ編4〜5です。
プレイ周回数としては、6〜7周目となります。

1周目 ネジ編1
2周目 カカト編1
3周目 ネジ編2
4〜5周目 カカト編2・ネジ編3


このゲームのジャンルをよく実況ニコ生中のコメで聞かれたけれど、表題の通りかと思います。
「SEGAがプレイヤーの人生に介入してくるアドベンチャーシミュレーションゲーム」
ゲームパッケージ裏面には
「人生介入型アドベンチャー」
とあります。
「(SEGAがあなたの)人生(に)介入(してくる)型アドベンチャー」
ですね。

プレイヤーがネジの人生に介入していくどころか、このゲームを買った時点でプレイヤーは
SEGA(もっと言うとゲーム制作スタッフ)から人生に介入されています。
そのくらい深いテーマを含んだ、多重構造のゲームです。
2作目のニュールーマニアではそれがさらに色濃く出ていると強く感じました。
シナリオに入ったら、その後はほぼ一本道で、マルチエンディングではありませんので、
結局は葛藤を超えて、そのひとつのエンディングに向かってゲーム制作者の意図した
コマンドを選び続けるしかプレイヤーにはすることがない。
テレビにピンポン当てられてテレビを見るネジと大差ない構図です。いや、それよりもっと悪意を感じるほどだ!w


以下に、ネタバレがあるので記事を折りたたみます。
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【ネジ編4】 「1/永遠」
まだ実況はしていませんが、「ポロリ青春」ということで恋愛展開が多い、
というのをルーマニア関係のインタビューで何度も読んだので「これもそれだな!」って感じでした。
ルーマニアのシナリオは、どれをとっても「何がキッカケで人生がどう転がるかわからない」ものばかりで、
よく突拍子もないファンタジー要素まで紛れてきますがこれも、それに当てはまる、かな。
肺にバラが咲いて死んでしまう奇病、という設定なんかは特に。
さらには部屋そのものが世界旅行するしw
でも、なんだか他のシナリオと印象が違うっていうのがシナリオ展開のしかたからエンディングまでずっとあって、
調べたらササキトモコさんのシナリオではないようで、「脚本家が違うなら尤もだな!」とも思ったり。
トレンディドラマ、っていう感じがすごくした。それもそのはず、そっちでお仕事なさっている方の書いたシナリオだそうな。

ゲームシステムに付随するメタ的なことを言うと、ゲームで見られる風景として、部屋の中以外には、
玄関先かベランダの向こうしかないので部屋そのものが動いてしまうことにより、
他のシナリオに比べて格段に「外でのネジ」「外とネジ」を感じられるのが新鮮だったとは思いますね。
写してる風景は部屋の中(と、強いてあげれば窓の外)であることに変わりはないのに!w うまいことやってしまったなあ。
いつもなら、ネジが部屋を出て行くところまでしか見られず、あとは日記で雰囲気を感じ取るか帰ってきたネジや
その知人とのやり取りを聞くなどするしか、外を知る方法がないですからね、神様(プレイヤー)は。神様という割に有限の力ですね。
小人や妖精の類ではなかろうかw
けれど、私たち自称3次元の人間が、2次元のキャラクターに干渉、介入しようにも、「設定をつける」というのが関の山で
そのキャラクターをこちらの次元に生存させる、つまり3次元の生き物にすることができないように、
私たちの上の次元の「4次元の人間」みたいなのが仮にいたとして、私たちの世界の出来事に干渉できるとしても、
そこで発揮される力は無限ではないのかもしれない、と思ったり。
まるでPCのディスプレイのような、「壁」があった上での介入だから・・・有限であることも致し方ない。
ネジ編3「誰かいる!?」で、ネジが部屋に誰か(プレイヤー)がいることに気付くという設定を施すところまでは
こっち側の人間がやっているけど、たとえば私たちが「きっとこの世界には神様がいて、その無限の力で世界を創造した!」と思うことすら
神様が本当にいればその神様が気付くように設定したことになるし、いなかったとすれば思い込みに過ぎないし
結局「壁」が阻んでいてお互いの断片を偶然掴んだりする程度なんだ。
ということを、昔、カール=ヤスパースの『神の暗号』を読んだときに考えてた。
勿論ヤスパースの著書はそういうことが言いたいわけではないけれど、読みながらこのことを私はふと考えてた、それを思い出した。
それは、ネジ編3〜5で強く感じたことだった。
多分世界は縦横だけだけじゃなくて階層的にも広いんだ、と。


