※この記事について。
これは「児童文学論」という授業で提出したレポートです。
が、blogで本を紹介するにあたっては、ネタバレに当たる部分はなくしたいと思い
部分的に書き直しました。

できればこの本は、まったくの事前情報ナシで読んで頂きたいところではあります。
しかし、私は自分の感想も伝えたいので、「感想」の部分を強調した
紹介文になるようにしたつもりです。


[作品紹介]
社会にうずまく悪や欲望、苦痛や悩みなどがすべてとりはらわれた理想社会
――喜怒哀楽の感情が抑制され、職業が与えられ、
長老会で管理されている規律正しい社会――

<記憶を受け継ぐ者>に選ばれた少年ジョーナスが暮らすコミュニティーは、
ユートピアのはずだった。けれども、理想の裏に隠された無味乾燥な社会の
落とし穴に<記憶を伝える者>とジョーナスが気付いたとき、そこに暮らす人々が
失っている人間の尊厳にまつわる記憶の再生を計ろうとする。

[主要人物紹介]
ジョーナス(主人公)…「11歳の儀式」で<記憶を受け継ぐ者>に選ばれる
記憶を伝える者…ジョーナスに記憶を伝える、前代の<記憶を受け継ぐ者>
ジョーナスの家族…父・母・妹のリリー
ゲイブリエル…ジョーナスの家で預かっている新生児

[世界観]
作品紹介にもあるように、ジョーナスの暮らすコミュニティーは
完全に「画一化」された、安全で「予測可能」な社会だ。
戦争や犯罪とは無縁だし、毎日の暮らしに不安を持つ市民はいない。
生まれてから死ぬまで、市民は定められたとおりに生きるだけで良い。
ルールさえ守っていれば、一定の年齢に達したときに必ず何らかの職業が
与えられるし、誰もが結婚して一人か二人の子供を育てることになっている。
自分の人生がどうなるのかわからないという不安に悩むことはないのだ。
ただし、そこには欠如しているものも少なからずある。
それこそがこの物語の重要な主題へと繋がっているのである。
どこか哀しく、そして恐ろしささえも感じてしまう、そんな世界が描かれている。


[考察1 児童文学というジャンルから]
 児童文学というジャンルに、明確な定義はあるのだろうか。
その点については意見の分かれるところだろうが、
特徴や定義に近いものはいくつかあると思う。
 たとえば作者自身が特定の若年齢層を対象として書いたものなら、児童文学と言えるのではないか、
とか、主人公が幼いかもしくは若く、主人公の成長を描いた作品は児童文学なのではないか…
などと言うことはできる。
 この作品の場合、「中央児童福祉審議会推薦図書」という肩書きを持っているし、
講談社の「ユースセレクション」という中学生〜高校生向けの訳本のシリーズとして出されている。
また、主人公のジョーナスは若いし、明らかに記憶を受け継ぐという体験を以って成長をする。
それも、自分の住むコミュニティーの、同年代の子供たちのうち、誰よりも人間らしく成長することになるのである。
そういう意味においてもこの本は「児童文学」という位置付けができるかもしれない。
 しかし私はこの本を読んだとき高校3年で、そのときの印象として、
「これは本当に児童向けといっていいのだろうか!?」というのがあった。
テーマが壮大だし、読んだ後、何だか空恐ろしくさえなったからだ。
それは「安心して暮らしているときは気付かなかったことを気付かされたから」だと思う。
児童文学といわれる本の特徴として、普通こういうものは挙がらない。
子供が本を読んで何かを知る、ということはいくらでも起こり得ることだ。
むしろ、人間全体が本から沢山の知識を得ながら生きている。
しかし、それらの知識は「安心して生きていくため」にあるようなものであって、
決してそれを妨げるものではない。この本はそれを覆す。
ジョーナスのコミュニティーの市民が、みんな安心して暮らしていながら、その実、
我々の目から見たらぞっとするような世界に生きているように、
我々自身がそういう立場にある可能性がある。
この本を読んでいると、そのことにハッと気付かされる瞬間が訪れる。
 中・高生にもなると、自分の生きている社会の仕組みや秩序を理解し始める。
ましてや日本のように安全な国で、守られて生きてきたらその社会に疑問を抱くことはなかなかない。
若いうちは「なんでこんなに勉強しなきゃいけないんだろう!?」と思う程度だ。
しかし、この本はそのような環境に生きてきた、そのような時期の人間が読むと
「まさか自分の暮らす社会も、この本に出てくるコミュニティーのように、
住んでいる人には気付かない嘘で作り上げられているのではないか」
と思うに至る。児童書というには、かなり発展的なのである。


[考察2 本というメディア]
 「本」という活字メディアの威力を思い知ったのも、この作品によってであった。
 活字の強みというのは、現実にありえないことでも、うまく言葉で描写されてさえいれば、
あとは読み手の想像力だけで、あたかもそういう出来事が起こっているかのように頭の中で
「見る」ことができる、ということであろう。
SFというのは、それを楽しむジャンルの文学作品であると考えられる。
 あとがきにもあるように、この本を読み始めるとき、読者はごく自然にそのコミュニティーを
我々が暮らしている社会と同じように想像する。
そこには一見特異性が見当たらないからだ。
しかし読み進めるうちに、自分の想像とコミュニティーの実態とには、大きな違いがあることに気付き始め、
それと同時に自分が考えている「普通」ということがいかにあやふやかということにも気付く。
コミュニティーの人々が自分の暮らす社会を普通だと思っているのと同じように、
我々は自分達の属す社会を普通だと考えている。
しかし、違う立場からみたら異常であるかもしれない、という可能性についても同じなのである。
   (中略)
 そのことを気付かせるキッカケはジョーナスに現れた「異変」の正体を知るのと同時である。
 自分の住む世界だけは安全で普通だという考え方には、実はなんの根拠もないのである。
本の中にあるのは、活字であって、それは目で見えない世界。
だからこそ読者は意外な展開に驚き、自分の世界のことをも振り返るのである。