ネジ編4のヒロイン「ナナナ」は、ネジがすっかり忘れている小学校時代の同級生という設定なのだけど
私が「次回作が出るとしたら是非ともネジ(小〜中学生)を主人公にしてほしい!」と切に願う理由の一つ!
そこでナナナが出てくれば、ニュールーマニアにおけるナナナの存在感が増すしね。
他のシナリオはカカトの存在感が強い中で、「1/永遠」だけはナナナが確たるヒロインだった。
それがゲーム全体の中では浮いてしまっている形だから、続編で過去編をやって伏線逆回収してほしい。
「前作とも繋がっている部分がある」っていうのは連作ではある程度は絶対に必要なはずだし、
それがシステム面だけじゃなくて、「ネジという人生のどこかの部分」っていうのだと、きっとルーアニアファンは
すごく喜ぶ、嬉しいと思う。
ちなみに、ニュールーマニアの取説(と呼んでいいのかもわからない怪冊子)に載っている、ネジ部屋の俯瞰図に
「やまださん」や「マリアンヌ」もあります
って書いてあるんだけど、あたかも「ネジの部屋にはあって当然」のような書き方をしているだけで、
やまださんもマリアンヌもしらねえよ!wwって思ったw
それが1作目のネジの部屋にも置いてあったなら、「あれ、まだ持ってるんだ、ネジw」ってなるけど・・・あったか?ww
仮にあったとして、シナリオには深く関わってなかったと思うんだが、それを「前作にもあったやまださんやマリアンヌが今回もあるよ!」
みたいに書いてみて実は別に前作そもそも関係ない、しかも今作でもシナリオに関わってこない!みたいな仕掛けは
SEGAはやりそうだから困るwwww

すげえ話逸れた!!!!!!びっくりした!!!!!!!

前の段落の要点は

「次回作はネジの少年時代編にしてください」という

   SEGA・ウェーブマスターへの熱望
です。


やまださんとマリアンヌのことはどうでもいいんだよ!(太字にしたけど!)


でもわかってる。
1作目は平凡な大学生で、2作目は平凡なサラリーマンなネジ、これは、そのあたりの世代の平凡な人に
スポットを当ててドラマを起こすことがこのゲームの目的だから、実はこの「世代」に注目してみると
主人公の世代を少年時代にするだけで、別に介入しなくてもドラマは起こる
ということは予想済みだ!!!
そうすると、介入のしがいがなくなるからな。
大学生や社会人は自分で何かやろうとしなければ、起伏のないマンネリな日々を送りがちなんだよ。
だから、そういう世代を主人公にするだけで「プレイヤーが行動を起こさせなければ何事もなくゲーム終了」となる。
そこにゲーム性持たせているのがこのゲームの特徴だろ。それを、主人公の世代変えただけで奪いかねないw
小学生や中学生は、それに比べれば、ほっといてもそうマンネリ化はしないはずなんだよ。
だから下手したら、「ぼくのくろれきし」みたいなゲームになるね!!!!!
「ネオ・ルーマニア〜ぼくのくろれきし〜」
うわーー地雷臭すごくなった!!!!
「介入した結果→鬱展開」の連続の予感!!!!! Σ(゚д゚lll)


ネジ編4「1/永遠」を終えて、サウンドコレクションをチェックして「ポンチャックが歌う”大きな古時計”」を発見。
そういえばテレビで流れてるシーンがあって、そのあとナナナが泣くときに「好きな歌を唄って」とネジにせがんでネジが唄うんだけど
多分ネジは直前テレビでポンチャックのを聞いてたまたま脳裏をその曲がよぎったから歌うんだろうなw
だって好きな歌だったらセラニ歌うはず。
それに、死期を悟ってる人に「大きな古時計」を歌って聞かせるあたりがね・・・!!
確かにそこがネジっぽいといえばそうなのかもしれないから、演出としては良かったのかもしれないけどね!