[考察3 歴史・記憶]
 人間には、ほかの動物と違って理性が備わっていて、他の動物にはない精緻で複雑な体系を持つ
「言語」で、時間と空間を「歴史」的に認識することができる。
個人においてはその「歴史」は「記憶」と言い換える事が出来る。
私の歴史は私の記憶であり、逆もまたそうである。
 そして個人の力では把握しきれない、この世界の歴史というものもあって、
それはいままでのことであり、これからのことでもある。
 しかし、コミュニティーにおいて、これらのどちらも重要ではない。人々にとって重要なのは、
社会を秩序付けているルールであって、誰がどう思い考えるとか、この世界がどのように今に至ったのか、
これからどうなるのかは大した問題ではない。
 そういうことに関わる歴史や記憶をすべて背負っているのが、<記憶を伝える者>であり、
記憶の継承者なのである。
   (中略)
人間の人間らしさは、やはり感情にあり、その人間を形作った歴史にあるのだと感じた。


[考察4 哲学書としての”The Giver”]
 私は、自らの専攻分野が哲学であることもあり、本を哲学的に解釈したがる傾向がある。
 しかし、この本について言えば、私が能動的にそうしたというよりは、
インスピレーションを吹き込まれたような感じがする。
この本を初めて読んだのは、高校生の頃で哲学という学問分野に興味はあったものの
それを研究していたわけではない。
けれども、この本を読んだことで、私は自然と哲学をし始めていたと、今は思うのである。
 それは、この本が「問いを立てている本」だからであると思う。
 娯楽小説はただ読んで楽しいだけじゃなく、なにかテーマを持っていることがある。
そういう場合は、物語の中で描かれる一連の出来事をベースにして、
作者がなんらかの考えを一つの答えとして提示する。
 しかし、ギバーの場合はどうやら違うようだ。
 物語の最後の場面でも、結局ジョーナスたちがどうなったのかをはっきりと描ききっていないし、
作者からの明確なメッセージというものが見当たらない。
あるとすれば「最も美しい記憶は愛である」という流れに含まれたメッセージくらいで、
これといった一つの結論みたいなものはない。
 だがしかし、この本は確実に読者に問いを以って訴えかけている。
その問いでさえも漠然としているが、読み終わった後の空恐ろしい感じというのがまさに、
この問いに直面したことの証なのであろう。
 哲学とは、問いを立てること、そしてその問いに直面すること。
問いの立て方のセンスが哲学自体のセンスである。
 その点でギバーは大変に大きな問いを残してくれた。
この本を読むとき私は、本の中に引き込まれる読者であると同時に、
この世界の謎に直面した哲学者になっていたのである。


[考察5 表紙のデザインについて]
この本はハードカバーで、大変暗い印象を持たせるようなデザインの表紙をしている。
だからこそ私は気を惹かれたのかもしれない、とも思う。
黒が基調の老人の顔をアップで撮った写真がとても強く印象に残る。
この写真の老人が何者なのか…それは、巻末の訳者あとがきの部分で言及されているのだが、
カール・ネルソンという名の画家なのだそうだ。
この画家の写真を使ったことには、物語の内容と切っても切れない理由があると思われる。
   (中略)
 それから、ジョーナスと対を成す、もう一人の重要人物と言っても過言ではない<記憶を伝える者>は
老人である。
この表紙の写真を見て、「きっと<記憶を伝える者>はこのような顔をしているに違いない」という
イメージが沸くし、実際読んでみると、作中の<記憶を伝える者>という老人の印象とこの表紙の写真とが、
ぴたりと重なる感じがする。作者自身、おそらくネルソンを<記憶を伝える者>のモデルにして
作品を書いたのではないだろうかと思えてくる。
あとがきにもこのネルソンの写真が、作品の誕生を助けてくれたと著者である
ロイス・ローリー自身が語っていると書いてある。
<記憶を伝える者>が老人なのは、設定上自然なことである。
彼が年老いたからこそ、後継者のジョーナスが選出されたのである。
しかし、表紙になぜジョーナスのモデルとなるような少年ではなく、
老人であるネルソンの写真を用いたのか。
それは、題名が「The Giver-記憶を伝える者-」だから、という、
たった一つの単純な理由によるものではないような気がする。
思うに「老人」という存在を「記憶」そのものに見たてているのではないだろうか。
年を取れば人間の中には自然と記憶が蓄積されていく。
いくら画一化されたあのコミュニティーの中だとしても、一人の人間が生きて死ぬまでには
その人の中にはその人にしかない記憶が蓄積されていくはずなのだ。
それは当然時間を追う毎に密度を増していく…。だからこそ表紙には「記憶」を連想させる
「老人」の写真を使ったのではないだろうか。年老いた人間は、それだけで記憶そのものなのである。