お金だけは沢山、それこそ世界で一番沢山持ってて、でも自由と残された時間だけは少なくて
その全てで以ってやりたいことはなんだろう!って考えて、「この人に会いたい」ってネジに会いにきてくれたのがナナナ。
プレイヤーはネジがそれに応えるよう仕向けていくんだけど、お決まりの「ネジ、以前の日常に取り残されるエンド」
勿論、ドラマを経た後だから、ネジとネジから見た世界は変わってる形で終わるんだけど、
この「なにこれせつない」がルーマニアの醍醐味なんだろうなー・・・。
そこでプレイヤーが
”こんな悲しい思いをしなくちゃならないならドラマなんか起きなくて良い、平凡な日々に甘んじる!”と思うか、
その逆かはそれぞれとしても、ネジを通して、人生のドラマを見せられて、ゲームが終わったときに
自分の生きるこの世界に意識を戻したときに、自分の人生を考えないわけにはいかないあたりが、
この記事の主題である、「ゲームジャンルは”SEGAが人生に介入してくるシミュレーション”」であると言わざるを得ない点。


ネジ編5「北天ブラザーズ」

もうお気づきであろう、1作目の「南天ブラザーズ」を踏襲したタイトルであることは。
南天は「アウトオブザミラー」が大ヒットだったね!(ゲーム内と私の中で!)
あのシナリオは、世界の平均だったネジだけが映る鏡を通して、全く逆の設定の向こう側の世界から
もう一人のネジがこっち側に来てやりたかった音楽を始めたら大成功しちゃう話だった。
あれもすごく面白かったし、後味はいい感じに悪かったし(先述の通り後味悪いのはこのゲームの醍醐味だから)
「アウトオブザミラー」という曲の存在感・意味を強めてくれた!
ゲーム中は、ナビ失敗しないと聴けないという罠が仕掛けられていたけど!ww

今回は、「北天ブラザーズ」がシナリオタイトルで、ユニット名。
ネジが大学生時代に、おそらく大学の友人だったと思われる「ソライ」と組んだ男性二人組のユニットという設定だ。
ソライは1作目では出てきていないけどね!
でも、どうやら「北天ブラザーズ」は大学生時代に結成して路上で演奏してたという設定のようだから
多分大学や高校からの友達なんだろう、ソライは。タカハシとも共通の友人のようだしね。
それで思い出したけど、ジュニアの修理をした「ハヤタケ」さんという人は、ネジが電話で喋るので声では登場していたけれど
ここにきてようやくポリゴンで登場するんだった!w
しかも、「工場を内部から崩壊させる計画を練る」というテロリズム発言をする過激な人だったなw
何者なんだハヤタケさんは・・・・ソライよりある意味気になるよ!ww


ソライは、当然日テレ24時間テレビのテーマソング「サライ」をもじってつけたキャラ名だ。
シナリオ内でも何度も24時間テレビが絡んでくる。
最初に出てくるときは、ネジが音楽活動に本腰を入れるっていう覚悟とかはまだ全然決まっていなくて
ソライは「こんなチャンスは二度と来ないと断言できる!」と力説する、温度差を感じるシーンで
24時間テレビのフィナーレを前にソライがテレビを消す。
この後かなりのトラブルを抱えて過ごす北天ブラザーズだが、この一年後の24時間テレビでは
二人のデビュー曲である「リトルスター」がフィナーレに流れる中、24時間マラソンを成し遂げたソライが
スタジオでネジとの絆を語ってゲームもエンディングへ。
ネジは、ブラウン管恐怖症のため、自室から声だけで出演するのだけれど、元々の「リトルスター」にはなかった
「僕は なんでもできる 君さえいれば」
というフレーズを即興で付け加えるっていう演出がある。

ネタバレだからリトルスターの記事には、この部分を書かなかったのだけど、
楽曲としての「君さえいれば僕はなんでもできるんだよ!」というメッセージは、私はその記事に書いたように
誰もが本当は孤独で小さな星だけど、誰かと支えあいながら生きていってるんだ!っていう風に受け取った。
でも、シナリオ上は、ネジからカカトへの告白を兼ねているんだよね。
テレビ的には、ネジは声だけで出演しているから、24時間テレビを見ている人たちは、
ネジからソライへのアンサーメッセージと受け取るだろう。
けれど、ネジの部屋にはカカトがいる。
そして、このリトルスターの唄い終わりと共にネジとカカトはキス、そしてスタッフロール、だから
「お前、カカトちゃんとどう接すればいいかわからないだろう」
とソライから指摘され図星だったネジの、自分なりのカカトへの告白がこれだったんだろうな、と思う。
こういうところも多重構造だなって思う。
同じ言葉でも、言う人と言われる人を置き換えるだけで内容はまったく違うものになるし、
同じ人が言う同じ言葉でさえ、タイミングが違えば意味は異なってくる。
そういうダブル、トリプルともなるミーニング要素を、このリトルスターでフィナーレを迎える24時間テレビのシーンに一斉に詰め込んでた。
ネジのお父さんが亡くなる展開だけは避けられないでエンドロールを迎えるから、
全てが丸く収まったとは言えないけれど、それでもこの着地点を用意してくれたことで最後までプレイして良かったと思った。
お父さんが亡くなって、タカハシが成功してて、ソライに裏切られて、仕事もなくて、妄想にとりつかれて死ぬしかないと思っていたネジだけど
タカハシやカカトはネジのことを考えて支えてくれたし、ソライとも一緒にやっていく仲間としてネジは許し
より絆を強めた。その展開まで行って終わってくれたから良かった・・・・。
それに、ルーマニアは同じ期間の中の別の時間軸では違うドラマが展開するゲームだから
「こういう可能性もあるけれど、そうじゃない可能性だって勿論ある」
っていうことが常に救いになるしね・・・。
違う時間軸を生きたネジは、少なくともあの形でお父さんを亡くさないで済む。

ネジ兄さんが調子に乗って芸能界から干されるシナリオのときにも、同じものの片鱗は感じたけれど、
今回はそれに輪をかけてマスコミが酷い。
現実に、日本のマスコミも「マスゴミ」と揶揄されるけれど、それでもここまで絵に描いた酷さではないだろう、と。
少なくとも表面は。内面はどうだか知らない。見たことないから言及できないにすぎない。
でも、このシナリオで描かれているほどあからさまな酷さはそうそう露呈しないと見ている。
死人が一人、そして二人目が出そうなところまでやって、ようやく反省と謝罪をするマスコミだからな、ゲーム内のはw
もう、虚構だから描けるラインの限界ギリッギリまでいったなあ、と思った。
「ソライ」に「24時間テレビ」に「日の出テレビ」だから、日テレから「うちのことですか!!」って言われそうだもんw
その設定でここまでやるのは勇者すぎ!!と思った!!w
でも、実際に該当業界にどんな闇があろうとあるまいと、それをこのゲームがどれだけ暗に暴きたがっていようがいるまいと、
ゲームの本筋はそこじゃないから、深く捉えてもしょうがない部分でもある!!!www
ただ、よくここまで実際にある番組とかを髣髴とさせる設定でこんなシナリオ作ったな、という感心はせざるを得ない・・・。
感心するところ絶対おかしいけど・・・・。そんなところに感心させられるあたりがSEGAらしいともいえる。


さて、ネジ編4のエンディングは「さかな男の物語」
ネジ編5は「ハッピーエンドがやってきた」だ。
相変わらず、シナリオやり終えてようやく意味がよくわかる歌である・・・。
単体としても物語になっている曲が多いセラニポージだが、ルーマニアのシナリオとリンクしているから
歌詞の内容がシナリオ完結後ダブルミーニングになってくる。
さかな男の物語が同時に「ネジの物語」と解釈できるように。
だから、セラニポージの曲は単体でそういうポップスだと思って聴くのは、それはそれでお薦めしたいが(実際ネジやカカトはそうしている)
ゲームをやって、「このシナリオのエンディングとしてのこの曲」という連結が済むと、全く深みが変わってくるので
ゲームをプレイした上で、ルーマニアのサントラとして聴いて欲しい曲ばかり。
筆頭は「ぴぽぴぽ」かなあ、と思う。
ネジやカカトは、なんとなく好きで聴いているんだろうけど、自分たちの行動や辿っている人生が
セラニの曲とリンクしていることは意識していないように描かれている。
1作目は実際あまりリンクしていなかったように思う。その点2作目ははっきりとリンクを感じられる。
でも、ネジやカカトたちのセラニに対するポジションは「共感できるなあ」とかではなさそう。
部屋でなんとなく流していて心地いいから、という感じ。そこがまた・・・・なんともいえないw
ネジ部屋の「神様」の『神様』、意地悪だな〜とw
ほんとにいろんな意味で「神ゲー」だw

それに、セラニの曲は聴いていると手書きPVとかを作りたくなる。
ポップで、時に不思議で、いつも物語性に溢れていて、キャラクター性にも溢れているから。


さて、あとはシナリオとしてはサブシナリオを見るだけだな!
メインシナリオを発動させずにフリーゾーン突入する必要がある・・・。
そこらへんのオマケ要素も、今度ニコ生で実況しつつ楽しんでみたいな。

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ニュールーマニアのネジとカカトの部屋で流れるセラニ曲すべてまとめたアルバム。必聴!!!!
掃除のBGMにぴったり!!!


ちなみに最新作以外は全部集めちゃったZE!!セラニポージのCD。